「けもフレ騒動」私的最終論考―本来の社会の成熟具合ならやるまでもない「吉崎観音ダンマリ」弁護

「この世の関節がはずれてしまったのだ。なんの因果か、それを直す役目を押しつけられるとは!」 ウィリアム・シェークスピア 福田恆存訳『ハムレット』

 えーこの話はnoteに投稿しよう、しよう前から思ってた話で推敲無しでぶっつけ本番でやります。大体俺のTwitter利用っておおよそ2019年でその頃から所謂「けもフレ騒動」ってのがTwitterでは流行ってたんですよ。それは『けものフレンズ』ってアニメでの契約だかなんだかでアニメ監督が外されてそれで頭ゆるゆるなオタクが色々邪推していたわけですよ。頭が弱いから、そこで「吉崎観音嫉妬説」ってのがあったんすよ。曰く、天才アニメ監督たつきに嫉妬して凡才漫画家吉崎観音が嫉妬して下ろしたんだって話ですよ。するとその噂を聞いたネットのオタクが「それは大変だ。事実に違いない」って色々言いだしたわけですよ。もう馬鹿かと、ネットイナゴのみならずある程度論理思考に自負があるような人でさえやってるから狂ってると思って、元からそこまで好い読者と言う訳では無かったけどファンだったしTwitterで色々「お前等狂ってるよ。頭冷やせ」と幾度か言ってたけど、結局Twitterって140字程度のぶつ切りの情報の投稿しか出来ないからどこか上滑った感情の発露しか可能ではなくて、それっていい年して「ムク崎」とか言ってたあのボンクラ頭を叩いてみればオタクゴシップの音がするTwitterの御意見番気取りとそれに従うウゾームゾーの前代未聞のアホと軌を一にしてるなぁと思ってある程度まとまった総括をしたと思って、で、今これを描いてると言う訳です。
 それが今になった経緯としては考えがまとまったと言うのではなくてTwitterでのそのテーマに連関した呟きを寧ろ騒動に感心が薄いと思われる人から好意的に見てもらえた、詰り俺の考えがたかが一アニメの裏側にある情報の正誤だけに拘泥したコップの中の嵐に過ぎないとは必ずしも言えないという感慨に触発されたから。
 こう総括染みた事をやれば心のわだかまりは一応解けるからTwitterでグチグチ言わんでもよくなるだろう。それにどの立場の人でもツイートよりは読みやすいに決まっているから多少公益もあると思う。では本論に入ります。

 そもそも「吉崎嫉妬論」ってのが人口に膾炙してる(その人口の少なさがコップの中の嵐の所以何だろうが)ってのが狂ってるのよ。よく考えてみろよ。自分の行動にある感情に絶対当て嵌まる感情やその整合性が常にあるのかどうかを、取りも直さず自分の感情でさえ明白に言葉にできないのに、況や他人のそれをや。詰り嫉妬説なんか自分自身が証明なんかできないんだから信仰告白にしかならんやん、どうせ「嫉妬してない」なんて言っても納得せえへんやろ、どうせしたって。
 そういう結論ありきの話を他人にぶつけるってのがどんだけ大人として不躾で自分の顔に泥を塗る行為かってのは大人になったら分かって欲しいのよ。まあたかが深夜アニメにヤクザが入るとかいう「吉崎観音反社説」を大マジに唱える精神状態の人には無理だろうけどね。あのな、本当にそれがあると言うのなら文春なり新潮なり持ってこい。それも無しにアイツはヤクザとか言うのマジで相手が何もしてこないと甘えているか、本当は大して信じてないかの両者やぞどうせ小物の俺達には関係無いと思ってるなら一々相手の実生活を探るような真似は止めろ。テメーらやる事が一々ガキ臭くて不真面目なんだよんだ。言うに事欠いてふたばちゃんねるの「寝言あき」って。そんなんで人が信じる、許してくれるってのが夜郎自大じゃないなら何なんだという話ですよ。

 後それに対する吉崎観音のノーコメントな。それをどうせ怒らないと高をくくった甘ったれた連中は「だんまり」と批判するけどよ―考えてな。どう考えたって、お前ら人の話真面目に聞かねーじゃん、聴くほど大人なのか、そう思われて然るべき態度なのかよく考えてごらんなさいよ。前述したけど契約のすれ違いと言う常識的な判断をすっ飛ばして一足飛びに嫉妬だのヤクザだのイカれた社会的リアリティ発揮して押し通す連中(俺それ見てオタクに対する信頼消えましたよ。馬鹿かよ)を俺はそれほど成熟してるとは思えなかったね。そしてそんな暖簾に腕押しな連中に対して「だんまり」するのは果たしてそんなに悪いのかという発想に当たり前に至るのよね。まあ普通なら続けて思うよ、「悪くない」って。
 その理由について話すけどさ、当たり前に考えれば分かるけど必ずしも自分を快く思っていない相手に向けて自分の弁解をするのって簡単じゃないんだよ。だって、自分のファンの集まりの講演会でさえお金が無いとやってられない程の行為なんだよ、それが周りが敵なら猶更だよね。じゃあTwitterで弁解しろよと言う向きもあるかも知れないけどTwitterみたいな精々150文字程度の情報しか伝えらえないメディアじゃ満足に話せないから講演会だとか週刊誌が滅んでないんだよ。Twitterだと変に悪い言い回しになっちゃう経験とかみんな一度はしたでしょ?
 んでさ、それでは納得しない君達は言うでしょ「寧ろそういう場で自己弁護では無くて、『言うべき事(=詰り俺達の留飲を下げるべき事)を総て言うべきだ』」って。でもその頭で考えてごらん。吉崎観音ほどの妻子や関係者との付き合いのある大人が、ただ自分が楽になる程度の動機(然もその保証は一切無い。却って火に油を注ぐだけだとさえ考えられる)でべらべら喋るならそれこそ不誠実なんだよね。だって自分が何の解決にもならないと重々承知してる一時の苦痛緩和の為に他人に迷惑を掛けるなんて一角の大人(或いは古めかしいが男と言っても良かろう)にとっては冷静に考えれば恥辱なのだから。つまり耐えるべき時に耐えられなかったのだから。
 だから「ダンマリ」だとか言って批判するのは筋違いもいいとこなんだよね。寧ろ、到底ありそうもない下馬評で到底考えられないレベルのアホにグチャグチャ言われる屈辱に耐えて周囲の人間の為に沈黙を貫いているんだから。大袈裟かもしれないけど、ある種の盾になってるんだよね。あれはなかなかできない。

 そんでさ、その沈黙ってのがある種の誠実さだと思うのは彼の作風と一致してる態度だからなのもあるのよね。
 『ケロロ軍曹』ってあれ、家族の話だよね。然も東京近郊の微妙に田舎な。家族って言わば妥協の産物よ。自分と似通ったけど違う他人と比較的乏しい動機で一緒になる生活形態なんだから、自分の欲や正義を妥協して相手と生活をしないといけない。でも、だからこそ微温かもしれないが愛情だのが芽生えて言ってそこからコミュニケーションや協調が始まるって話じゃん。
 だから俺はそういう話を描いている吉崎観音がそのテーマをかなぐり捨てて全く信用できない、自分の埒外に居る―しかも人の話を全く聴かない、ガキのような―人間に(出来る見込みの無い)迎合をする為に家族や友人、関係者を売り払う様な真似をしなかった事に一貫性を見たのよね。然もあくまで表向きだけど、「おい吉崎ぃ、俺も色々言われてるんだから生贄になれよォ」と言ったりする人も居ない辺りある程度その感慨は補強されてる。
 あと、彼のパロディ癖もその一環だよね。若い頃はいざ知らず、今になるとまあ「大人から子供に語るコミュニケーション」の形態をとっていて、パロディが専ら現実でのコミュニケーションに用いられる為の道具となっている。これは良くも悪くも彼が子供に対する大人としての自分を捉え直してるって事で、その態度があの自分の為に近親者間を生贄にしない為の「ダンマリ」にも通底してるモラルなのよね。そしてそのモラルを通して「ダンマリ」を糾弾する側のそれを話も聞きやしない癖に求める幼稚さや、他人の感情とその価値を一方的に断罪しようとする驕慢を浮き彫りにしてるのよね。

 詰り彼らの言うダンマリってのは、彼等は許すべからざる罪と思っているようだけど、一歩引いてみると美徳だと思うんだよね。そのあべこべな価値観に基づく「けもフレ騒動」の事実究明とかそれに対する反論とかはあんまり意味無いと思うのよ。
 単に事実関係の整理をする考察ってのは、結局自分の価値観がどうであるかを一切参照しないから幼稚に見えるんだよね。それこそある対象について糾弾するなら自分の価値観で以て事象に意義を見出させる大人になるべきだと思う。そしてその大人にとってはネット的な、匿名的な誰が何を言っても正論であれば勝手に折れてくれるフラットな平等ってのは雲散霧消するのだと、そしてその霧の先にこそ贔屓等が避けられない不健全であるゆえに健全な強い結びつきがあるのだと知るべきだと感じる。
 世界がバラバラなら、そのバラバラの中に見た希望やパータンを人に自分の言葉で人に告げていく関係性の方が、あるキャッチコピーに一緒の感情を見ての没個人的な連携より強靭だと気付くべきだ。

〇2023.06.23追記―補題:この記事を元に展開した論争の感想及び雑感
 この記事を起点にTwitterでoguraumaumaさんとどーじさんとの論争になった(それぞれ06/20と06/21)。正直言うと堂々めぐりと重箱突きの連続で内容自体には実りが無かったので二人の印象について、僭越かもしれないが端的に語る。
 ハッキリ言うと印象はどーじさんの方が好かった。彼は確かに人の話は全く聴かないし、俺からしたら出鱈目な理屈を押し通してきっぱなしではあったが、彼自身は只管、自力での特攻隊みたいなタイマンを仕掛けている辺りや最後の会話が相手:「要約しろ」、俺:「したで」相手:「よーやったやん」みたいな物で割とすっぱり終わった(ブロックで終わりではない)辺りに割合好印象を持った。結局賢しらぶりながらも、その実そうは見えず人の神経を逆撫でする絵文字に対する叱責に、「リスペクト」だとかまるで感じてもいない美辞麗句を並べ立てて結局ブロックで終わったoguraumauma氏の慇懃無礼よりよほど印象がいい。
 蓋し、どーじさんって寂しがり屋なのかなと直感した。その寂しさを慰めるのがテレビ放映された(深夜)アニメと言うのは確かに現代でありがちな生活様式だと思うが、然しそのアニメの楽しみ方が覇権だの売りスレだのの客観的な指標や惹句でキャッキャして遊ぶってのが様式になってしまっていて、彼は愚直にそれに乗ってしまったのだろうなと言うのが率直な第一印象。尤も彼の流言蜚語の説明はそれでは十分につかないんだろうけど、そういうチーマー的なアニメ遊びがそこに行きつく人が果たして彼だけか?と言うのはある程度、保留に値するなと思われる。やってる事は大変しょうもないけど、そのしょうもないなりに生真面目な処があるように思われた(逆にoguraumauma氏はそこに妙な賢しらが目立って高慢さが鼻につくし、あの「僕は事実を言っただけです」のような無責任と誘導尋問に特化した優等生面には辟易させられた。前者がそういうゲームに乗せられて狂った人なら、後者こそそれを利用して自分の為に他人を利用して憚らない悪党であろう、やってる事は変らんと言われるかも知れないが印象はだいぶ違った―どーじさん如何にそれが”Tempest of teacop”で、それに用いる手段として一から十まで間違っていたとしても曲がりなりにもある程度の使命感とか生真面目さとかあるかも知れないけど、oguraumauma氏からはそれを微塵も感じなかった)。
 後、これは統計の無い私見なんだけど、『けもフレ2』アンチと一言で言っても、その形態には様々あるなと思う。具体的に言うと
・個人攻撃よりはKADOKAWAやそれに従う企業を攻撃対象にする
・細谷プロデューサーや木村監督や吉崎観音を攻撃対象にする(この場合は↑を包括する。尚プロデューサーと作家を攻撃するパータンにはある程度の溝がある気もする)
と言う二つの流れがあるように思われる。
 この「けもフレ騒動」に於いてはある程度年齢を重ねた人も参加した事に於て落胆した声が散見されるけど、ある程度年を取っている顕名の人で単刀直入に後者のパターンを取るような場面が果たして多かったかは一考に値すると思う(直接「ムク崎」とか言ってる人いたら教えてください。特に「たつき側」に立ったと言われる作家でも直接吉崎を叩いてる人はあんまりいなかったと思われる)。
 彼らが「けもフレ騒動」に参加した動機にはたつき監督が「若手、新星」として売り出された事があるだろうと思う。若手監督がkadokawaと言う巨大資本にしゃぶられて捨てられたと言うストーリーを見れば義侠心から彼を擁護するような発想は特段不自然ではないように感じられる(KADOKAWAが何処かしら阿漕なのはみんな感じてるだろう)。そして、その(若干無理の有る)判官贔屓に及んで単に企業批判に済まず個人攻撃に向く傾向までは無理の無いように感じられる(個人攻撃の度合いは企業や集団に近い人物から強くなり、漫画家のような個人事業主へのそれは強くないように俺からは思われる。どーじさんは若干そういう義侠心があるんでは?と感じる―使い方が下手すぎるが…)
 結局、この問題に根底にあるのはエイジングに対する意識だろうなと思われる。若い=価値の有る=保護に値するという義侠心や若さ信仰が、その価値基準が売り上げや視聴率と言った客観的な事実や数値で以て図られる売りスレ的な思考回路(この思考回路が『けものフレンズ』で散見された「考察」と通底している事は頭に入れていいかも知れない)と合致したのが、ある意味誤った義務感や陰謀論を猖獗させたのだろう。
 この若さ=金銭=価値=団結の騒動の根源に反駁するにはどうすればいいのか?個人的にこれこそ吉崎観音の態度や作風にこそ求めるべきではないかと思う。彼は終始、出ずっぱりで活躍するよりは昼行灯的な主人公を好んで描いていて彼等は大抵の場合おっさんである。そして彼らが主人公たる資格を得る様な場面は大抵公共への賛同ではなく内向きの調整や犠牲である。そのパブリックに対する内向きの論理を彼は書き続けているのだ。又、彼の「ダンマリ」も繰り返すがそのような論理で説明ができうる。実際、どーじさんとかの言う通りあの態度はある意味では狡猾であるが、その狡猾さが全てがデジタルな価値で決められる売りスレ的な価値観に反抗できる「老獪」さ、もっとよく言えば「老成」なのではないかと感じる。(了)

〇2023/07/24追記-西田亜沙子のツイート触れての雑感
 そういえば、西田亜沙子のツイートで「最近は推しを推すファンへの媚ばかりでもっと教えるとかみたいな意識を雑誌が涵養していないのでは?」と書かれていてなるほどその通りと思ったが、それって「けもフレ騒動」にも通底しているなと思った。
 正直言うと、「けもフレ騒動」に於ける業界人の対応は拙劣とまでは言えないが立派と太鼓判を押す事もしかねる者だったと思う。
 最初は佐藤順一や西田亜沙子が「吉崎先生はそんな嫉妬で現場をかき回すような人ではない」と庇っていたが、全く聞き入れらず却って邪推を呼んだためにツイートを削除したみたいな顛末があった。
 後出しじゃんけんで恐縮だが単刀直入に私見を述べれば、嫉妬でどうこうなんて些末な噂は流してしまった方が好かったのではないか。2019年以降は吉崎や細谷プロデューサーは枕営業等の性犯罪者、暴力団と関りの有る凶暴な人間とのレッテルを貼られるからだ。僕は嫉妬云々なんかよりその根も葉もない噂についてこそ抗弁すべきだと思った。何故なら嫉妬云々はあくまでアニメに係る話でしかない。アニメや映画のスタッフの交替とそれに纏わる揣摩憶測はバカには常に大好物で相手にしていれば埒が明かないし、そんなバカは究極無視ししていれば事足りるが、こと前述の性犯罪者というレッテルなどは勝手が違うだろう、これは人間の尊厳にかかわる話である為、アニメに関するうわさと違ってゆるがせには出来ない。佐藤や西田はそのような噂を好む連中のバカさ加減に嫌気がさして相手を止めたが、私は却って相手を辞めた後のクズ共の増長にこそ叱責をすべきだったと無責任だが感じてしまう。それにこそ人間としての優先があるだろうから。
 尤も、そのような罵詈雑言を見かねた最も近い友人の一人のOYSTERはボロクソに叩かれた。そのような惨劇を目の当たりにしてまで非難と言うほど強い言葉で佐藤や西田を責める事は出来ない。見かねてフォローを咥えた二人の事だ、吉崎と近い仲に違いなく、そのような人物が打擲を加えられるのを見聞するのは様々な意味合いで辛いだろうから、寧ろ2019年頃からの過熱における沈黙こそ友人を慮った(妥協的な)最適解である可能性も十分あるからだ。
 そこでふと無い物ねだりしたく思うのが、冒頭のアニメライターや批評家に対してだ。彼らこそ、嫉妬云々という揣摩憶測の下らなさと、そんな事で一線を越えない倫理を、そのような弁えを持ちながらも、その弁えからアニメを愛する情熱を伝えるべきではなかったか?そう思えてならないのだ。
 勿論ライターにそんな義理も義務も無いだろう。寧ろ年長者の吉崎をヒールにして若手のたつきを上げた方が儲かるという目算も正当であろうし関わらないも一興だ。然しそれはその憶測が嫉妬から犯罪者に高まるのを放置してまで得る物なのかと思ってしまうのだ。少なくとも、誠実で有能なライターがこの「けもフレ騒動」について詳しく関わっていればこの件はそこまで加熱せず、寧ろ友人を庇った両名が傷を負う様な理不尽は和らいだだろうと感じられてならない。
 だが、俺が上述したどれもこれも、身勝手な夢物語だろう。然し「監督降板に於ける嫉妬云々の噂とレイピスト認定はどう考えても同じラインではないぞ。やっていい事も悪い事も分からんのか」という嫌悪の一線は譲る気は無い。私はこのラインの提供者に佐藤や西田、アニメライターを求めたがそんな物、本来なら持参して然りだろう。


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