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「定年女子」番外編②

①では最初の職場に入社するまでを書いた、はず。今回はその後、出産退職まで働いていた職場の話。とは言ってもかれこれ40年前の話だから、正確性は今ひとつだと思ってほしい。

1980年春、西新宿の三角ビルと言われた住友ビル、何階だったか…多分9階、当時消防車の梯子がどうにか届くのがそこまで、という話を聞いたような気がする、本当か?そこで始まった仕事、最初に驚いたのが、トレイの上に山と積まれていていたタイプしなければならない書類!今までの人が辞めたのか、それとも仕事量が増えて人を増やしたのか、そんなことを聞くことさえ私はできなかった。9時15分始業、そこから終業の17時15分まで、ランチタイムを除いて電動のタイプライターを打つ日々、これが3ヶ月くらい続いた気がする。その山が減って、ホッとしてやっと周りを観察できるようになったのだ。

配属先は購買部門、当時はパーチャッシングと言っていたような…15名ほどいたかな?もう少し大勢だったかな…その他にマーケティング部という輸入の部署があり、経理部があり、テレックスを送受信する人2名がいて、全体をコントロールするボスとセクレタリー、で当時購買部門にはお茶を入れたり郵便物を配ったりする女性もいたのだ。日本国内のメーカーから様々な部品を買い付けて世界中の関連会社に輸出していく。私はクラークタイピストとして注文書のタイプと発送、ファイリング、日々タイプを打つことがほぼ全てだった。最初の部署は電子部品関係、電線ケーブルから初期の半導体やコネクタ、ほぼ船便で送るために運輸会社の人が常駐していた。そんなタイプ三昧の仕事にそろそろ飽きてきた頃ちょうど2年後ぐらいか…輸出業務のアシスタントに移動して輸出用の書類作成とそのためにメーカーに納期確認やら船会社への予約やら、色々変化に富んだ仕事になった。

その後やっぱり2年ぐらい経った頃だろうか、また移動、移動といっても同じ職場の向こう側からこちら側的な机移動に近かったけど、シニアセクレタリーというポジションになったのだ。上司は購買部門の次長、部長代理?とはちょっと違ったかな。ただ、年に数度か海外主にアジア各国のメンバーが日本に来てミーティングをするのだけれど、そのアレンジはエグゼクティブセクレタリーの女性と私の2人で対応した。当時は西新宿のホテルは毎年のように新しくできていて、そのたびにお披露目的にご案内してもらえたことを思い出す。

日本全体がまだ成長期、給与も年々しっかり上がっていき、取り扱い金額も増えていったように記憶している。そんな中の入社6年後、ギリギリ8ヶ月まで出勤し、臨月は有給消化という形で退職をした。1986年夏のことだった。

だいたい西新宿まで横浜の南端のようなところから2時間近くかかって通っていたことが敗因、産休しか取れない状況、残業も後半は結構多かった、そんな状態で仕事継続は考えられなかったのだ。それでも悔しくて最後のランチ会ではないてしまったのだけどね。

全くもって、昔から考えているようで考えてない、成り行き任せな自分に今更呆れる。次回はまた、思い出した頃、仕事を再開した話を書いてみよう。



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