で、卒論何書いたの?

卒論を提出しました〜〜〜〜〜
準備期間1年もあったのに、結局必死で書き始めたのが部活引退してから提出までの約1ヶ月だけだったのでクオリティはお察し...という締まりのない感じですが、とりあえず卒業はできるだろうと信じてます。実感わかないけれど。

書き終えて提出して、先生からのコメントも貰って(的確すぎて失血死するかと思った)、改めて考えてみると私は中学生の頃から本当に同じところをぐるぐるしているんだな〜と思ったので、「卒論何書いたの?」って訊いてくれるごく僅かな友人たちに向けて、「はじめに」のはじまりみたいなところを簡単に書いておこうかと思います。というか卒論後に予定していた旅行が全部無くなってしまい、バイトして銀魂見てご飯食べて寝るだけの毎日で既に脳味噌劣化し始めてるので、忘れる前に書き残しておこう、っていうアレです。銀魂の映画観に行くために、シリアスエピソードだけ全部見返そうかな、と思って大好きな一国傾城篇から見返してるんだけど、シリアス観ちゃうとギャグで中和したくなって周辺のエピソードも見てしまうので、全然先に進めなくて困ってる。もう逆に全367話見返そうかな。どうでもいいけど私と銀魂の出会いは、小学生の頃突然クラスの男子から「始末屋」と呼ばれ出したことでした。

話を戻そう。私の問題意識は「この世界は下克上が起こり得るか」というところから始まっている。最初に思ったのはとんでもなく頭が良くて都内の一等地に住んでいてお金持ちな同級生たちとの出会いだった。中学一年生にして、学力が高いということと出身階層の高さに強烈な相関関係があることを知った私は、母校の大学受験成績の良さにも「そりゃ中学受験塾に3年通って中高一貫私立に進学し、かつ6年間Fe会に通って勉強し続けたら大学だって合格できるでしょうよ」と内心噛み付きまくりだった。

なぜ「生まれ」でこんなにも有利不利が決まるのか、という問いは、今思えば家庭環境がゴタゴタしていたことからのただの逃避だったのかもしれない。でも当時はとにかくそのことが気に入らなくて、国内の教育格差から世界の飢餓問題まで、手広く腹を立て、怒っていた。高校生の頃は貧困家庭の学習支援ボランティアを調べてみたり、発展途上国の食糧支援をするNGOの勉強会に行ってみたり、カンボジアで医療支援してる人に話聞いたり、いろいろやってた。そういえばJICAのエッセイコンテストに応募してみて賞獲ったりもしたな。賞品で貰った大量の民族工芸品は捨てるに捨てられず今もクローゼットの奥底に眠ってる。

その後時は流れて大学2年。「生まれ」による格差への問題意識を根本に抱え、開発経済か社会階層論がやりたい、と思って進学した先で出会った2冊の本によって今までのモヤモヤした怒りが整理され形を変えていった。

1冊目は佐藤俊樹『不平等社会日本』(2000)。
2000年前後から始まった「格差バブル」の火付け役の1つで、橘木俊詔『日本の経済格差』(1998)と共に格差論の概要を語られる時には絶対言及されるような、社会階層論の分野では有名な作品。そういえば財務省が出してる月刊誌的なやつの中で引用されてた時に『不平等日本』ってタイトル間違えられてて、「ふざけんなよ!?」って思った。ファンなので...

ざっくりいうと、職業の世代間継承をデータを用いて、「日本は努力してナントカなる」社会のように感じるけれど、実際は「努力してもナントカならない」社会なんじゃないの?っていう疑惑への回答を試みている。主張の内容については賛否両論あり、社会学の専門誌でも当時かなりバチバチしたらしいのだけど、私が衝撃を受けたのはそこではなく、サラッと書かれていた「エリートの自己否定」という概念だった。親も高学歴の高階層出身の「相続者」たちは、自分の成果を既得権益込みで「実績」とし、人生の選択という経験の希薄さとあいまって「実績」という言葉の意味を曖昧にし、空虚なものにしていく。それによって「実績」は何かができるはずだという責任を伴う資格という意味を失い、単なる既得権へと変質していく。つまり「実績」自体が既得権益化していく。このような責任の空虚化は、エリートらによるメリトクラシー自体の否定に繋がる。高度に平等かつ公平な日本のペーパーテストは、選抜そのものが空虚なものなのだ、という言説を生みやすい。そして「自分は能力があるのではなく、テストで点を取るのが得意なだけなのです」というエリートの自己批判は、選抜の敗者を加熱させる重要な役目を果たしており、メリトクラシーの仕組みを維持するための重要な要素となっている。いわば、社会がエリートに自己否定を強いていると言っても良い。

私が昔から抱えていた「生まれ」による格差への問題意識は、裏返せば「どうして自分は今ここにいられるのか」という問いでもあり、そしてそれは突き詰めれば「エリートの自己否定」だったのかもしれない。ひえ〜〜〜〜。これ以降、私の関心はどうすればエリートの自己否定を乗り越えられるのか、そして今後どうなっていくのか、ということに移り変わっていった。

そしてほぼ同時期に出会ったのが、これも教育社会学を少しでも齧った人であれば知らない人はいない超有名論文、竹内洋『日本のメリトクラシー』(1995)。
授業で扱ったのはラストの結論部だけだったのだけど、好きすぎて単行本買った。学術書が高いことを知った。そして何故か買ったのが16年出版の増補版ではなく旧版なので、増補版も買おうかな〜と思っている。追加版のあとがきがとても良い。

『日本のメリトクラシー』では、そのタイトルの通り、日本におけるメリトクラシーの実態を解き明かそうとしている。「メリトクラシー」がどれくらい一般的な名詞なのかわからなくなってしまったので簡単に説明しておくと、元はイギリスの社会学者マイケル・ヤングが造った造語で、日本では能力主義・業績主義と訳されている。(能力主義という訳が主流。でも本田由紀(2020)はメリトクラシー=能力主義と訳すことに対して問題提起している。これもめちゃくちゃ面白い)どのように社会が支配され、運営されていくかという概念の一つで、「生まれ」や「身分」ではなく、「能力」と「業績」によって社会的地位を決めていこうね、という原理を指している。

「能力」っていうのはだいぶ抽象的な概念なので、完璧な定義というのは難しい。だからこそ究極のメリトクラシーは空想の中でしかあり得ないし、それはある種のディストピアとなる。ちょっと逸れるけど遺伝子で全てが決まる世界を描いたSF映画『ガタカ』は本当に傑作だと思う。大学4年間で出会った衝撃的だったもの、ここで挙げた2冊と『ガタカ』だわ。あの大量に車が通る大通りを霞んだ視界で必死で渡るシーンで胸が熱くなる。ぜひ観てください。で、『ガタカ』の世界では遺伝子で判定されていた「能力」の指標を、日本ではとりあえず「学力」で代替させてきた。学力を持っていることの証明として「学歴」が重視される世の中だからこそ、我々は美容院で学割を使うために学生証を見せただけで「東大生なんだ、すご〜い!」と言われる訳だ。あなたは私のことを何一つ知らないのに。

メリトクラシーの基本は選抜だ。社会的背景に関係なく、幅広い層から優秀な人材を発掘するために教育が全ての人々に開かれ、そして選抜されていく。1990年代までの日本は欧米に比べると異様なほど国民全体が選抜に対して加熱される「マス競争社会」であり、従来のメリトクラシー理論では説明しきれない部分があった。『日本のメリトクラシー』はそのような日本独自のマス競争社会の原因を解き明かす形で日本社会に切り込んでいき、日本では「御破算型上昇移動」と呼ばれるトーナメント型の選抜における敗者復活戦があることによって、競争への再加熱が起きるのではないかと説明している。御破算型上昇移動は簡単に言えば、高校受験では第一希望のA高校に落ちたけれど、第二志望で行ったB高校で自分は上位層となって次の選抜(=大学受験)に対して再度加熱され、第一希望のC大学に入学することができた。A高校の人々は高校受験の時には自分よりも上位だったけれど、C大学には落ちている人もいる。みたいな感じ。偏差値によって輪切りにされた日本の高校階層構造はトラック内部でのアスピレーションの再加熱を巻き起こしやすく、それによって起きる御破算型上昇移動によって人々の気持ちは冷却されることなく加熱に向かっていた。

竹内洋は最後にこのような日本型のメリトクラシーが生成する人間像を、選抜に通過すること自体が自己目的化し、野心の空洞化状態が発生している・常に目の前の選抜を通過するためだけに努力を重ね、そうして出来上がった受験型人間像は気の抜けた魂であり気の抜けた知性である、と述べていた。耳がいて〜〜〜〜〜〜。こうして気の抜けた魂・気の抜けた知性であることを認めたくない「エリート」が、「こんな自分が社会的上位の地位にいるのは、自分に能力があったからではない、環境のせいだ。選抜方法のせいだ」とその責任から逃げるのがまさに「エリートの自己否定」として現れていく。もっと言ってしまえばこのように竹内洋自身が「エリート」を評価すること自体が「エリートの自己否定」ともいえる。だって彼は京大卒の学者なんだから。

やばい。気が付いたら4000字を超えてる。さらっと書くだけのつもりだったのに。急に飽きてきたのでここからは駆け足どころかダッシュで書きますが、こんな感じで「生まれ」による格差への問題意識が「能力」を基軸とした日本の社会システムへの疑問に移り変わっていき、『日本のメリトクラシー』を再構成したい。と思って卒論を書いたわけです。ざっと自論を書いとくと、今後階層の上下の分断は進んで、従来型のメリトクラシーの周りに小火山みたいな感じで別の能力尺度を持ったトーナメントが林立していくんじゃないかな、と思っている。この辺は計量データも何もないので、完全に仮説の域、いや妄想の域を出ないのだけど。そして結局一番言いたかった今後の「エリートの自己否定」に関しての結論部は辿り着く前に力尽き、しっかり先生にも突っ込まれてしまった。ですよね〜〜。来年卒論書く人に心の底から伝えたい。計画的に書いた方がいいよ。

というわけで大学4年の1年間は部活も卒論も中途半端、というなんとも不完全燃焼な終わり方になってしまったんだけど、渦中にいるときには精一杯やってるつもりなんだから、終わって「もっとできたな」と達観するのは「最中」の自分に失礼だ、という謎理論で納得している。そろそろ「全力」とか「一生懸命」とかいうワードに囚われるのを卒業したい。

恐ろしく尻すぼみだけど飽きたのでこの辺で。途中で力尽きてる下書きがいくつか見つかったので、春休みはちょこちょこ文章書きたいと思っています。

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