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【意訳】キャンセルカルチャー、その長い苦痛の歴史

※英語の勉強のためにざっくりと翻訳された文章であり、誤訳や誤解が含まれている可能性が高い旨をご留意ください。
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クリップソース: The Long and Tortured History of Cancel Culture - The New York Times

The Long and Tortured History of Cancel Culture

By Ligaya Mishan
Dec. 3, 2020

モラルに反するとみなされた罪人に対する公開恥辱は古くより存在する。それは今日も行われているが、この慣習は市民正義を実行するラディカルな方法なのか?それとも単に資本主義を助長しているのだろうか?

Francisco Goya’s “The Straw Manikin” (1791-92).Museo Del Prado, Madrid, Spain; Erich Lessing/Art Resource

21世紀初頭、世界は公共インターネット体験の時代に突入した。1991年に導入されたインターネットだが、この情報の海からFacebookや Twitterなどが水平線上に顔を出すよりはるか以前に、中国語のスラングから新しい言葉が生まれた。人肉捜索(renrou sousuo)、直訳すると “human flesh search” だ。この言葉は奇妙な言い回しを使って、人力検索が優秀なコンピューターの検索エンジンに匹敵すると示唆している。(英語への直訳でニュアンスは失われており、ゾンビ的な意味は無い。)
万民(wangmin:ネット民)や、より親しい網友(wangyou:ネット上の友人、ネットユーザーの中でも同じ情熱や理由を共有している人)に依頼すれば、関心のあるモノ・人物の情報を嗅ぎ回る即席の探偵事務所が結成される。
元々はヲタク気質を発散する場であったが、その関心はすぐに犯罪者へと移った。給与水準に見合わない高級時計をギラつかせて汚職を匂わせる下級公務員から、もっとゾッとするものでは、ニッチなジャンルのエロとして動物を残虐に轢いたり子猫をハイヒールで死ぬまで踏みつける“クラッシュビデオ”に出演した女性など、道徳の欠如が見られる人々だ。
こういった違反者は一度見つかれば、細かい個人情報がネット上に晒され、狩られ、言葉で鞭打たれ、効率的にコミュニティから除外されてゆく。

西洋の観察者にとって“人肉”はこのように認識されていたが、正確だったのはその450g程度だ。西洋メディアの報道における人肉捜索は、異国の現象として型にはめられ、中国の外には存在しない、ここでは起きないものとして報じられた。NYタイムズの  a feature on it in 2010 の中で、あるコメンテーターはこう書いた。“この検索の凄まじさには驚いたが、これは東洋的な特性だと思われる。西洋の殆どの人々にとっては脅威にならないだろう。我々はあまりに個人主義的だし、既存の体制はちゃんと機能しているのだから。”
だがその頃、すでに英語には独自の言葉 doxxingドクシング)があった。ネット上で晒すために検索するという意味で、1990年代のコンピューター・ハッカーの掲示板を起源としている。Tsinghua China Law Review(精華中国法律批評)の創立編集者であるウェイウェイ・シェンも同様に、あるいはもっと詳細にその考え方を a 2016 essay の中で主張している。人肉捜索は草の根運動的な努力ではなく、中国の共産主義思想の中で発生する可能性の方が遥かに高いもので、独立心の高いアメリカとは正反対の現象だ、と。
だが現在、晒しはアメリカ的現象になった。我々はこれをキャンセルカルチャーと呼ぶ。

ここ数年でキャンセルカルチャーに関する記事は無数に書かれてきた。もはや読むだけで疲れてしまう。これは何なのか、何がそう呼ばれているのか、本当に存在しているのかなど、全てが議論の対象になっている。この言葉はかなり無秩序に用いられており、オンラインのオン・オフ関係なく、自警団的な正義執行、ストーカー行為に対する攻撃的な議論から脅迫やハラスメントまで、様々な事件がキャンセルカルチャーと呼ばれている。以下の事象もそうだ。:
2019年夏のカリフォルニアのレストランでフィリピン系アメリカ人の家族を大声で罵るテック企業の白人管理者の様子を撮影したスマホ動画に対する大衆の抗議(彼は退職したらしい);あるポップスターの父親がCIAエージェントで、植民地支配や虐殺に関わっていたとする陰謀論
NYタイムズNYレビュー・オブ・ブックスの編集者がスタッフへの異議を仄めかす記事を書き、議論を呼んだ末に失脚した事件;白人教授が授業で使った中国語が、英語の人種差別的な中傷に聞こえたため差別主義者と疑われた事件
300万ほどの登録者を持つ美容系Youtuberが、同業者から裏切りや感情操作の告発を受け、一週間で100万まで登録者数が減った事件(現在では持ち直し、2300万以上の登録者数を抱えている)。
極右の陰謀論者達が、反トランプ的な映画監督の、とても不快な古いツイートを掘り起こした事件(彼はディズニーを解雇され、8ヶ月後に再雇用された)などである。
コールアウト・カルチャーについて話していた頃は、中世の道徳劇のように、大衆を広く啓蒙するために個々の失敗を取り上げていたが、その時期はもう過ぎ去ったようだ。正確な言い方では無いかもしれないが、キャンセル(抹消)を歓迎する人々は軽い謝罪や前言撤回以上のものを求めているが、特定の過ちや権力の不均衡を是正するといった明確な目標がないことも多い。何らかの正義を示すために復讐しているのだが、それは不完全だ。“既存の体制”の告発は結局、あまり我々の役に立たない。信用できないシステムを非難し、より公平なものを求めているつもりが、いつの間にか、喜々として遠吠えを上げる血に飢えた大衆のひとりとして、見知らぬ誰かに屈辱を味合わせるスポーツのスリルを求めている。
より冷静な言葉、アカウンタビリティ・カルチャー(説明責任文化)を好んで使う人もいるが、こちらにはもっと複雑な背景がある。価値観や言動の是正ではなく、企業や公共事業における管理部門と外部機関からの要望──従業員と組織の生産性を計測・向上させるために発展した文化を指す言葉なのだ。

Salman Toor’s “Lunch” (2019). Toor’s solo show “How Will I Know” will be up at the Whitney Museum of American Art in New York City through April 4, 2021.© Salman Toor; courtesy of the artist and Luhring Augustine, New York

キャンセルカルチャーという表現には、すでにネガティブな意味が宿っている。キャンセルカルチャーはムーブメントではない。指導者も仲間意識も存在せず、参加者はとても気まぐれで、一度しか関わらない様だ。一貫した主義主張も共有されていない。
キャンセルカルチャーは、政治的極左と恐怖心を製造する亡霊── Wokeness(ウォウクンネス/本来は問題意識への目覚めという意味だが、啓蒙活動と見せかけた独善的な自己正当化を皮肉を込めてこう呼ぶことがある)とずっと関係してきた。この言葉は黒人文化におけるWoke(ウォウク/目覚め、特に人種問題に対する自覚)に由来するが、後に曲解されていった。

Wokeは本来、この世界の本質を見つめて警戒を怠るな、という意味だ。(実験小説家、ウィレム・メルヴィン・ケリーが、おそらく最初に大衆に向けてWokeの形容詞的表現を紹介した人物だ。1962年の黒人の慣用句を冠したエッセイ、If You're Woke, You Dig It (目覚めているなら分かるはずだ) の中で彼は、有色人種の間で使われる言葉の変遷についてこう書いている。『ある時まで jive(ジャイヴ)という言葉には良い意味しかなかった。今は悪い意味、少なくとも疑問を呈するニュアンスを持つ。』)
※ジャイヴはジャズの一種、およびそれに合わせて踊る陽気で激しいダンスのことだが、現在はノリだけで適当な話をする、まがい物、無価値、という意味のスラングになっている。

しかし、極右思想の人々もキャンセレーション(抹消運動)をすぐに実行しようとする。思い出されるのは2014年に、ジャーナリズムの倫理を守るという建前でゲーマー集団が企業に圧力をかけた事件だ。彼らはゲーム産業の多様性の欠如を批評する記事を掲載したメディアに対して広告費を支払うなと要求すると同時に、女性ゲーマーやライターをレイプ・殺害予告で脅迫した。
キャンセルカルチャーはこのように極めて不定形だから危険なのだ。キャンセルカルチャーが微生物学上のカルチャー(培養)、つまりは環境操作──“空気の変化”を生み出すのである。

Harper誌が7月に公開した“A Letter on Justice and Open Debate”(正義と公開討論に関する書簡)は、特定の人物や事件を名指しこそしなかったが、近年見られる新しいドグマニズム(独断主義)への抵抗を呼びかける公開書簡であり、153人の学者や芸術界の著名人が署名をした。その中には、この書簡が抽象的に表現するところの“誠実な反対意見の表明”のせいで引きずり出された(つまり、キャンセルされた)経験を持つ数人も名を連ねている。
多くの人がこの書簡の主張を否定したが、その主な理由はこうだ;

またですか?キャンセルカルチャーは存在しません。なぜなら常にうわさ、ウラ話、中傷キャンペーンの中でしか語られていないので。それに言論の自由に対する検閲と懲罰なら、全体主義国家が暗黙の内に奨励している不当な投獄、イカサマ裁判での有罪判決の方がはるかに酷いじゃないですか。また、1940年代から50年代のアメリカでは、共産主義の疑いのある人々はブラックリストに載り、雇用候補から締め出されました。これは下院非米活動委員会とゴマすりに必死な民間企業の熱心な努力によって行われたものです。SNSのスピード、杜撰さ、比較的高い匿名性が、全く新種のいじめを生み出したわけではないのです。

……彼らは昔からある問題を助長し、悪化させているだけだ。
更に、これはいじめではなく、むしろ虐待行為や権力者の搾取との戦いであり、国が市民を守らないから必要な是正措置なのだ、と主張する者もいる。だがその説明は、彼らが糾弾だけでなく断罪まで強く要求している理由の答えにはなっていない。

──キャンセルカルチャーはスケープゴーティング(責任転嫁)と人身御供という古代信仰の復興である。アメリカは罪悪感の社会から羞恥心の社会へとシフトした。鬱積した怒りを開放する安全弁としてのカーニバルやミスルールがデジタル版へと進化したのだ。専門家はキャンセルカルチャーを大衆主導の騒乱であると非難するが、権力者が結局はその場に居座り、何も変わらない点がまさにそうなのだ。
※カーニバルは謝肉祭、ミスルールはクリスマスの祝宴のこと。どちらもキリスト教の行事

“キャンセル”は消費主義的な言葉で、ほぼ常に商品や取引が関連してくる。読者が雑誌購読をキャンセルする。現場主任がTV番組をキャンセルする。銀行窓口が無効になった小切手をキャンセルする。ジャーナリストのアヤ・ロマノがVOXに書いた記事によると、モノではなく人をキャンセルする表現が最初に使われた有名な例を追跡すると、それは1991年マリオ・ヴァン・ピーブルズ制作のカルト映画、“ニュージャック・シティ”で、犯罪組織のボス、ニノ・ブラウンが、彼の殺人趣味に抗議したガールフレンドをテーブルに叩きつけて言ったセリフだった。
彼はシャンパンを彼女に掛けながら“このビッチをキャンセルしろ、他のを買う”と言い放った。このニノの発言に、ラッパーの 50 Cent が2005年のヒット 曲 “Hustler’s Ambition” で、リル・ウェインが 2009年の “I’m Single” で返答している。
このように、砕けた表現が広く使われるスラングとなっていった(これも“Woke”と同様だが、現代アメリカ的な言い回しの多くは黒人文化からの引用である)。そしてキャンセルの一般的な意味と溶け合い、執拗な排除命令を意味するようになったのだ。

おそらくキャンセルカルチャーという用語が使われた最初期の例は2014年、コメディー・セントラルの番組“ザ・コルバート・リポート”の公式Twitterアカウントがアジア人差別とも取れるジョークを投稿し、それにアクティビストのスイ・パークが#CancelColbert のハッシュタグを付けて返信した件だろう。結果的に、彼女の極めて辛辣な反応に対してドクシング(晒し)とキャンセル(排除)が発生し、彼女は自宅から逃げて使い捨て電話で連絡を取る羽目になった。
Caste: The Origins of Our Discontents (2020)”(カースト:我々の分断の起源)を書いたアメリカ人ジャーナリストのイザベル・ウィルカーソンはレビ記にまでさかのぼり、社会階級と強制排除の裏側にあるメカニズムを検証した。スケープゴート( sa’ir la’aza’zel )は、大祭司がコミュニティの全ての罪と悪行を子ヤギに被せる儀式を行なった後で荒野に放逐するものだ。ギリシャでも人間の生贄を用いた同様の儀式が行われていた。ファルマコスと呼ばれるその儀式において、生贄は町中を殴られながら練り歩いた末に追放され、実質的に死んだものとみなされた。(死刑執行もあったと考える歴史家もいるが、多くは決定的証拠がないとしている)
こういった行為は気晴らしであると同時に贖罪であった。支配的な集団は“他者”に対して悪魔のレッテルを貼って追放することで、もう我々の中に悪は存在しないので “穢れはない” と思えたのだ、とウィルカーソンは説明する。

Salman Toor’s “Nightmare” (2020).© Salman Toor; courtesy of the artist and Luhring Augustine, New York

現代のスケープゴートも同様の役割を果たしている。内紛状態のグループは、違反者と思われる誰かに対する敵意に基づいて団結し、相手を非難することで、自分たちの過ちと向き合う責務を軽くしようとするのだ。
カナダ人哲学者、チャールズ・テイラーは著書 “A Secular Age (2007)”(無宗教時代)の中で、生贄の犠牲者が宿していた相反する性質:神聖さが失われたと主張している。(前述のファルマコスはファルマコンという言葉が由来で、薬であると同時に毒、治癒者であると同時に殺人者、という相反する性質を持った存在を意味する。)

スケープゴートは実際に何らかの罪を犯したかどうかに関係なく、社会を歪ませている真犯人の責任を、代わりに押し付けられているに過ぎない。この事実は無意識的、あるいは暗黙の了解の内に有耶無耶にされてきた(真犯人は我々、および我々と共犯関係にあるシステムだ)。その代わりにスケープゴートは悪魔に仕立て上げられ、自分の罪だけでなくみんなの罪も強制的にまとめて背負わされる。
これらの大衆による排除要求は歴史を逆行しているかのようだ。17世紀アメリカの植民地主義的な神権政治は、啓蒙運動と民主主義、見せ物としての処罰に道を譲った。鞭打ち刑、柵や晒し台への手足の縛り付け、ヘスター・プリンの緋文字のAなどだ。様式は崩れ落ちていった。

イギリス人ジャーナリスト、ジョン・ロンソンが 自著“So You’ve Been Publicly Shamed (2015)” (日本語版タイトル:ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち)で指摘するのは、こういった公開恥辱は法的な罰であるとして見逃され、1960年代の法改正以降も黒人に対する違法なリンチが続いた事実だ。アメリカ的理想である独立心を維持するため、市民は自分自身に対する罪の意識への順応を望んだ。20世紀アメリカの人類学者ルース・ベネディクトは、日本と西洋の文化的相違についてこう書いている。

罪悪感はユダヤ教とキリスト教に特有の伝統であり、それは“自分の思い描く自分”として生きられていない、という自己認識との葛藤によるものだ。一方で羞恥心は、外部からの批判や嘲笑に対する恐怖である。罪悪感は社会的承認がなくとも人々を道徳的行動へと導く。誰もあなたの過ちを見ていなかったとしてもだ。しかし羞恥心は観客を必要とする。社会のネットワークがあなたに変化を強要するのだ。

示唆的なのは、キャンセルカルチャーが巻き起こすいかなる恐怖も、重要人物の打倒に成功していない点だ。上級政治家、大企業──公的機関はなおさらである。
その一方で、罪悪感は、集団的に認識されている倫理基準によってもたらされるものだ。宗教的な信条、イデオロギー、法的規範、あるいは単に初歩的な倫理観など、それなしでは集団が存続できない要素である。
このような精神的支柱となる共通認識を失ったことで、アメリカ的社会は21世紀において霧散しつつある。規範が移り変わっていく中では、一握の塵のように確かなものを掴みとれない。他者は他者なりの良心に従っていると思えず、ましてや良心を持っていないのではと感じたり、組織が良心に基づいた行動をする能力と意志があると信頼できなくなった場合──もはや自分たちが丘の上の都市(世界の模範としてのアメリカ)に住んでおらず、社会も模範となるべく努力していないと感じるのなら──もはや革命を除いて頼りになるものはなく、現代のピューリタンとして他者を非難・威嚇するしかないのだろう。

羞恥心は良い/悪い、我々/彼ら の間にざっくりと線を引く。“cancel”の語源がラテン語の“cancelli”で、cancri / cancer から派生していることはおそらく偶然じゃないだろう。これは網状・格子状の棒、つまりはバリアーという意味であり、“carcer(prizon:牢屋)”による異化作用とも関係している。
また、キャンセルという言葉が英語に取り入れられた初期は、紙に書かれた文字の上に線を上書きして消す、という意味だった。

キャンセルカルチャーのターゲット選びには極めて強い恣意性がある。似通った罪を負っている沢山の人々の中から1人を選び出すが、その多くは公人でも組織的権力の所有者でもなく、名誉の低下と知名度の上昇がもの凄いスピードで起きるその直前まで、完全に一般人だった人だ。攻撃対象との形式的な距離感が、気軽な残酷行為を可能にするのである。
アメリカ人ライター、シャーリー・ジャクソンの悪名高い短編、 “The Lottery (1948)”(くじ)では、村人が自分たちの中から無邪気かつ無作為に犠牲者をひとり選び出す。フランス人哲学者のルネ・ジラールは “Violence and the Sacred (1979)” (暴力と聖なるもの)においてこう指摘する。
“被害者を選ぶという事実が、その人に外見上のオーラを与える。被害者は代理人となり、本来の姿を見てもらえなくなる──その他全員と同じくコミュニティの一員である事実を。”

執念深さを正当化するには、自分が糾弾する側にいると認めてはならない。テイラーが言うように、“あいつはこうなって当然だ”と信じる必要がある。キャンセルカルチャーがおこなう批判との類似性は、18世紀フランス革命におけるジャコバン派や、1966~76年に中国で起こった文化大革命における紅衛兵に見て取れる。また、1950年から1990年まで東ドイツの秘密警察:シュタージにパートタイムの情報提供者として協力したとされる、人口約1700万人のうち60万~200万人の人達もそうだ。いずれも正確な類似性はないが、全て同様に国家による懲罰的な力が働いている。
15世紀から19世紀にかけて異端者を迫害したスペインの宗教裁判と、17世紀末のマサチューセッツ州で行われたセイラムの魔女裁判もまた暗示的だ。教会と国家の区別が曖昧だった時代に、両方が迫害に関与している。

こういった前例の数々は、純潔さを証明するための古風な暴力の利用方法が、現代ではイデオロギー(思想)を維持するための暴力に進化したことを示している。フランスでは、ギロチンの濫用は善を追求した結果だと合理化されていた。道徳的な共和国を生むための恐怖政治である。(革命家のリーダー、マクシミリアン・ロベスピエールは、1794年に“恐怖なしでは美徳も無意味”と宣言したことで有名だ。彼は将来の死刑撤廃を支持する一方で、数千人の処刑を命令した。)
毛沢東も1966年の妻に宛てた手紙の中で同様のテーマを強調している。“大いなる秩序”を達成するためには“天下の大混乱”が必要だ、と。シュタージの情報提供者の中にも、恐怖心から友人や隣人を密告した人がいるかも知れないが、調査が結論付けたのは、そのほとんどが国家、ひいては自分の正義を守るために密告した、ということだ。

Pieter van der Werff’s “The Expulsion of Adam and Eve” (circa early 18th century).National Trust Photographic Library/Bridgeman Images

これらの権威主義的統治と比較すれば、キャンセルカルチャーは無軌道だ。方針や信条を定めて順守する政治団体が関与しないまま、論理の整合性を伴わずに自然発生していく混乱の連続である。むしろ反権威主義的ですらあるのだ。
歴史的に欧米人は政府やその支持者への情報提供を良しとせず、その行為をスニッチやナーク(どちらも密告者・チクリ野郎という意味)と呼んで批判する。この言葉は1859年のスラング辞書において、“信頼を破壊する行為”と明確に定義されている。子どもたちもタットレーテル(告げ口をする奴)になるなと教えられている(強者に告げ口する者としては、ホイッスルブロワーの方が聞き慣れているだろう)。

一方で、キャンセレーションは矛盾を抱えている。混沌としながらも儀式化された、古の不満解消法とそっくりなのだ。中世カトリックの伝統であるカーニバルやミスルールは教会や統治組織を皮肉り、ヒエラルキーをひっくり返す祭りだったが、実際に現行の支配者が地位を脅かされることはなく、むしろその覇権を再確認させるものであった。
“ミスルールはルールのパロディであることを意味します。” アメリカ系カナダ人の人類学者ナタリー・ゼーモン・デーヴィスはそう書いている。時たま行われる過剰で破壊的なお祭り騒ぎは、自分達が普段持っている分別を証明する行為である。デイヴィスはそういったお祭りが、“既存の秩序の代替品”であると示唆している。だが、およそどんな変わりの秩序も容認しないであろう教会が、なぜこういった転覆行為は容認するのだろう?
カーニバルは好都合なカタルシス(開放感)として見ることができるのだ。日常の厳しい道徳規範からの束の間の開放は、民衆が破壊的衝動に興じることを許す。そこで反抗エネルギーを消費させれば、翌日からはまた従順になるのである。

キャンセルカルチャーが引き起こす恐怖は、上級政治家、大企業、公的機関のいずれの重要人物の打倒にも成功していない。最も攻撃を受けやすいのは、今まで大衆に知られていなかった個人である。例えば2013年、あるコミュニケーション・ディレクターが、アフリカ、エイズ、白人特権について誰でもジョークだと分かる内容を個人アカウントでツイートして解雇された事件(彼女は6ヶ月後に別の職に就いた)や、あるデータアナリストが、ジョージ・フロイドが警察の拘束によって死亡した事への抗議に関して、暴動は民主党への投票数を増やすどころか減らしたとする研究結果を昨年末にツイートして解雇された事件などだ(彼の雇用主は解雇の原因がツイートであることを否定した)。

この2つの事件はキャンセルカルチャーの影響力を示す以上に、労働者の言動が合法的であっても、理由を問わずに解雇できるアットウィル雇用契約者の不安定さを明らかにしている。より権力のある人は、より影響を受けにくい。イギリス人作家のJ・K・ローリングはハーパーの書簡に署名した1人であり、ジェンダーのアイデンティティと生物学的性別に関する考え方の表現に対して世間から避難されたが、人々は引き続き彼女の本を買っている。名誉が失墜した有名コメディアンはスタンド・アップコメディ業界に復帰して、そこまで後悔もすることなく単独公演で稼いでいる。

強者を倒すのには数年は掛かるもので、それは言動の不道徳性ではなく違法性と関連している。スタジオの長、ハーヴィー・ワインスタインは犯罪行為で起訴されたのであって、キャンセルされたのではない。
1972年、フランス人理論家ミシェル・フーコーとフランス人哲学者ベニ・レヴィ(後にピエール・ヴィクターと名乗る)の会話の中で、ある例が話題に上がった。第二次世界大戦末期、“ドイツ人と寝たことがあるので丸坊主にされた若い女性達”だ。ナチスへ積極的に協力していた多くの人は処罰されなかったのにも関わらず、である。“なので敵は、このような民衆の義憤に駆られた行為を利用できる。侵略してくるナチスのような古い敵だけでなく、フランスのブルジョア階級のような新しい敵も。”

社会契約上のちょっとした違反にばかり焦点を合わせる視野の狭さによって、キャンセルカルチャーは居心地の悪い仲間意識を抱えている、とアメリカ人エッセイストのメーガン・ダウムは書いている。
1980年代から実践され始めた“割れ窓理論”の警備は、アメリカ人犯罪学者、ジョージ・L・ケリングとジェームズ・Q・ウィルソンの理論を元にしている。それは小さな罪の取締りが大きな罪の予防となる、と断定する内容だ。しかしこの理論はストップ・アンド・フリスクという惨劇をもたらした。無実な一般人、それも不当に有色人種ばかりが、毎日のように繰り返し容疑者のように扱われ、取り調べ、乱暴な扱い、尋問を受けたのだ。

Pietro Antonio Rotari’s “Portrait of a Young Girl Hiding Her Eyes” (18th century).© Sphinx Fine Art/Bridgeman Images

キャンセルカルチャーと紐付いた違法行為は、その有害さをわかりやすく象徴している。例えば2019年の春、NYのセントラルパークで白人女性が黒人バードウォッチャーを警察に通報し、脅されていると嘘の主張をした。
こういった日常的な不平等の証拠を取り上げれば、誰かにとっての気付きや、今日のアメリカで起きている人種差別・女性差別・階級的圧迫にたいする人々の考えを変えるきっかけになるかもしれない。だがイギリス人社会学者のスタンリー・コーエンは、大衆が公共の脅威に対して団結するのは、我々が言うところのモラル・パニック(道徳的混乱)であると書いている。これらの脅威は誇張されているが、“問題がより深く広く浸透する危険サイン”としての効果がある。

だがモラル・パニックは伝統的に、権力者が監視的な行為の必要性を主張するときや、スキャンダルで注目を集めて収入を得ようとする者によって製造されている。これらは大衆操作の一形態であり、特定のグループを悪者やフォークデビル(民衆の悪魔)扱いして排斥する。構造的な不正義が生み出す大衆の怒りをガス抜きしているのだ(フォークデビルはコーエンが1960年代に生み出した造語)。
キャンセルカルチャーによる恐怖はそれ自体がモラル・パニックである。即席で作られたモラル・パニックの上に、より強いモラル・パニックが重なっていくのだ。キャンセルカルチャーのモラル・パニックは流動的で無計画だが、それでも支配階級の利益のために利用できる。キャンセルカルチャーにおけるフォークデビルはずっと大衆、表現分野の有名人、政界や産業の下級職員、から選び出されているので、世界は本質的に変わらないからだ。

キャンセルカルチャーがその頂点を迎えたのは2020年9月だろう。ジョージ・ワシントン大学の歴史・アフリカ人研究の教授が、ネット上で自分が黒人ではなく白人で、そのキャリアにおいてずっと黒人と偽っていたと認めたのだ。“あなたは私を強くキャンセルするでしょうし、わたしも自分自身を強くキャンセルします。” そう彼女は宣言したが、“それに何の意味があるんでしょう?私にはわかりません” と付け加え、その大前提をひっくり返した。また、自己卑下はあったが具体的な行動はなかった。彼女はキャンセルカルチャーの重要性を肯定し、“権力者に対して、構造的弱者が戦いを挑むときに必要な是正ツールである” と言ったが、同時に “私を直すことはできない” とも言った。まるで、説明責任だけは果たすが埋め合わせの活動は何もしないかのように──彼女は自分自身の権力を奪えるだけの権力を持っていないのかも知れないが。ただその一週間後、彼女の公開声明に対して大学が調査を始めた後に彼女は終身在職権の座から辞任した。

Twitterでは、自分もキャンセルされるかも知れないという話題が、ジョークや先手を打った予防策として自嘲気味に話されている。なぜなら我々の誰もがいつでもキャンセルされうるからだ。instagramのメガネを掛けて生活し、デジタル化された失言の痕跡を残したまま生きる我々なのだから。
カナダのメディア理論家マーシャル・マクラーレンは、1967年の自著 “The Medium Is the Massage” (メディアはマッサージである)の中で、いずれやってくるキャンセルカルチャーに怯えていた(この本のタイトルは、誤字をマクラーレンが取り入れたものだ)。彼の懸念の表明は最初の情報交換コンピューターネットワークが完成するよりも前で、子宮から墓場までの監視が生み出しうる状況に言及している。“電気的に演算される資料の銀行、その中の大きなゴシップの欄は、何も許さず忘れることもない。そこに救済はなく、ちょっとした過ちも消去されない。”

もし我々にまず自分自身をキャンセルするだけの潔さがあれば、そのオストラシズム(陶片追放)も、単にSNSからの一時的なバケーションだけで済むかも知れない。赦免は罵倒と飛び散る泥の中を歩くパフォーマンスへと還元された。自己反省し、実際の言動を問い直して方針転換するように求める代わりに、我々は誰かを罰して、自分達の罪と何か行動を起こす必要性が浄化されたと思いたがる。我々は綺麗になった、そう信じたいのだ。

Salmon Toor’s “The Texter” (2019).© Salman Toor; courtesy of the artist and Luhring Augustine, New York

だが、軋みを上げる社会構造が悪事を続けながら普通に仕事することを可能にしている一方で、自他に対するこういった鞭打ち刑に意味があるのだろうか?スケープゴートは常に末端の者とは限らない。

オイディプスについて考えてみよう。彼はテーバイで理不尽にもファルマコスとして、作物の不作や疫病で民衆を激しく苦しめている罪を無自覚の内に背負い、民が生き延びるための犠牲になった。
権力者につきまとう失墜への不安と悩みは、アメリカ人起業家でベンチャー投資家のピーター・ティールが2014年に書いた自己啓発書、 “Zero to One” (ブレイク・マスターズとの共著:日本語タイトル『ゼロ・トゥ・ワン 君はゼロから何を生み出せるか』)の中でも、反抗的な群衆を一瞥してこう述べられている。“おそらく現代の王は皆、処刑を遅らせることができているスケープゴートに過ぎない。” だが注目に値するのは、現代の権力者達は神の干渉や予言の束縛といった過去のルールに妨げられていない点だ。

我々はモラル・エコノミー(道徳的経済)の中で生きている時期があった。つまり、常に観察はしていないが、経済は道徳的な問題に自覚的だった。イギリスの社会歴史家 エドワード・P・トムスンは、18世紀イングランドの食料暴動を理解する枠組みとしてモラル・エコノミーという用語を使った。この死の時代に、人々は暴利を貪る人や組織に眼を向け、“一種の儀式的な鳴き声や呻き声”を店の外で上げて彼らを不快にさせた。

今日も我々は鳴き声と呻き声を上げているが、どこでも、何に対してもそれをやっているため、もっと取り組む価値がある緊急の問題が怒号を投げかける対象になっていない。抗議を目的とした多くのサブカルチャーが、キャンセルカルチャーを些細な点に固執させ、より大きな変化への取り組みから注意を逸してしまっている。

また、これは国際的な混乱だろう。Googleでの脅迫的な検索は全て、間違った行為を強化してしまう。TwitterやFacebookでの、アカウントを断罪する怒りに任せた投稿は全て、ユーザーエンゲージメントの強さの指標として、企業の巨大な金庫から広告費を引き出すために利用される。“資本主義の衝動に突き動かされたエンジニアはSNSの平等主義性を主張するが、そこは今、敵の縄張りである。” イギリス人文化批評家、マーク・フィッシャーは2013年のエッセイ、“Exiting the Vampire’s Castle”(吸血鬼城からの脱出)でそう書いている。我々は消費者だが無名の労働者でもあり、プラットフォームの価値を上げるために無賃労働しているのだ。

キャンセルカルチャーは今のところ、我々を満足させるサーカスであり、自分の生活の真実に目覚め、閉じられた扉に怒りの眼を向けるのを阻止している。我々は自分達の人形を燃やすが、それが実際には我々と同じ人間であることを忘れている。私達の大君主はそれを遠くから眺めて眉をひそめるが特に心配はしない──今のところは。“現代の王”はよく覚えておくべきだ;ソフォクレス曰く、オイディプスは自分に向けられた嫌悪から逃げたのではない。彼は自分の民を救うために流刑を望んだのだ。彼は自分自身をキャンセルしたのである。

A version of this article appears in print on Dec. 6, 2020, Page 42 of T Magazine with the headline: The Sacrifice. Order Reprints | Today’s Paper | Subscribe

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