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1.教会への招き

 私は、現在弁護士をしています。弁護士になるためには、司法試験に合格しなければいけませんが、私は合格までに何度も試験に落ちました。
 司法試験に受かるためには、法律の解釈に関わる様々な論点を学び、論点に対し、結論と理由付けを把握しておく必要があります。
 そうした論点を学べば学ぶほど、どちらの主張にも一理あり、決め手のなさを感じていました。
 そして、不合格の経験を繰り返していく内に、それまで持っていた自信もどんどん失われていき、自分自身の存在についても、頼りなく感じていました。
 自分の中に確かな価値感がないことを漠然と感じるようになっていたのです。
 そのような折、重大な後遺症がありながら活躍されている星野富弘さんのエピソードや、結核の苦しい状況を糧にされて活躍された三浦綾子さんの著作などに触れ、そうした人々の支えになっているというキリスト教に関心を持つようになっていました。
 私は、両親からの支援を受けて受験を続けていましたが、後にそれも受けられなくなり、一旦就職して専門学校で働くようになりました。
 その専門学校では体験入学を定期的に開催するのですが、私もそこにかり出され、キリスト教系の大学から転入した学生さんも学校紹介のために手伝いに来てくれていました。
 その学生は、「自分はクリスチャンだ」と紹介してくれ、私は、彼に対し学生時代にヘンデルのメサイアを歌ったことがあることや、キリスト教に関心があるという話をしました。
 彼は、私の話を聞き、「教会行ってみます??」とうれしそうに声を掛けてくれました。
 突然のお誘いで、冗談かなと思った私はとっさに「またの機会に」と答えてしまいましたが、彼が私の応えに対して見せた少し寂しそうな反応が心に残り、彼が本気で誘ってくれていたことが伝わってきました。
 名前も忘れてしまったけれど、そんな小さな出会いや一言が私が教会に行くことに繋がっていきました。 
 ときが流れて自分が友人を教会に誘ったとき、友人が本当に来てくれるのだろうか心配しながら礼拝の時を待ちました。友人が約束通り教会に来てくれた時、本当にうれしく思うとともに、声を掛けてくれたあの学生さんのことを思い出しました。教会に関心を持っていると聞いたときの大きな期待感。その気持ちの深さをずっと後になって、自分でも理解できるようになりました。
 そして、教会に行くことを断られたときの喪失感の深さも同時に分かるようになりました。
 きっとあの時の学生さんは私のために祈ってくれてたのではないかと思います。
 あの時の学生さんへ。
 私のために祈って下さってありがとう。
 私は、あなたが誘ってくれた教会には導かれなかったけれど、あなたの祈りは聞かれ、私は教会へと導かれました。
 そして、今は教会で神様の証をし、友人を誘うところまで来ました。
 あなたは祈りを聞かれた姿を見ていないでしょうが、あなたの祈りはきっと聞かれたのだと思います。
 どんな形で祈りが聞かれるか祈っている側には予測もできず、また聞かれたかどうかを、すぐには知ることもないかも知れません。
 もしかすると天で初めて自分の祈りの結果を知ることになるのかも・・・。
 それでも、誰かのために祈ること。それがとても尊く、美しいことなのだと思います。

「あなたは、身ごもった女の胎の中で、どうして霊が骨にはいるかを知らない。そのようにあなたは、すべての事をなされる神のわざを知らない。」

(口語訳 伝道の書11章5節)

 画像は、さっとんさんのものを使わせて頂いてます。


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