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【自信はないが誇りはある】

作曲することは生きること。
作曲=音楽をすることは仕事でも趣味でもなく、日々の暮らしそのもの。そう自覚した。

そのときから今まで、いや、そのときよりずっと以前まで遡って思い返してみても、私は自分に自信を持ったことはないし、自分の音楽に自信を持ったこともない。

喜びの増す方へと向かう。
私の行動原理。

自分に自信を持つことは、喜びの増す方へと向かう暮らしに馴染まない。だから、軽々に自分に自信を持ったりしないように、注意深く踏みとどまっている。

では私は、今日まで何を頼りに生きてこられたのだろうか。

真っ先に思い付くのは、音楽がもたらしてくれる喜びだ。アンテナを張り巡らせ、触手を伸ばし、世界の音楽を貪るように聴いた。ほどなくインプット過多の時期が過ぎ、聴くことから音楽をつくることへ。

私にとっての新しい音楽がこの身体から生まれてくる過程、つくることの試行を繰り返した結果として形にすることができた楽曲、この過程と結果の両方に喜びがある。
自分の音楽をつくる/音楽をつくった喜びがぐるぐると円環しながら、稀に音楽がループから少し飛び出してしまうことで、更なる喜び/思いがけない異種の喜びが生まれてくる。
音楽が生きている。
作曲することは、私が私として生きていくためのエンジン。音楽をつくることは日々の暮らしそのもの。

音楽の喜び、そして誇り。
自分の音楽に自信が持てるかではなく、誇りが持てるか。
コピーバンドのメンバーに加えてもらい、10代でエレクトリックギターを手にしたものの思うように弾けず、バンドスコアのページを閉じて、早々に曲を書くことにシフトした。以来このかた、誇りが持てるか否かは考えず、ただ、いい曲を書こうとだけ思って作曲を続けてきた。

自信と誇りは、何が違うのか。

自信は、他者評価によって強まりもするが揺らぎもする。他者の言動によって自信が粉々に打ち砕かれるときもある。
また「私は自信がある」と言うとき、他者との比較が意識されているようにも思う。
私にとって自信は「自らを信ずる」という漢字の字義からずれた、他者依存の性質を帯びている。

一方、誇りは、他者評価/他者依存から独立している。
自分が、自分のやってきたことと今やっていること、そして自分の考えを、誰の評価にも影響されずに愛でて、祝い、喜ぶ。
この行為の全体から生まれる確かなもの。または次の私の行動を根っこから支えてくれるもの。
それが私にとっての誇り。

他者が要らないのではない。
もしも他者が要らないのなら、そもそも人間の命の連鎖を否定することになるし、他者との関わり/繋がりがなければ、そもそも表現は生まれない。

表現における誇りは、技量の高低、知識の多寡、センスの有無という尺度で測られるものではない。技量、知識、センスから独立している。

表現における誇りは、自分自身の行動と思考/試行によって育てるもの。
私の人間としての存在自体と私の行動に対して生まれるもの。私の人間としての存在自体と私の行動を根っこの部分で支えてくれるもの。

私の音楽は、私の誇り。
音楽は誇りだとするならば、上に書いたことをそのまま音楽に当てはめて「音楽は、技量、知識、センスで測られるものではない」と言うことができる。

私がつくる音楽も、世界中の誰かがつくる音楽も、音楽はすべて、技量、知識、センスで測るものではない。
これは、音楽を「日々の暮らしと地続きの、人間の音楽」であると捉えた場合の価値観。

私は「人間の音楽」にいつも心惹かれる。
人間の音楽に、そもそも良い/悪いは無いし、上手い/下手もないし、音楽的な理屈も音楽的センスもあっても無くてもよい。
私が心惹かれるこの人間の音楽は、商業音楽とも、芸術音楽とも、違う価値観なのだろう。

以上の、自信と誇りについての考え含めた新曲「届かなくても」を昨日、提出(アップロード)した。

【届かなくても】ミュージックビデオ
-2021年9月26日 自宅録音
-2分08秒
new song “even if I don't get there”
-09/26/2021, home recording
-time 2:08
-fujisaki hirokazu:guitar, voices, recording, video creation

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