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【続けるということ】

■天才とは
天才とは努力を継続できる才能のこと。
こう考えたとき真っ先に思い浮かぶのは元メジャーリーガーのイチロー。本やインタビュー記事やドキュメンタリーを見るにつけ、イチローは努力を継続できる天才だと思ってきた。
輝ける対象や輝ける機会は、どんな人にでも訪れる。しかしその輝きを可視化できるレベルまで持っていくにはたいへんな努力を要する。

■「好き」を深め、広げるには
好きなだけでは続かない。これもよく言われること。これは、好きのレベルが停滞、減退してしまい結局やめてしまうということなのだろう。
好きのレベルを深めたり広げたりするには、次の三つが要る。
継続するための工夫と、その際の視点のずらしと、練習や訓練などの実際の行動。
この三つがなければ、そのうちに飽きたり自然消滅したりしてしまうことになる。

■好きでたまらないだけ
イチローの素振りは、仮説と検証の繰り返しが行動として現れたものだ。
こうしたらどうなる?ここを変えたら何がどう変わる?をやってみて、考えてまたやってみて、というサイクルが楽しくて仕方なかったんじゃないかと推察する。
ハマったのだ。ハマると、それをやること自体が楽しくて仕方ない。気付いたら寝食を忘れてやってしまっている。本人は努力していると思っていない。
冒頭に、天才とは努力を継続できる才能のことだと書いた。他者はそれを努力と呼ぶが、本人は努力だと思わずに、上に書いた三つのことをひたすらやっているだけ、というのが真実なのだと思う。

■作曲
私の場合、それは作曲。
一年ほど前のある時期、半年間ぐらいは1日も欠かさず作曲していた。平日も土日もない。毎日10分でも15分でも、クラシックギター(稀に鉄弦ギター、セミアコースティックギター、エレクトリックギターたち)を抱えて曲を書く。熱狂の時代。
仮説と検証のサイクルを回す。一瞬の閃きを捕まえて書き留める。曲が完成しなくてもいい。俺、作曲のセンス無いなあ、などと思うヒマがあるなら、とにかく曲を書きまくる。
やり続けているとある時、突き抜ける瞬間がある。そこからは喜びが加速度的に増していく。結果的に、私に喜びをもたらしてくれる曲が実際に書ける。

■誇りになる
私は毎日作曲を続けることができた。
私は私に喜びをもたらしてくれる曲が書けた。
たとえ人が私の音楽を認めてくれなくても、作曲を続けられた過去と、私は続けることができたという誇りは消えない。だから、次もできると思える。この誇りが次の熱狂のエンジンになる。続けた先に見える景色を私は知っている。
その景色に、他者の評価は侵入してこない。
自己評価も他者評価も優先しない。ここまでやめずに続けてこられた私の歴史=誇りを最優先する。
ここまでくれば、冒頭に書いた、天才かどうかなんて、言い換えると才能があるかどうかなんて、もう完全にどうでもよいことで、一千万光年ぐらい彼方に置いておけばよいのだ。

■次もできるはず
工夫と、視点ずらしと、行動、の三つ。
「言い訳は要らない。兎に角、取り敢えずやる。毎日続ける。」
行動する人には、その人なりの次の景色が必ず待っている。この真実の前では、アマチュアかプロフェッショナルかという線引きに価値はない。

好きなことは続けられる。
逆に、続ければ好きになる。

続けるということ。

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#わたしが私として生きるためのエッセイ 39
#息をするように音楽をする
#日常は日常のままで別次元
#嬉しい作曲
#限界芸術としての音楽
#遅く生きる
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