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10.信仰を持ってから洗礼を決意するまで

 9.の祈りの経験や、それまでの出来事を通じて、神様を信じてみようと思っていた私は、そのことを牧師先生に伝えました。
 するとその後、教会の役員の方がニコニコしながら話しかけてきます。「洗礼を受けようよ。」

 この時、素直に「では洗礼を・・・」と答られると良いのですが、私の心には、どうにもスッキリしない思いがありました。「聖書には信じれば救われる」と書かれてある、だったら洗礼を受けるというのは外見だけの話では?「自分は信じて歩めればそれで良いんだ。」そんな思いが強く私の心に引っかかっていました。

 今振り返ってみるとそうした思いは、まだまだ自分で何とかしようと思う傲慢さが残っていたのだと感じますが、その時は真面目にそんなことを考えていました。
 そして、その役員の方には、「もう少し考えさせて下さい。」と言って洗礼を遠回しに断ったつもりでした。

 しかし、そのような回答をして教会を出たものの、ふとした瞬間に「洗礼を受けようよ。」と声を掛けられたのがリフレインのように頭に浮かんできます。
 その度に、「でも信じれば救われるって書いてあるし」と打ち消そうとするのですが、しばらく、するとまた同じように頭に洗礼のことが思い浮かぶ・・・。
 それから次の日曜日の礼拝が来るまでの間、頭の中で、ずっと同じやりとりの繰り返しで煩悶とし、次第に中々寝付けないというところまで、思い煩うことになりました。

 そのような中で、私はこのような悩みを続けること自体がしんどくなるのと同時に、なんだか一生懸命になって自分の意見を握りしめようとしている自分が可笑しくなってきました。

 4.や6.の記事で書いたように、自分の力でどうしようもない状況に陥って、捨て犬みたいな惨めな気持ちで教会を訪ねて、あんなにボロボロと泣いていた。
 そして、あの目の見えない方たちの讃美を聞いて、自分もあの人達が見ている神様を仰ぎ見る新しい歩みをしてみたいと心から願った。
 それなら、ちっぽけな自分のつまらない拘りで悩み続けるのは滑稽ではないか、古い自分に別れを告げて新しい歩みを始めたいなら、洗礼のことも含めて神様が求めることをしてしまえば良いんじゃないか、と思い直すことにしました。

 そして、翌週の日曜日の礼拝の後、例の役員の方が、相変わらずニコニコしながら「洗礼受けようよ」と声を掛けて来られます。

 このとき、私は「はい。受けさせて下さい。」と答えたのでした。

 ・・・負けた。一週間も自分の考えを貫けなかった。

 でも、なんだか、とっても軽やかで晴れやかな気持ちになりました。
 一週間グズグズと思い悩んだけれど、最後は、エィって洗礼に向かって飛び込む決断をできたので。

 そして、その後の歩みを振り返ってみて、この時洗礼を受けたことは、とっても良かったと思っています。 

「イエスの愛しておられた弟子が、ペテロに「あれは主だ」と言った。
シモン・ペテロは主であると聞いて、裸になっていたため、上着をまとって海にとびこんだ。 」

(口語訳 ヨハネによる福音書21章7節)

画像は、good-sun(a03)さんのものを使わせて頂いてます。

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