【レビュー・十二国記】短編集「丕緒の鳥」

出版された順に読んでるので慶国三人娘を読み終わって次に手を出したのが十二国記シリーズの一話完結短編が四篇まとめられている「丕緒の鳥」です。今回はこの四篇の最初の話で表題作でもある「丕緒の鳥」がめちゃくちゃ共感できる内容で感動したので紹介したいと思います。

あらすじ

国家の祭祀吉礼に際して催される「大射」。陶性の鵲(カササギ)を宙に放り、それを弓で射って割れる鵲の破片が落ちる音で音楽を奏でるという芸術的な儀礼。主人公の丕緒は慶国において「大射」を企画し祭礼の音楽を考案する「羅氏」であり、既に3代の王に仕えているベテランの芸術家ではあるが、かつて肩を並べて大射の研鑽に励んできた師匠や同僚は先王たちの理不尽な処罰によりこの世を去ってしまっている。ある理由から仕事も無く、また孤独感から塞ぎ込んでしまっており、長らく陶鵲も作っていない。

そんな中舞い込んできた仕事の依頼は「近々新王が即位するので大射を準備せよ」というもの。新王も女王と聞いて失望を露わにするも重い腰を上げて過去の記憶を呼び起こしながら大射の準備を始める。

以下感想

過去の丕緒は師匠が刑死した悲しみから陶器とはいえ鵲を射ち落す行為に残酷性を感じ、一方的に殺される鵲に圧政に苦しむ慶国民の姿を重ねます。本来祝祭の儀式であるべき大射に独自の解釈と工夫を重ね、まるで本物の鵲を射ち落すかのような陶鵲を作成しますが、その結果先代の予王は大射を不吉なものと感じてしまい、 以来大射は行われなくなります。

丕緒の望みは自分の作り手としての意識と受け手の意識のシンクロニシティです。彼は「作り手」として大射を通じて王に慶国民の苦しみとあっけなく散る生命を感じ取って欲しかったのですが、本来の目的から余りにもかけ離れた大射は「受け手」である観衆から(特に自分が王であるとの現実を直視出来ない予王には)見たままの凶事、つまりは殺戮と捉えられてしまいました。理解されないことに失望し、他者の現実逃避を非難する丕緒でしたが、彼もまた「受け手」として理解を拒み、現実から目を背けていた事が明らかになります。

それが後に予王によって処断される同僚、蕭蘭の存在です。彼女は陶鵲職人の「羅人」なので羅氏である丕緒の希望通りに陶鵲を作成していました。彼女は師匠の刑死によって悲観的になる丕緒とは対照的に作中で梨の花に形容されるように楽観的な人物です。陶鵲にも彼女なりに華やかにせんと工夫を込めようとしていましたが丕緒が自分の解釈を貫いたためお蔵入りになります。彼女は陶鵲の製作に没頭する自身と市井の民を自分と重ね合わせ、丕緒とは別の視点から見た民に希望を持ち続けますが丕緒は最後まで彼女の望みを聞き入れませんでした。

「意外に民もそうかもしれないわよ?あなたが哀れんでいるおかみさんは、 王がどうとかより、今日の料理は上手くいったとか、天気が良くて洗濯物がよく乾いたとか、そういう事を喜んで日々を過ごしているのかも」「丕緒の鳥 p48より」

彼女の弟子、青江によって現実から目を背けていた自分に気がついた丕緒はかつての蕭蘭の意見や青江の意見も取り入れ新王の大射を無事こなします。ですが彼の創作意欲は既に失われており、納得のいく作品が出来たことに満足して羅氏の官を降りようとします。自分の無理解を自覚したものの作り手としての希望は満たされなかった訳ですがそこで新王から呼び出された彼に慶王は言います。

「できれば一人で見たかったな、鬱陶しい御簾など上げて。もっと小規模でいいから、あなたと私だけで」「丕緒の鳥 p70より」

これめちゃくちゃ良い誉め言葉ですね…。

丕緒は陶鵲をもって語る。王はそれに耳を傾ける。語り合いたい、と王の言葉は言っているように思われた。「丕緒の鳥 p71より」

作り手が込めた思いを真摯に受け止め、解釈し吸収する。丕緒が理想とする「作り手」と「受け手」の構造が陽子との間で作られた事で、創作意欲が尽きたと思われた丕緒の脳内に次々とアイデアが沸き起こります。これは勝手な妄想ですがおそらく陽子は陶鵲から感じ取ったものを施政に活かすことでしょう。末尾は「慶の新しい王朝が始まる」とシンプルな締めですが、慶国や丕緒にとってはとても希望に満ち溢れている一文に思えます。

パトロンとまでは言いませんが、受け手と自分の創作物を理解してお互いに語り合える関係を持てた作り手って単純に数売れる事よりも幸せかもしれません。「丕緒の鳥」はそんな作り手の理想を実現させた男の話ですが、作者の小野不由美さんの願望のようでもあり、数多いるクリエイターの全てに置き換えても成立する傑作でした。

どんどん面白くなりますわ十二国記…これ全部読むまでテンション上がりっぱなしかも

ではおやすみなさい

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