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【意訳】書評:クール・ジャパンの終焉

Books: The End of Cool Japan

By Jonathan Clements
August 22, 2016

source: http://blog.alltheanime.com/books-the-end-of-cool-japan/

※英語の勉強のためにざっくりと翻訳された文章であり、誤訳や誤解が含まれている可能性が高い旨をご留意ください。
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この大胆で風変わりな表紙は、本書全体の論調を表現するために寄稿者の一人が選んだものだ。このMark McLellandの新しい論考集は、日本文化研究の選書リストのトップになりうる。
『クール・ジャパンの終焉: 日本の大衆文化への倫理的・法的・文化的挑戦』は、奨学金のおかげで楽しい週末を過ごせるのでは?と考えている全ての学生に対して、きわめて重要かつタイムリーな警告を発している。

クール・ジャパンというアイデアは全ての人々にとって魅力的である──少なくともこのトレンドを広めようとしている人達はみなそう断言することだろう。
しかしこのアイデアに関する不満は公表された当初から数多く寄せられている。村上隆はクール・ジャパンについて「ちょっとしたコピーライティングを行うだけで、公的資金が広告会社へ流れることが許されてしまっている」と痛烈に批判した。かくいうわたしも以前に、アニメーターの家賃を一時的に負担するため、アニメ制作会社へと支払われるという数百万円の補助金に関して皮肉をコメントさせてもらったことがある。
一方、大山シンジ(漢字不明)はエディンバラのイベントで物議を醸す発言を残した。彼はクールジャパンを「大きな目とカラフルな髪の毛が描かれた薄っぺらいベニヤ板に過ぎない」と揶揄することで、同年代のお抱え専門家達に対して外野から平手打ちを食らわせたのだ。

日本のクリエイターが提供するクールという概念・彼らが作った製品に払える妥当な金額・全くお金を払おうとしないデータ共用ソフト登場以降の世代の価値観。 これら3つの間に横たわる溝を埋めることは容易ではない、とこの本の編集者であるMcLellandは語る。
クール(イケてる)という言葉には通常、まだ市民権を得られていないというニュアンスが含まれる、と彼は指摘するが、クールジャパンという言葉から連想されるのはむしろ、法律にうるさい日本政府の険しい顔した役人達が、知的財産の主導権を握ろうとしている様子だ。 
またクールとは時に危険な言葉で、メディアにお金を払うどころかタダで盗んでいくような10代を呼び寄せてしまうことがある。とはいえ、元々の作品がクールでなくてもユーザーのマナーが悪いケースはよくあるのだが。

McLellandは前書きで、日本はヘラヘラとこの事業に取り組んでおり、不用意にリスクを生み出していると指摘する。日本の大衆文化で世界を席巻しようと自らバブルを生み出そうとしているにも関わらず、先行して出されたプレスリリースではコスプレに関する説明が間違っていた。
また彼らは押井守版の攻殻機動隊を2週間に渡り東京の劇場で公開し、その後にこれが日本映画の象徴だ、と世界中でも公開したのだが、このアイデアは素晴らしいとは言い難い。一部のファンは感謝したかも知れないが、この“誰でも知ってる”コンテンツを今更引っ張り出して「やっぱアニメと漫画は最高だね」と西洋の評論家に褒めてもらおうと考えていたならば、余りにも安易ではないだろうか。
その後も同じように、何人もの人がるーみっくわーるど(高橋留美子作品)や東京ゴッドファーザーへ無意味にお金と時間を捧げることとなってしまった。売上額を学術的研究の成果を測る判断材料にすることは当然避けるべきなのだが、それでもその道の専門家として何かを有名にしたいのならば、もっと意義のあるアイデアを持っていなければならない。

Alisa Freedmanの論文では、この30年間で日本文化がどれ程の高みに達したかを皆に印象付けた作品として『デスノート』が挙げられている。また彼女は、ある時期から日本政府が唐突にオタクコンテンツを支援し始めたことも指摘する。それは皮肉にも、非公式や文脈の外にまで波及していくオタクコンテンツに対する流通と税の徴収を、政府がコントロールできなくなってきた時期と被っている。それでも日本のお偉いさん方は自分たちの何がクールなのかを大声で説明しようとしていた。
同じ頃、ペンシルバニア州では14歳の少女が、Facebookにジャスティン・ビーバーが(デスノートの)死神に殺されますように、と投稿した。
日本のお偉いさんもこのアメリカ人も同様にクールからは程遠いと言わざるをえないが、ある学生のやったことも忘れてはならない。彼はデスノートへ狂信的に傾倒する事で中国北東部の禁止図書に指定される切っ掛けを作り、皮肉なことに自分の好きな作品が国によっては非合法であると証明してしまったのだ。

10章からなるこの本のうち、6つの章で性的表現への検閲に関する話題が取り上げられている。この問題は長い間日本のコンテンツの持つ一側面であったし、クールな作品の創造を脅かす要素でもある。著者達はポルノグラフィの研究者、または消費者として、各々の立場からこの問題を論じている。 

Sharalyn Orbaughはカナダ人の悩めるヘンタイ・コンテンツ愛好家だ。Adam Stepletonはオーストラリアだと没収される“物議を醸す画像”について書き、Ling YangとYanrui Xuは当局の検閲の隙をついて活動する中国人腐女子達の背負う宿命についてそれぞれ論じている。 

Mark McLellandは日本について書くことで、これらの問題に何かしらの波及効果を起こすつもりだ。そこにはジャーナリストが激怒する様な内容さえ含んでいる。そしてこれらの物語が、短いながらも論考であることによって上手いことアカデミズムの領域へ取り込まれることを目指している。「こういう戦いが終わりを迎えることは非常に稀です」と McLellandは述べる。

一方でKristine M. Santosと Febriani Sihombingはポスト植民地支配に関する談話の中で同一の見解を示した。ごちゃまぜで新鮮な日本文化はアメリカでは褒め称えられているが、インドネシアの批評家たちはそれを文化的帝国主義として自国に歓迎すべきでないと考えているらしいのだ。そうなると、クールとは一体誰の為のものなのだろう?

他の著者たちは、ポップカルチャーの研究者がたとえ真面目に研究に取り組んでいても、自分たちの仲間だけでなく自分の生徒や社会までも巻き添えにしてしまう問題について解説している。

Patrick W. Galbraithはロリコン野郎と永遠に呼ばれ続けるリスクがあるため、ロリコン漫画について研究する事はキャリア的に自殺行為である、という問題をスパッと解消する方法を発見した。

Kirsten Catherが日本の検閲システムについて書いた章では、素晴らしく“愉快な”活動をしている4人の教授へこのように質問している。
「あなたは今、超満員の救命ボートの中に閉じ込められていると想像してみてください。あなたを船外に放り捨ててはいけないというなら、それはなぜか?あなたには説明する義務があります。」
 
Laura Millerは学生に蔓延する怠惰な雰囲気について指摘する。彼らは学術的な見識から日本文化を分析することなく、ただ学んでいるだけである。なぜなら彼らは既に消費者側にいるからだ。
 彼女はトンチを聞かせてこれらの欺瞞を解体しているが、それは全ての日本の大衆文化へ要求されていることでもあるのだ。
日本の地方政治家の中には、茶道だけはたしなんでいるものの、メイドカフェなんて考えるだけでもおぞましいと思っている人達がいる。
その様な日本人は、自分達こそが日本らしさを兼ね備えた支配者層であると自負しており、自分の嫌いな別種の人間と辛抱強く議論することができない。
そんな中でMillerの考え出したカリキュラムは、路上で会うと外国人留学生に凄く冷たいと言われている、いわゆる“普通の”日本人男性達と出会うことを目標としたものだ。しかし私は実際に起こるであろう結果を知っているので、このカリキュラムに取り組む生徒たちを観るのが大好きである!

一方、全く正反対の教授が行う日本文化の授業は、まごうことなき地獄と化すだろう。彼女の授業を受けた生徒は『七人の侍』の代わりに『二十四の瞳』を、『エヴァンゲリオン』の代わりに『サザエさん』を観せられる。そしてダ・ヴィンチ・コードを書いたDan Brownの作品の変遷を、現在日本人作家の作品よりも多く読まさせられる。更に生徒は自分たちが実際に楽しんでいるものではなく、声は大きいが面白くない、会話を詰め込みすぎの漫才を観なくてはならない。

きっとこの残酷な授業は、日本で本当に人気なものは何か?そこにはどんな相互関係があるのか?──でも、実際に観ていて面白いのは何のだろう? ということを考えてもらうためにやっているのだ──と思いたい。

私はこの本を図書館、講師、生徒などへ強く売り込みするような立場ではない。しかし出版社であるRoutledgeの予算の振り方を見ると、どうやら彼らはこの本よりも、専ら例のぶっ飛んだ大富豪のリーダーシップについて関心があるらしい。

しょうもない方法で利益をあげても良いが、だったら日本文化の危機的状況を反映したこの本の高額な定価90ポンド (12,165円) を肩代わりして欲しいものだ。特にここUKでは、みんながクールジャパンを話題にしているにも関わらず、3万ポンド(406万円)を借りれる特権を使い、海を隔てた最も難しい言語の世界へ目をつぶって飛び込む勇気のある学生はほとんどいない。
 
残念ながら、この本のkindle版では書籍版から数ページ減らされている。さらにAmazon側はRoutledge社に春のセールとして34.99ポンド(4,730円)のディスカウント・タグを付ける事を望んでいるだろう。でも、そんなのは全然クールじゃない。

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