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【暮らしの手綱を私が握る】

■なぜSNSを使うの
他者からの反応(いいね!)の多寡と、反応(コメント)の内容と、フォロワー数や友達の数に、私の感情が左右されないようにする。

他者と中身のあるやりとりがしたい。この唯一の欲望を満たすために、私はSNSを手段として使っている。

他者の反応の数ではなく、やりとりの内容が大切なのだと自ら定めている。定めているはずなのに、投稿へのいいね!が少ないと、不安になったり物足りなさを感じたりする。

■意志と動機が
それでいいやんか。
内容のあるやりとりが、私のSNS投稿から生まれたらいいんでしょ?そんな簡単に良いものが次々と生まれてくるわけないやんか。そうやろ?
そう。まったくその通り。

他者の反応に左右されないという意志と、他者と内容のあるやりとりがしたいという動機。
他者の反応に一喜一憂し、意志は揺らぎ、動機が霞む。落ち着かない。意志も動機も揺さぶられっぱなし。そんな自分が嫌になりかける。

■諦観と謙虚さ
そこで考える。
・人の関心領域は各人で全く違っておりそれこそが豊かさだという、肯定的な諦観
・私の熱狂は私だけの熱狂であり、他者にとっては何物でもない。それが常態だという事実を知っておく謙虚さ
おそらくこの二つが、私がSNS的自己嫌悪から抜け出すためのキーワード。

この諦観と謙虚さを前提にして、それでも絶望せず、「私が望むやりとりの中身とは何か」を整理し、その上でSNSで発信する。そうすれば、他者の反応に無闇に感情を掻き回されずに済むのではないか。

■即応する感情への反逆
感情は理性に常に優先する。抗えない脊髄反射。
他者の反応に、感情で即応してしまい、ひとりで勝手に慌て、不安になり、乱されてしまう。

それに反するため、脊髄反射の速度を意図的に遅めて、丁寧に暮らそう。暮らしの中にSNSをナチュラルな要素として取り入れよう。SNSに私の暮らしを組み入れるのでは決してなく。

なぜなら、私の暮らしの手綱を握っているのは私自身なのだから。私の喜びは、私の身体と私の脳を使って、私が行動することによってつくるものだから。

手のひらをひらけ。

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#わたしが私として生きるためのエッセイ
#息をするように音楽をする
#日常は日常のままで別次元
#fujisakihirokazu

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