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ただいま、のさり中

「そこもと、名はなんと申す」

「それがし、生まれも育ちも・・・」

なんて口上を唱えていたのは今や昔。かつては、生まれた場所や素性が自分の確かな身分証明であり、その名に恥じないような立ち居振る舞いを求められた。それ故に人としての自由を奪われ、身分の高い者が名を偽って市井の暮らしに紛れ込むなんていうのは物語としてよくある話だった。


「オレ、オレオレ」

とオレオレ詐欺の若者が電話をするところから始まる山本起也監督映画「のさりの島」も素性を偽って市井の暮らしに紛れ込むという意味では同じかもしれない。いや正確には、オレにはそんなつもりはなく電話したばあちゃんと天草の人たちに紛れ込まされたというのが正しい。

天草の暮らしに紛れ込むうちに、自分という人、ばあちゃんという人、天草に住んでいる人々が少しずつ輪郭を持ってくる。

人と人とが知り合うのに、氏素性(もしくは肩書きと言ったほうがしっくりくるかも)など、ほんとに些末なことなのかもしれない。そして、そこに拘りすぎない方が人生は豊かで楽しい。


「またね」と言われた主人公のなんとも言えない微妙な笑顔のシーンが好き。きっとこれまでの人生で「またね」って言われたことがなく、うれしいけど素直にどう表現して良いのかわからなかったからあの笑顔になったと思う・・・。
(天草で一足先に試写会を観て今回が2度目)
舞台挨拶後、母親ほどの妙齢のおばさま達にも臆することなく、普通に会話を交わす20代の西野光さんを見て、「天草のおばさん達に可愛がられる理由がわかるわ〜」
(初めて知ったよ、あなたの仕事)
前のめりで舞台挨拶を聞き、一番乗りでサインを求め、「自分で考えないといけない映画だったね〜」とさらりと言う。そしてブルースハーモニカを呼吸のトレーニングで使えるのでは?とついつい仕事脳になってしまう。
(1ミリ単位で筋肉を動かす神の手の持ち主)
お名前一緒やと思ってたけど、漢字もまるっきり同じなんですね!
(同業者のご近所さん)
「のさり」とは天からの授かりものという意味を持つ天草地方の方言で、良いときにも悪い時にも使用する。人も環境であり、その一部である。
(舞台挨拶での山本起也監督)

監督の思いは私の拙い言葉では表現しきれません。

その監督の作品と、舞台挨拶の言葉を受けて一緒に行った面々の、それぞれがそれぞれに感じたことが、実におもしろい。


ヨガを幼児教育にと、今も実践されている伊藤華野先生がかつて授業の中で「人は関係性の中で生きている」と言っていた。「それを子どもたちに伝えるのがあなた達、保育士の仕事ですよ」とも。その言葉を折りに触れて思い出し、その関係性とは何かと常々考えている。

今も昔も人と人が生きて暮らしていく中で、関係性が大切であることに変わりはないと思う。ただ、その関係性のあり方が変わってきていて、何を大切にしたいかも時代とともに変化しているだろう。

たぶん10年前の私だったら挨拶さえも交わすこともなく、すれ違うことさえもなかった人たちと、「舞台挨拶いきます」と集まって、「じゃあ、またね!」と各々の場所へ帰っていく。そんな関係性が心地よく、私の居場所になっていることが不思議でもあり、素直にうれしい。

そんなことをしみじみと感じた映画「のさりの島」
ぜひ、劇場で味わってみてください。





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