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紡ぐなんてたいそうな。

 「言葉を紡ぐ」なんていう人は大抵、スカスカなニットをつくっている。バーゲンセールで30%引きになっても売れ残る感じのやつ。デザインに惹かれることも、機能性を評価されることもないけれど、ニットを持っていなければまあ、欲しい人もいるかもしれないなってくらい。いやそもそも服になる以前の問題で、網目もめちゃくちゃ、毛羽だった糸が絡み合ってるだけなんて場合もある。でもその、がんじがらめになったその中に、ごく稀に際立った心地を見つけることもある。だから私たちはその、僅かな希望に幻影を抱いて、紡ぎ続ける動力を失えずにいる。止まらなければいつか、何かを生むかもって。

 私は言葉を紡ぎたくはない。それよりもなんていうか、自分の内面のさざなみに陶酔して、酔いが回って堰き止められなくなったそれを、吐き零すくらいの感覚。それくらいで内面というか、自分の髄液との距離を測って、いつの間にかそんな余裕を失って。そのなんだかよくわからない質量が無意識的に自分から言葉としてこぼれ落ちるくらいでいい。こんなんだから言葉にあまり向き合ってないと思われることも多い。他者に向けて話す言葉は別だが、自己の表出として使う言葉を慎重に選考することが殆どないわけだから当然だ。でも自分の、使い回したコーヒーフィルターみたいな意識を通して濾過された言葉を使うよりも、ただ溢れてしまったモノの方が、純度が高いと私は思う。汚れがこびり付いたフィルターを使うよりは、溢れたそれの方がずっといいものだ。

 だから意識が洗練された人間には、異常なくらいの羨望を持ってしまう。優秀な濾過機能を携えて、生じたそれをより綺麗に、美しくして、ただし味や香りを失うことなく外へと流せる人間に。私のいろんなものが混ざり合ったこれは、混沌としていて、何が何だかわからない人ばかりだし、おおよそわからない人の方が優れた感覚を持ち合わせているのだろう。

ただ何モノよりも、私は限りなく近い。

あまりに近いから見えない人ばかりなだけで、私が引く必要はたぶん、1ミリも、ない。後は見えなくても感じられる僅かなモノを、とにかく拡げていかなければと、ただ今は思ってやまない。

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