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教科書には一貫してキャラクターが現れる理由

中1~中3用数学教科書を先日中古で手に入れて目を通したところです。

譲ってくださったのは、お隣の市の、今年3月に中学校を卒業された女の子です。小6のときに、とあることで市から表彰されたよゐ子さんです。教科書のあちこちにペンで律義に書き込みがされているのがほほえましいです。


この教科書には、一貫して二人の生徒さんが登場します。いわゆるキャラクターです。男の子と女の子。

数学という教科は、どうしてもだんだん日常生活から乖離していきます。それを補うために、日常でありそうなシチュエーションを用意して一次関数のありがたさをお話じたてで分からせる工夫をしているのが印象的です。

それでは足りないということなのか、中学生の男の子と女の子が出てきます。

そして二人で議論したり、数学が絡む日常シチュエーションに遭遇していっしょに考えたりする体裁になっています。

数学はブルバキが体系化したものがあって、それは日常とはおよそ無縁の世界にあるものです。そこから富士山の裾野が広がっていくようにして、高校、中学校、小学校の数学・算数が編制されています。

けいたくんとかりんちゃん、そしてつむぎというピカチュウともドラえもんともつかないガイドが、抽象富士山と、日常との絶望的な乖離を、なんとか埋め合わせようと奮闘するのですこの教科書。


生徒さんたちはやがて気づいていきます。日常とは無縁の、わけのわからない天下り式の課題が、富士山を形成していて、その先は雲に隠れていて何も見えないんだってことに。

見えるようになるには雲より上の高度まで登らないといけません。それは大学の数学科レベルの高度です。

できればその高度まで魔法の絨毯でつれていって、下界を見下ろさせてあげたい。

しかし、それは高度に抽象的な眺めとなるので、かえっておじけづかせてしまいます。


そんな無茶をさせるくらいなら、かりんちゃんやけいたくんを用意して、ほどほどに恐怖を和らげるほうが実際的なのです。


そういえば国語の教科書には〇〇くんや◇◇さんは登場しませんね。なんでなんだろう?


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