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転機

平成14年。

当時27歳だった自分は、首都圏で働いていた。所属する部署は仲が良く、忙しくも楽しい毎日だったと思う。この頃には、家族、友人、自分の部署にはカミングアウトしていて、周囲も当たり前のように接していた。自分のセクシャリティは話題に上るが、特別扱いもされない、とてもありがたい環境だった。

この頃には、交際を始めて丸2年くらいの、初めての彼氏もいた。自分が新宿二丁目に出始めた頃に出会った人だ。彼も周囲にカミングアウトしていて、異性愛者の友人達に「僕の彼氏です」と紹介されることもあった。しかし、両親にだけは言えなかったそうで、彼の実家に行くときは職場の後輩ということになっていた。

彼氏は18歳から二丁目に出ていたベテランで、店子の経験もあり、友人もかなり多かったようだ。一方で、いわば新人の自分に「まだ汚れていない」と嫉妬することも多かった。今なら言っている意味がよく分かる。
当時、自分には同性愛者の友人がまだ居なかったので、二丁目に飲みに出たかったが、彼があまり良い顔をしなかった。それでも、長い説得の末、彼の友人達のお店なら…と、厳選された場所に独りで通うこととなった。

許可まで取って通っていた二丁目だったが、話題はテレビ、アイドル、歌謡曲、アニメ、色恋の噂が中心で、幼少期からどれにも興味があまりなかった自分は、正直、馴染めていなかった。 
釣りとか、貧乏旅行とか、哲学とか、楽器とかは、彼の指定した店ではどうもマイナーな話題らしく、そもそも「はしゃぐこと」にも繋がらないものだった。そりゃそうだ。

周囲が自然に使いこなすウィットの効いたオネエ言葉も自分には難易度が高く、使わずにいると非難され、釈然とせずに帰路につく夜もあった。
良い人たちもいたが、自分が変わり者だったことと、抑圧からの自由をどこかこじらせたような複雑な空気を感じたことで、二丁目から徐々に足が遠のいた。

そんなわけで、異性愛者の友人達と気楽につるむことが再び増えたが、友人がいい男だと、彼氏からいくつか禁止令が出た。宅飲みの後に泊める、泊めてもらう、などはもってのほかだ。当の友人は「愛されちゃって大変だな!」とコロコロ笑っていたが、たまに「本当にそれでいいのか?」と真面目に聞いてくることもあった。でも、当時はそれでもよかった。「男性と交際する」ことができたのだから。

既にアメリカ同時多発テロも起こり、日本も漠然とした不安に覆われていた頃だったが、個人的には、セクシャリティに嘘も罪悪感もない幸せな日々だった。

この日々は、ただひたすら、周囲の受容から始まったものだった。ここから遡ること約4年、両親へのカミングアウトが大きな転機だった。
弱った事情を何も聞かず、実家で自分を温かく支えてくれていた両親に、きちんと話しておこうと考えたからだ。大学時代の友人達も「後悔のないように」「もし追い出されたら、うちに住んでいいから」などと、背中を押してくれた。
祖父もそれに加わった。何故か、実家暮らしの一年間、九州から毎月のように手紙が送られてきた。そこには「折角、両親のそばで再び暮らすのだから、今まで言えなかった、ずっと苦しかったことを伝えてもいいのではないかな?」のように書かれていた。祖父は何かに気づいていたのかもしれない。

もともと柔軟な考えの母は、あっけらかんとして励ましてくれた。
生態学の研究者だった父は、うんうんと頷きながら「他の生き物でも同性愛は当たり前のようにある。人間だって生き物なんだから当然だ。何も気にすることはない」と静かに励ましてくれた。その言葉がうれしくて、でも、どうしても、どうしても悲しくてたまらなくて、えぐえぐと泣いた。

皆に支えられた末に迎えた平成14年には、世界はすっかり変わって見えていた。ようやく、自分も世界もそれほど歪めずに見られるようになった気がした。
そして、悩んだ末に、彼氏とは別れた。
別れ際に「初めての彼氏として、いい思い出が残るようにできるだけ頑張ったよ」と言われたのを覚えている。いま思い出しても「彼氏ができたら一緒にやってみたかったこと」に、殆ど付き合ってくれたと思う(とは言っても、新橋のガード下で飲んでみたいとか、一緒にそば打ち体験をしたいとか、お外でしてみたいとか、だいぶ地味だったが)。
戸惑うこともあったが、誰とも付き合ったことがなかったうえに、ちょっと変わり者の自分を扱っていた彼の方が、ずっと大変だっただろうに。今でも時々思い出しては、じんわりと感謝している。


この頃は、中学時代から自分を支えてくれた音楽からは離れていた。おそらく、セクシャリティに関する葛藤が少なかったからだろう。
この後、音楽は葛藤のぶつけどころではなく、純粋な楽しみとして復活して、多くの同性愛者との繋がりを作ってくれることになる。

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