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書評『ゲーデル 不完全性定理』(岩波文庫)

ゲーデルですゲー出る。映画で話題のオッペンハイマーが「人間知性の限界を示した定理」と大間違いな賞賛を送ったという、あのゲーデル不完全性定理の書物です。

ゲーやんの原論文の翻訳と、その訳者解説の二部構成です。

原論文の日本語訳は数十ページで、残りは訳者コンビによるながあい解説です。


この訳者解説がなかなか読ませる。いい味です。ゲーデル論文についての解説として、むしろダフィット・ヒルベルトの数学思想遍歴を語っていくのです。

私が担当編集者だったら「ここ、たぶん読んでる方の大半が脱落しますよ」「ここの解説、ノイマンの自然数定義法を使って19世紀の研究を語っていませんか?ちゃんとそこのところ説明しておかないと、時代が前後しまくりで読む側がついてこられません」等、かなり厳しくチェックを入れていく気がします。


それでも今回再読してみて感心したのは、ゲーデル定理について類書とは違う分類をしていることです。

『数学ガール』あたりで不完全性定理を齧った向きですと、こんな風に理解していると思います。

  1.  数学の形式的体系は最終的には矛盾をはらむ

  2.  数学の形式的体系は最終的には不完全(つまり相容れない結論を真とも偽とも論証できてしまう)


これで正しいのですが、今回取り上げている書物は、違う風に分類しているのです。

  1.  数学の形式的体系は、最終的には矛盾か不完全

  2.  数学の形式的体系として、どんなものを使うかは、人間の選ぶことである


2が私には味わい深い。

現代数学(大学以降で習う数学)は、集合と写像のペアを土台にして体系化されたものです。数学のスーパー・ハイウェイとして。


しかしそれはあくまでフランスの数学者集団「ブルバキ」が、数学立国フランスの危機を背に、起死回生のスーパー・ハイウェイを作り上げて、やがて数学教育のヌーベルバーグとして世界各国の教育機関に採用されていったからグローバルスタンダードになったのであって、究極の数学(の形式的体系)であるからそうなったのではないのです。

多少数学が好きな方なら「圏論」って目にしたことがあると思います。あれはブルバキの体系とはまた違うものです。ひとによっては「上だ」と言い切る方もいそうです。

コンピュータの言語をほうふつとさせます。今どき COBOL なんて使っているのは、システムの完全入れ替えがしにくい銀行オンラインぐらいだと思います。といってこれが欠陥言語だとか他の言語に劣るとか言われる筋合いではありますまい。それと同じです数学の体系も。

前からぼんやり構想していることがあります。数学者たちは、コンピュータの誕生よりずっと前からコンピュータの議論をし続けてきたという史観で、何か語れないかなーというアイディアです。

この分野で認められていった、若き日の父への追悼も兼ねて、いずれ何か論じてみたいところです。



ところで以下のシリーズを先ほど再読。いったいどんな天才がこんなのを書き綴っているのだろうと、めまいがしました。

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