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「定年女子」のそれから②

ゴールデンウィークだからという訳ではないが、書ける時に書き留めておこうと思う。前回は、自分の中で辞めることを決めた、そこまでを書いた。今回は、辞表を提出してから、実際に辞めるまでの話。といっても既に6年経ってしまったので、うろ覚えのところもあるがお許しを。

2014年12月、社長に辞表を提出した。正直言うとこの辺りのことは全く記憶にない。過去のブログをチェックして年末に社長はアナウンスしたようだ…ということに気付いた。自分のチームメンバーには年末辺りから伝えている、取引先の方々には年明けから少しずつお話しをしていた。そうだったんだね…私。

その頃の私、一週間5日連続で仕事をするエネルギーがなくなっていて、時折有給休暇、そして年末になると発熱、数日ダウン、という状況だった。それでも何とか現場を仕切って?働いて、会社的にも結構大きな課題があってそれにも対応して、、、良く働いていたものだ。そう思っていただけた人は少ないかもしれないけど。

同時に、その頃の私は辞めた後の自分を考え始めていた。ちなみに産業カウンセラーの資格は2001年に取得して、数年間相談業務に関わったこともあったけれど、それを仕事にはできないと思ってはいた。当時知ったとある協会、そこの研修を受けたのは年明けだったと思う。当時の私には目から鱗、こういうことを知っていたら、こんなことにはなっていなかったのではないか…それほどの驚きだった。その協会には今も所属し、私はそこのファシリテーターとしてお話しをする側に立っているのだけれど。

もうひとつ、趣味のことも書いておこう。当時2006年辺り?から通っていたステンドグラスのお教室、仕事がハードになって2014年春頃か?休ませていただきます、ということで通わなくなった。ストレス解消の手段を自ら捨ててしまっていた。そして、2014年末今の自分にできること、この先のことを思いつつ始めたのがボーカルレッスン!と短歌だった。そのどちらも未だに続けている。下手の横好き… 仕事が忙しいからこそ、大変だからこそ、こういう趣味、好きなことが超がつくほど大事なのだということを実感した2015年の始まりだった。

そうこうしても体調が良くなることもなく、職場状況が良くなるはずもなく、相変わらず時折休みつつ、後任人事について話し合いつつ、時は過ぎていった。私が想定していた後任女性は承認されず、誰に何を引き継ぐのかも曖昧なまま結局最後まで不明確な形で(一応兼任で本国スタッフが受け取る形になったが)終了、退職日は私が予定した3月末から結局延びて4月末日となったのだけれど。今でも忘れないこと、出社最終日、私は数日前からの帯状疱疹が治っておらず、その治療のための痛み止めが喉の炎症に気付くことを遅らせ、声が出ないという状況になった。挙句に目は結膜炎…スタッフが作成してくれたPPTスライドで私のコメントを流しつつの最終日、笑ってよいのか泣いてよいのか、消化不良で終了したのだ。

ちなみに咽頭炎も結膜炎も帯状疱疹も無事に回復したけれど、どれほど自分の身体に無理をさせていたのか、に気付かされた数週間だった。

辞めたからの諸々は③で…

退職記念



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