欲しい答えは過去に無いのだから、金にならないnoteを書くのは、ナンセンスと言われけど、耳は痛くならないし、頭が少し痛いのはいつも通りなので、思った事を書いてく。
唐突もほどほどにしなくてはならないところですが、
この世に幸せがあるとしたらその3つに集約されるだろう。と感じましたので、備忘録として記していきたい。。。
①.誰からも愛される人間になろうと努力できてる事
②.自分の道を続く限り歩もうとする事
③.芸術をただひたすらに磨く事を停止させられない事
そしてそのうちの2つは私にはできないことだろう。
誰からも愛される人間になろうとする
芸術をただひたすらに磨くこと
だから、私はこの方法で幸せを得たい。
自分の道を歩もうとすること
①と③をしないで
②自分の道を歩もうとすること
この方法は簡単な様で難しい。
正しい自己認識が実行されにくくなるし、
正しい自己認識ができない時、何の道にも待ち構えているであろう
”ミスの程度”、あるいは、”ミスの取り返しのつかなさ”といった
意味合いで”大きな失敗”をする可能性は高くなると私は考えているからだ。
("失敗の本質"という本を読んでからそう考えている)
なので、こう言った思考(②自己目標に達成心底注力する思考)で、自分に自信があるやつ。
こう言う奴は、最低だ。
しかしながら、こいつは”私の道”であり、
最近の私は、まさに『こう言う奴』であると言える。
進まなきゃいけないのは皆同じ中で、やりたい様に、"ずっとやっちゃうスタイルだぜ"と言うのは大変好ましくない。
というのも厳しい現実の中でも、その現実に対して、私は最適解を直感的にわかってしまうという体験を少なからず皆、していて私はしている。その時は視野を広く持てていた時だった。決め込みで視野を狭める"②自己目標に達成心底注力する思考"は諸刃の刃だ。
話が少し逸れたが、現実の話に戻そう。
そもそも、今なんで私は、それでも②の幸せを求めるのが得策なのか背景を整理したい。
というのも、自身の思いつく限りの努力しているが、
どうにも、成功へのビジョンを映し出せるほどのリサーチが今足りていないのか、ビジョンを人に話す事に自信が持てていない。
それを相談しても、やれるだけやってみることが重要だというような1円の価値しかない様なアドバイスしかもらいにくいような状況。
つまりふわっとしたビジョンで重たい現実に立ち向かうそのようなフェーズに今私はいると感じている。
その為、この様なフェースもしくは、今後の起こり得る似たような状況に対しての正攻法を取りたい。
上記の背景があって私が取る行動は、
この現状を記録していくことだ。自分を俯瞰して見ることができるのは、大切なポイントだからだ。
その考え方を持ちつつ、現実に立ち向かう。
その状況下において自分自身のできる範囲での最善の選択を下していくことそれはおそらく脳科学的に非常に最善手であると言うことができる。
と言うのもたいていの人間がその選択ができないからだ。
人類の歴史上、情報が完全にある状態で、判断を下した支配者などほぼ皆無であったのではないだろうか?
そして、情報化社会と言われる現代においても、創意工夫を凝らしてもほとんど、目標に対しての完璧に当てはまるリサーチを出来る事などないのだろうか?
だから、悪手の様に見えて、善手。
善手の様に見えて悪手は、よくあり得ることとして認識してる方々は多いと思う。
という考えもあり、ケーススタディとして、自身の記録を残す事は、善手の様に感じている。
そんなモチベーションを持っているから、
例え、noteのこれだけ更新ができていなくなってしまってもまだまだ私はもう一度ノートに向き合いたくなってしまうんではないかなと感じている。
生きる。っていう競技。
まだ凪は遠そうで、嬉しい限りだ。
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