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about 『AMERIICAN REQUIEM』

〈お断り〉


ビヨンセのソロキャリア8枚目のフルスタジオアルバム『COWBOY CARTER』のオープニングトラック。
アルバム制作のきっかけとなった個人的体験から建国の歴史まで、アメリカに問いかけ、祈りを捧げるレクイエム。
旗手たるビヨンセによって開かれる、壮大な「第二幕」がここに始まります。



歌詞日本語訳


Nothing really ends
真に終わりがあるものなんてない
For things to stay the same
何事も変わらずあり続けるためには、
they have to change again
何度でも変化する必要がある
Hello, my old friend
やあ、昔からの友
You change your name,
あなたは名前は変えるけど、
but not the ways you play pretend
ごっこ遊びをするその姿は変わらないようね
American Requiem
アメリカン・レクイエム
Them big ideas (Yeah)
大きな考えが
are buried here (Yeah)
ここには埋まっている
Amen
アーメン

It’s a lot of talking going on,
たくさんの会話が聞こえてくる、
while I sing my song
私が歌っている最中に
Can you hear me?
私の声は届いているの?
I said, do you hear me?
聞いてるのかって言ったのよ

Looka dere, looka dere now
あれを見なさい
Looka dere, looka dere
あれを見て

It’s a lotta chatter in here,
ここではおしゃべりばかり聞こえるけど、
but let me make myself clear
はっきり言わせて
Can you hear me?
私の声は届いていないの?
Or do you fear me?
それとも私のことを恐れてるの?

Can we stand for something?
私たちは信念をもって進めるかしら?
Now is the time to face the wind
今こそ困難に立ち向かうときよ
Covered in peace and love y’all
平穏に包まれてみんなを愛してるの
A lotta taking up space,
いろんなものが邪魔しているし、
salty tears beyond my gaze
私の視線の先には塩辛い涙がある
Can you stand me?
私は耐え難い存在なの?
Can we stand?
私たちは我慢できる?
Can you stand with me?
私と一緒に立ち上がりましょう

Can we stand for something?
私たちは信念をもって進めるかしら?
Now is the time to face the wind
今こそ困難に立ち向かうときよ
Now ain’t the time to pretend
今はもう偽るべき時じゃない
Now is the time to let love in
今こそ愛を受け入れるときよ
Thinking to myself (Thinking to myself)
私は心の中で考える

There’s a lot of talking going on
たくさんの会話が聞こえてくる、
while I sing my song (Yeah)
私が歌っている最中に
Do you hear me when I say?
私の言うことを聞いてくれますか?
Do you hear me when I say?
私の言葉を聞いてくれますか?

Looka dere, looka dere
あれを見なさい
Looka, look, looka, looka, looka, looka, looka, looka
見て
Looka dere, looka dere
Looka, looka, looka, looka, looka dere
Looka dere, looka dere
あれを見て
Looka dere, looka dere
あれを見るの
Looka, looka, looka, looka, looka, looka
見るのよ

Can we stand for something?
私たちは信念をもって進めるかしら?
Now is the time to face the wind
今こそ困難に立ち向かうときよ
Now ain’t the time to pretend
今はもう偽るべき時じゃない
Now is the time to let love in
今こそ愛を受け入れるときよ
Together can we stand?
みんなで一緒に立ち上がりましょう

Looka dere, looka in my hand
あれを見て、私の手の中を見て
The grandbaby of a moonshine man
私は密造酒をつくってたおじいちゃんの孫
Gadsden, Alabama
アラバマ州のガズデン
Got folk down in Galveston,
ガルベストンには家族がいて、
rooted in Louisiana
ルイジアナにルーツがあるの
Used to say I spoke too country
昔は「カントリーすぎる口調」ってよく言われてた
And then the rejection came,
でも今度は拒絶されて、
said I wasn’t country enough
私はカントリーには不十分だって言われた
Said I wouldn’t saddle up, but
私は馬に乗ろうとしないだろうとも言われたわ、でもね
If that ain’t country,
それがカントリーじゃないなら、
tell me what is?
一体何がカントリーなのかを教えて
Plant my bare feet on solid ground for years
何年もしっかりと地に足をつけて生きてきたのよ
They don’t, don’t know how hard
彼らは知らない、どれだけ辛いことかを、
I had to fight for this
私がこれに立ち向かわなければいけなかったということが
When I sang my song
私が私の曲を歌う時

(When I sang the song of Abraham)
(私がアブラハムの歌を歌う時)
(when the angels guide and take my hand.)
(それは天使が私の手を取り導いてくれる時)

Goodbye to what has been
これまでのことにはさよならしよう
A pretty house that we never settled in
私たちが決してくつろげなかった素敵な家にも
A funeral for fair-weather friends
うわべだけの友人のお葬式よ
I am the one to cleanse me of my Father’s sins
私はただ一人、建国の父の罪を贖う
American Requiem
アメリカン・レクイエム
Them big ideas (Yeah)
大きな考えが
are buried here (Yeah)
ここには埋まっている
Amen
アーメン




背景情報・解釈可能性

タイトルについて

タイトル中では「American」という単語の「i」が重ねられて「Ameriican」となっていますが、ここではこのアルバムが三部作のうちの「第二幕 / act ii」であることを強調する以上の意味はなく、読み方もそのまま「アメリカン」だと思われます。

タイトルにある「requiem / レクイエム」という言葉は、カトリック教会のミサ(簡単に言えば、教会で行われる儀式のこと)の中でも死者の安息を神に願う・死者を悼むミサやそこで歌われるミサ曲を指すようです。
このミサでは、他のミサでは歌われない「イントロイトゥス:入祭唱」と呼ばれるものが最初にあり、その冒頭にある「安息=レクイエム」という言葉から、この典礼全体をそう呼ぶようです。

ちなみに、日本語においては「鎮魂歌」「鎮魂曲」と訳される場合が多い気がしますが、そもそも「鎮魂」という言葉が神道のものであるため、厳密に言うとレクイエムの訳語としては不適切なようです。

レクイエムはそうした性格から、しばしば葬儀と同義的に扱われるようになり、音楽としてのレクイエムも、宗教的・典礼的な関連がない場合においても、「死」「喪」に関するものに使用されるようになったようです。

このオープニングトラックは、始めと終わりの部分が聖歌を意識したものになっており、厳密に儀式としてのレクイエムを表現しているわけではないにせよ、「レクイエム」というテーマは曲調としても表現されており、最後の部分には「a funeral / 葬儀」という直接死に関連する単語も使用されています。

また、タイトルの表現方法について「Requiem for America / アメリカに捧げるレクイエム」というタイトルであれば、アメリカ自体をもはや生きていないものとして、その死を悼んでいる内容になると思います。
しかし、「American requiem / アメリカのレクイエム」というタイトルが付けられていることから、どれだけ不条理で、実際に辛い経験を強いられてきた社会であったとしても、アメリカという国をビヨンセが見放しているわけではないということが表れているのかなとも考えられます。
つまり、アメリカという国をつくってきた人々やそこで生まれてきた思想・歴史などの過去のものの安息を祈りながらも、それらに別れを告げ、未来のアメリカへと向かうためのビヨンセなりの「レクイエム」なのではないかなと思いました。



詳細情報

ここからは、再度冒頭からパートごとに歌詞を振り返りながら、いろいろな“説”を紹介していきます。
パートの区分は公式サイトの歌詞に基づいています。

Intro

(※1)
Nothing really ends (※2)
真に終わりがあるものなんてない
For things to stay the same they have to change again
何事も変わらずあり続けるためには、何度でも変化する必要がある
Hello, my old friend (※3)
やあ、昔からの友
You change your name, but not the ways you play pretend (※4)
あなたは名前は変えるけど、ごっこ遊びをするその姿は変わらないようね
American Requiem (※5)
アメリカン・レクイエム
Them big ideas (Yeah) are buried here (Yeah) (※6)
大きな考えがここには埋まっている
Amen (※7)
アーメン

※1
公式のクレジットには記されていませんが、本楽曲の始まりは、ロシアの作曲家チャイコフスキー(Чайковский)による序曲『1812年』の冒頭部分を参考にしているのではという指摘があります。
(ここでの序曲はオペラなどの始まりに演奏されるものではなく、「演奏会用序曲」という独立した作品で、単一で演奏される前提のオーケストラ楽曲を指すようです。)
作品タイトルの1812年は、かのフランス皇帝 ナポレオン1世がロシアへ侵攻し、大敗した年であり、この出来事はナポレオンの栄光が途絶えるきっかけとなり、ヨーロッパ史の大きな転換点となったことで知られています。
フランス国歌が徐々にかき消されるような表現などでロシア軍がフランス軍を撃退する様子を描いた迫力満点のこの作品は、7月4日のアメリカ独立記念日を象徴する作品としても知られています。
しかし、この作品自体にも歴史的にもアメリカ独立記念日とこのロシアの序曲が結びつくようなことはなく、アメリカ人の大雑把さが表れているなと感じます(笑)
(ちなみに、現在はロシアのウクライナ侵攻を受けて、アメリカに限らず日本などでも、ロシア軍が勝利する様を描いたこの作品は演奏が中止されることが多いようです。)
しかし、『AMERIICAN REQUIEM』とのかかわりで考えると、「Father(s) / 建国の父」という単語が最後に登場することからも、独立記念日と深く結びついたメロディに近づけることで、アメリカ建国の歴史というテーマを暗示していると考えられます。

加えて、『1812年』の冒頭部分は、ロシア正教会の聖歌である『神よ、汝の民を救いたまえ(Спаси, Господи, люди Твоя)』に基づいて作曲されています。
よって、宗派は違えど、同じキリスト教の典礼であるレクイエムというテーマには合っているなと思います。

※2
この「終わらない」ものとして、3つの解釈を紹介します。

1) 人種差別への言及説
 2016年にリリースされた6枚目のソロスタジオアルバム『Lemonade』には、ビヨンセが初めて大きくカントリーミュージックに取り組んだ楽曲として『Daddy Lessons』が収録されています。
しかし、そのリリースや同年のカントリーミュージックアワード「CMAs」においてチックス(The Chicks)と共に行ったパフォーマンスなどが、カントリーミュージックの大きなファン層である保守派の白人男性を中心に大きく非難される結果となりました。
今回のアルバム『COWBOY CARTER』について書かれたメッセージの中では、この年の出来事が「拒絶された経験」として示唆され、それが最新アルバムの発想源となったことが明かされています。
人種に基づく差別は次々と解消されているように見えますが、現代においても有色人種の人々は真の自由・平等からは程遠く、これが「終わりのない」問題であると訴えているように思えます。
さらにその下の一文は、「音楽ジャンルと人種」のような音楽業界における差別問題、さらに具体的に言えばビヨンセがカントリーミュージックに取り組むことで経験した差別も、はるか昔から続いている人種差別が形を変えて残り続けているという意味で捉えることができます。

2) ビヨンセのキャリアについての言及説
 ビヨンセは、その27年に及ぶキャリアの中で、音楽作品だけに限らず、さまざまな活動・場面で常に新しいことへ挑戦し、成功を掴んできた稀有な人物だと思います。
よってこの部分とその下の一文は、ビヨンセは生涯世界的なスーパースターであり、またそうあり続けるためには、絶え間ない変化が必要不可欠であるということを意味していると捉えられます。

3) アルバム『COWBOY CARTER』自体のことを暗示している説
 このアルバムの最後のトラック『AMEN』には、『AMERIICAN REQUIEM』のイントロ、またはアウトロと共通した部分が含まれており、円環構造のアルバムになっていることがわかります。
そうした意味で「終わりのない」音楽アルバムを暗示し、最後のトラックから再び最初へと戻るときの橋渡しとなるフレーズとして捉えることができます。


※3
ここで「旧友」としてあいさつされている相手として、2つの解釈を紹介します。

1) ビヨンセの音楽を聴いてきたファン、リスナー説
 そのファン、リスナーがここで「old friend / 昔からの友人」として呼ばれているとすると、ビヨンセがこのアルバム、ひいてはこの三部作においてこれまでの作品とはまた異なる、新たな領域へと突入したという意識を反映しているのだと考えられます。
(もともと三部作の第一幕としてこの『COWBOY CARTER』が予定されていたところを、パンデミック収束後の世界には『RENAISSANCE』のダンスミュージックが必要としてリリース順を変更した背景があります。
よって三部作という新たな挑戦の始まりとして、これまでのファンへあいさつをしていると考えることができます。)

2) アメリカ合衆国という国を擬人化して指している説
 ここに続く一文にある「名前は変えても、振る舞い方は変えない」という部分が、先述のアメリカに根付いてしまった「終わらない」人種差別に関連して、アメリカが抱え続けている矛盾に対しての言及であると捉えられます。
それを含めて、ビヨンセ自身アメリカで生まれた一人として、「昔なじみ」であるアメリカに呼びかけていると考えられます。


※4
繰り返しになりますが、※3の二つの解釈から二番目のものを採用すると、「you / あなた」という単語で指されているのはアメリカ合衆国となります。
さらに、「名前を変える」という部分を反映させるならば、現在アメリカ合衆国として知られている国・社会やそこで継承されている「ごっこ遊び」とも呼べる風習を指していると考えられます。

アメリカという巨大な共和国が出来上がるまでを簡単に見てみると、ヨーロッパの国々による北アメリカ大陸における植民地争奪にイギリスが勝利するも、イギリス本国と植民地との間での対立が深まったことで革命が起き、独立戦争に勝利した植民地側は世界初の近代的憲法を制定し独立国家となります。
さらに、西部開拓が進むにつれて国内で奴隷制をめぐる南北の対立が激化し、そうして起きた南北戦争に北部が勝利することで合衆国が再統一されるという流れだと思います。

植民地へと移住しアメリカを建国した人物も元をたどれば植民地主義を推し進めた欧州の人々です。
またそれぞれの時代を振り返ると、植民地時代には、反抗する先住民は排除され、黒人は南部の農場に奴隷として連れてこられ、合衆国憲法においても先住民や黒人の権利は決して認められず(女性の参政権も無い前提だった)、さらに西部開拓時代には強制移住法により先住民は土地を奪われ、そして現代社会にまで人種に基づく差別は根強く残っています。

このように、時代が変わり国や力をもつグループの名前が変わったとしても、「自由主義ごっこ」「平等ごっこ」の裏で、理不尽に弱い立場の人々を搾取し続けるという姿勢は変わることがないと言っていると捉えられます。


※5
【タイトルについて】参照


※6
「here / ここ」の異なる捉え方による、この部分の解釈を紹介します。

1) 「ここ」=「アメリカ合衆国」説
 イギリスの植民地という立場からの独立を宣言したアメリカ独立宣言の前文には、基本的人権の一つとして「幸福追求の権利」が記され、これが「アメリカン・ドリーム」という言葉の元となり、努力次第で成功を叶えられる場所としてのアメリカのイメージを定着させたように思います。
また、その他の基本的人権として記された「平等・自由」という言葉に見られる理想主義的な考えなど、これらが「big idea / 大きな理想」としてアメリカという国の下地になっているということを言っていると捉えられるかもしれません。

一方で、「アメリカン・ドリーム」という理想も白人男性という特定の生まれの人にとってのものであり、それ以外の人は差別に阻まれ、どれだけ努力しようとも成功することは到底できなかったり、白人男性の何倍もの努力や犠牲を捧げなければならず、また独立宣言やその後の合衆国憲法では、先住民や黒人たちは同じ対等な人間としても考えられませんでした。
死者の魂の安息を祈るレクイエムがこの楽曲のタイトルに使用されていることなどをふまえると、そうした暴力や偽善によって支えらたアメリカの理想主義的な「big idea」は、「buried / 埋葬」された死体のように腐った考え方でありながら、アメリカという国はその根底にあるこうした考えの上を生きることしかできないと言っているのかもしれません。

2) 「ここ」=アルバム『COWBOY CARTER』説
 この部分以前の歌詞を人種差別に関わるものであると解釈すれば、ビヨンセはこのアルバム全体に「big idea / 大きな意図」として、音楽業界、そしてアメリカという一つの国全体に残り続けている人種差別問題を再提起するというコンセプト、メッセージを込めたということを表していると考えられます。
また、人種に基づいて定義されたり、誰かにとって単純明快なように定義された音楽ジャンルのに囚われずに、その区別を破壊し、音楽作品自体を拡張しようというような「big idea / 壮大なアイデア」が込められているとも考えられます。


※7
この言葉は、この楽曲および最後のトラックを締めくくる歌詞として登場し、さらにはこのアルバムの最終トラックのタイトルにもなっています。
ヘブライ語由来のこの言葉は、アブラハムの宗教と呼ばれるユダヤ教・キリスト教・イスラム教の三つに共通して使用される言葉で、「まことに」「本当にその通りだ」などの意味をもつようです。
キリスト教においては、司祭などによる祈りの最後にその言葉が真実であることを強調する際や、その言葉を聞いた他の信者が賛同の気持ちを表すために唱えられるようです。
また「讃美歌」も一般的に「Amen」という言葉で締めくくられるようになっており、この「讃美歌」がより一般的になるにつれて他の箇所でもよく使用されるようになったようです。

つまりここでは、聖歌の一種である讃美歌の様式になぞらえながら、このパート、またはこのトラック全体でビヨンセが捧げる祈りを総括し確認するとともに、その祈りを信じていることを表明するための言葉だと考えられます。


Verse 1

(※8)
It’s a lot of talking going on, while I sing my song (※9)
たくさんの会話が聞こえてくる、私が歌っている最中に
Can you hear me? (※10)
私の声は届いているの?
I said, do you hear me?
聞いてるのかって言ったのよ

※8
曲調が一気に変わるこの部分では、インターポレーションとして、アメリカのロックバンド バッファロー・スプリングフィールド(Buffalo Springfield)の『For What It's Worth』のメロディが使用されています。
(挿入句や改ざんなどとも訳される「interpolation」という単語は、音楽においては既存の曲をそのまま使用するサンプリングとは異なり、特定の部分を再演奏・再録音して使用することを指すようです。)

このバンドは、この楽曲を作詞・作曲したスティーヴン・スティルス(Stephen Stills)や、ニール・ヤング(Neil Young)といった、のちに大物アーティストとなったメンバーによって、わずか2年間の活動期間でありながら伝説的バンドとして知られているようです。
彼らの代表的な作品であるこのトラックが発表された1960年代は、世界的にカウンターカルチャーが若者を中心に発展した時代であり、さらには冷戦が再び危機的な様相を呈する中で、ベトナム戦争が起こった時代でもありました。
そんな中で発表されたこの楽曲は、「gun / 銃」「battle line / 戦線」といった単語が歌詞に含まれていることからもベトナム戦争に対する反戦歌として大ヒットしたようです。
しかし、作者であるスティルスが直接この作品のモチーフにしたのは、当時彼らがハウスバンドをつとめていたナイトクラブのあった、カリフォルニア州ウェスト・ハリウッドで起こった暴動だと言われています。
若者たちの迷惑行為を受けて夜10時以降の外出を禁止する条例が制定され、それに反対した若者と警察が衝突し、結果的に逮捕者が出たりナイトクラブの取り壊しが行われるという出来事を経験したスティルスが、大人の一方的な決定に抗議する若者の一人として書いた曲のようです。
そうした意味では、『AMERIICAN REQUIEM』と内容的に直接関連している部分は少ないのかなと思います。

ですがここで、楽曲内に一度も登場していないにも関わらずタイトルとなっている「For what it's worth」という言葉に注目してみたいと思います。
このフレーズは、発話者が「自分の言葉はあくまで自分の提案や意見であるため、実際に役に立つかはわからない」と謙遜する表現として使用されるようです。

以上よりこのインターポレーションの役割として二つのことが考えられます。
一つは、カントリーやアメリカーナを主軸としたアルバムの始まりの楽曲として、聖歌に続いて60年代のロックバンドの曲を登場させるというサウンドにおける、ジャンルブレイカー ビヨンセの宣言的な役割です。
そしてもう一つとして、この楽曲やアルバム全体を通して伝えられていくビヨンセのアメリカや世界中の人々に向けてのメッセージは、「あくまで私の意見です」という決して尊大な態度をとらないビヨンセの姿勢を示す役割があるのではないかなと思いました。

ちなみに公式のミュージックビデオと呼べるものかわかりませんが、ウェスタンな帽子をかぶったスティルスが、他のメンバーと共にこの曲をパフォーマンスしている動画があります。

※9
この部分は、※2で書いた『Daddy Lessons』のリリースや「CMAs」でのパフォーマンスにおける体験への直接的な言及だと考えられ、カントリー調の楽曲をパフォーマンスするビヨンセらに対して、演奏中にも関わらず否定的な会話が繰り広げられている様子が表現されているようです。
CMAsでのパフォーマンス映像でも、ところどころに真顔でステージに目をやる男性が写っており、実際の会場も異様な空気感だったと言います。

※10
直接的にこの楽曲・歌詞とは関係ありませんが、今年のスーパーボウルで放送された「Verizon」(アメリカ合衆国の大手携帯キャリアで、世界第二位の通信会社としても知られる)のCMは、この最新アルバムである「act ii」の始まりとなったものですが、そのVerizonのおなじみのキャッチコピーが「Can you here me now? / 聞こえてますか?」であるようです。
ビヨンセが出演したCM内でも、大統領選挙ならぬ「合衆国“ビヨンセ”選挙」に立候補する場面で同じフレーズを口にしています。


Hook 1

Looka dere, looka dere now (※11)
あれを見なさい
Looka dere, looka dere (※12)
あれを見て

※11
この部分の歌詞は、ルイジアナ州出身のアーティスト ジョン・バティステ(Jon Batiste)とNo I.D.として知られる音楽プロデューサーの二人によって書かれたもののようで、バティステの公式SNSで制作時のやりとりの一部が公開されていました。
バティステが語った通り、「looka dere」というのは彼の出身地であるルイジアナ地方の方言として使用されている言葉であり、一般的な単語で表すと「look (at) there」となるようです。
こうした言葉は、「黒人英語 / African-American Vernacular English (AAVE)」の一つであり、少し先に出てくる「y'all / みんな」という単語もテキサスを中心としたアメリカ南部の方言のようです。

「looka dere = look there」はそのまま、話している場所から離れたところに相手の視線を誘導する時に使用されると思うのですが、メキシコ湾岸の地域では「looka」という言葉だけでも、見ることの他に考えることを促すために使用されることがあるそうです。
ここではあえてアメリカ南部の方言、黒人英語を使用して、前のパートで描かれたような、ビヨンセの言葉や歌声を聴かずに話している人々に向かって、しっかりと耳を傾けるように促していると考えられます。


※12
ここは、同じ「looka dere / あれを見てみろよ」という歌詞ではありますが、前半とは異なりささやくように歌われており、またその背後にビヨンセの別のボーカルも聞こえます。
よって、このパート後半の部分は、ビヨンセのステージを指差しながら否定的な言葉をささやき合う観客の声やそうした会場の様子を表しているとも捉えられるかなと思いました。


Verse 2

It’s a lotta chatter in here, but let me make myself clear
ここではおしゃべりばかり聞こえるけど、はっきり言わせて
Can you hear me?
私の声は届いていないの?
Or do you fear me? (※13)
それとも私のことを恐れてるの?

※13
『Daddy Lessons』が収録されたビヨンセ6枚目のソロスタジオアルバム『Lemonade』は、ビヨンセがこれまで以上に人種問題へと踏み込んだ作品という側面も持っています。
そして「CMAs」でのパフォーマンスにしてみても、イラク侵攻を非難したことが反アメリカ的だと非難され10年以上もの間、授賞式に出席していなかったチックスと共に登場するなど、ビヨンセのその姿勢はいつも信念に基づいた意義あるものでした。
「hear / 聞く」と「fear / 恐れる」という類似した音の動詞を使って、そうしたビヨンセのステージを前に観客たちがこそこそ話しているのは、ただ聴く気がないのか、それともビヨンセという存在や彼女の行動を恐れている表れなのか、と迫っている強烈な表現になっています。


Hook 2

Can we stand for something? (※14)
私たちは信念をもって進めるかしら?
Now is the time to face the wind (※15)
今こそ困難に立ち向かうときよ
Covered in peace and love y’all
平穏に包まれてみんなを愛しているわ

※14
「stand for something」というフレーズは、特定の考えや価値観、主義を受け入れ、支持するという意味で使用されるようです。
また、ある問題に対してそれが大多数の意見とは異なっていたとしても、確固たる自身の立場を表明し、どれほどの反対や困難にぶつかったとしても、信念を曲げずに進むことを表現することも多いようです。
ビヨンセはそうした確固たる信念を抱けるかと、聴いている人々に問いかけているようです。


※15
こちらは想像しやすいかもしれませんが、「face the wind」は強い向かい風を困難になぞらえたイディオムで、大きな問題に直面した時に逃げ出さずにしっかりと向き合うことを表すフレーズです。
一つ前の問いかけにつながるかたちで、ビヨンセが社会にはびこる困難に一緒に立ち向かうように呼びかけています。


Verse 3

A lotta taking up space, salty tears beyond my gaze (※16)
いろんなものが邪魔しているし、私の視線の先には塩辛い涙がある
Can you stand me? (※17)
私は耐え難い存在なの?
Can we stand?
私たちは我慢できる?
Can you stand with me?
私と一緒に立ち上がりましょう

※16
この前半については、「take up space」というフレーズが場所を塞ぐという意味になり、ビヨンセにとってさまざまなものが障害物となって立ちはだかっていることや、音楽業界やアメリカ社会において善くない人々が幅をきかせていることを表していると思われます。

唐突ですが、人間の涙の味はその原因となる感情によって変化すると言われています。
悔しさや怒りといった感情を抱くときは交感神経がはたらき、涙は塩辛いものに、嬉しさや悲しみといった感情を抱くときは副交感神経がはたらき、涙は少し甘いものになるようです。
よって後半にある「salty tears / しょっぱい涙」の理由には悲しみではなく、怒りや屈辱といった感情があると考えられます。


※17
「stand / 耐える・我慢する」という単語から、これまでビヨンセの音楽作品やその他の活動を受け入れず、非難してきた人々に向けて発されている問いかけだと考えられます。
今回のアルバムに限って考えれば、ビヨンセがカントリーミュージックへ足を踏み入れたことに抗議し、黒人をそのジャンルから排除しようとする動きへの言及だと捉えられます。

一方、この「Can you stand me?」という問いかけが素早く繰り返されていくことで、「stand」が「stan」に聞こえる効果があるという指摘もあります。
「stan」という単語は「stalker / ストーカー」と「fan / ファン」を組み合わせたスラングとして、有名人やアーティストを熱狂的に推していることを表すようですが、ここでは適切な解釈とはいまいち思えません。


Hook 3

Can we stand for something?
私たちは信念をもって進めるかしら?
Now is the time to face the wind
今こそ困難に立ち向かうときよ
Now ain’t the time to pretend. (※18)
今はもう偽るべき時じゃない
Now is the time to let love in
今こそ愛を受け入れるときよ

※18
イントロの「but not the ways you play pretend / ごっこ遊びの仕方は変わらない」という部分とつなげて考えると、アメリカにおける華やかな成功や自由というイメージの裏で続いてきた人種差別を見過ごしたり助長する安全圏にいる人々に向けて、何かになりきる「ごっこ遊び・おままごと」をしているように、何事もないように振る舞うのはもう終わりにする時だと言っているのだと考えられます。
そしてその下で言っているように、こうした現状は「love / 愛」の欠如によるものであり、愛を持って接することで状況が変わると考えていることがわかります。


Verse 4

Thinking to myself (Thinking to myself)
私は心の中で考える
There’s a lot of talking going on while I sing my song (Yeah)
たくさんの会話が聞こえてくる、私が歌っている最中に
Do you hear me when I say?
私の言うことを聞いてくれますか?
Do you hear me when I say?
私の言葉を聞いてくれますか?


Hook 4

Looka dere, looka dere
あれを見なさい
Looka, look, looka, looka, looka, looka, looka, looka
見て
Looka dere, looka dere
Looka, looka, looka, looka, looka dere
Looka dere, looka dere
あれを見て
Looka dere, looka dere
あれを見るの
Looka, looka, looka, looka, looka, looka (※19)
見るのよ
Can we stand for something?
私たちは信念をもって進めるかしら?
Now is the time to face the wind
今こそ困難に立ち向かうときよ
Now ain’t the time to pretend
今はもう偽るべき時じゃない
Now is the time to let love in
今こそ愛を受け入れるときよ
Together can we stand?
みんなで一緒に立ち上がりましょう

※19
このパートはこのトラックでの一つの頂点であり、最も印象的な部分かなと思います。
注の部分はボーカル的に一番感情が爆発している箇所だと感じますが、最後まで意識して聴いてみると、そのまま感情の昂りにまかせるように高音で叫び終わるのではなく、しっかりと低音に戻り「yeah」という声で着地しているのがわかります。
これを本当に大げさに捉えれば、この楽曲、ひいてはこのアルバム全体として、ビヨンセはただ感情的な怒りや不満を訴えているのではなく、あくまで理知的に問題を見つめているということを表現していると言えるかも知れません。

これは、これ以上ないほど感情的で情熱的なパフォーマンスを披露しながらも、他の部分がおろそかになることがない冷静さを常に持っているビヨンセのステージ・パフォーマンスなどにも共通しているかなと思います。


Outro

Looka dere, looka in my hand (※20)
あれを見て、私の手の中を見て
The grandbaby of a moonshine man (※21)
私は密造酒をつくってたおじいちゃんの孫
Gadsden, Alabama (※22)
アラバマ州のガズデン
Got folk down in Galveston, rooted in Louisiana (※23)
ガルベストンには家族がいて、ルイジアナにルーツがあるの
Used to say I spoke too country (※24)
昔は「カントリーすぎる口調」ってよく言われてた
And then the rejection came, said I wasn’t country enough (※25)
でも今度は拒絶されて、私はカントリーには不十分だって言われた
Said I wouldn’t saddle up, but (※26)
私は馬に乗ろうとしないだろうとも言われたわ、でもね
If that ain’t country, tell me what is?
それがカントリーじゃないなら、一体何をカントリーというのか教えて
Plant my bare feet on solid ground for years (※27)
何年もしっかりと地に足をつけて生きてきたのよ
They don’t, don’t know how hard I had to fight for this (※28)
彼らは知らない、どれだけ辛いことかを、私がこれに立ち向かわなければいけなかったということが
When I sang my song
私が私の曲を歌う時
(When I sang the song of Abraham) (※29)
(私がアブラハムの歌を歌う時)
(when the angels guide and take my hand.) (※30)
(それは天使が私の手を取り導いてくれる時)

※20
この「looka in my hand / 私の手の中を見て」という部分が、次に「密造酒」という言葉が出てくることに関連し、「liquor in my hand / 私の手にある酒」と聞こえるという意見があります。
また、今回のアルバムのジャケット写真(通常版)を参照して、ビヨンセが掲げている大きな星条旗=アメリカ合衆国自体へ注意を向けようとしているという解釈や、日本語でも同様の表現があるように、ビヨンセの「手中にある」パワーや築き上げた財産、さらに以降の自分のルーツを歌う部分とのつながりで考えれば、ビヨンセが先祖から受け継いで背負っている遺産に注目することを要求しているという解釈もできます。


※21
ここにある「moonshine」は「密造酒」を表す単語で、禁酒法時代などに摘発を免れるために昼間ではなく月が輝く夜のうちに密かに作られ運搬されたことから来ている言葉のようです。
そのような密造酒は、アメリカにおいては南北戦争の時代から、ビヨンセのルーツでもあるアメリカ南部でその多くが作られ、ある種の伝統となったもののようです。
よってこの次の部分にも共通して、ビヨンセのルーツが語られているところとなります。


※22
アラバマ州ガズデンは、ビヨンセの父マシュー・ノウルズ(Mathew Knowles)の出身地であり、奴隷制が廃止された以後の世界において人種差別を合法のものとした「ジム=クロウ法」がまだ残っていた時代=公民権運動が興った時代に、その人種差別の中心地とも言えるこの地でマシューは幼少期を過ごしたといいます。
また、マシューは白人と同じ学校に通った黒人の第一世代にあたり、学校の統合に反対する者も多くいた当時の黒人生徒は、教師からも生徒からもひどい差別を受けたと言われており、そうしたガズデンでの実体験などを書いた著書『Racism from the Eyes of a Child / 子どもが見た人種差別』もマシューの手によって刊行されているようです。

2016年のアルバム『Lemonade』の先行シングルとしてサプライズリリースされた『Formation』においても、ビヨンセは両親の生まれ=自身のルーツを歌い上げています。


※23
テキサス州ガルベストンは、ビヨンセの母ティナ・ノウルズ(Tina Knowles)の出身地です。
さらにティナのルーツをたどると、まだ北アメリカで植民地の争奪が行われていた時にフランス領であったルイジアナに行きつき、彼女はその土地の子孫であるクレオール系の黒人にあたります。
(「Louisiana / ルイジアナ」という地名も、フランスの太陽王 ルイ14世(Louis XIV)が由来となっています。
また、ティナの旧姓でありビヨンセの名前の由来ともなった「Beyoncé」という名前のルーツもフランスとアフリカにあります。)


※24
テキサス州ヒューストンで生まれ育ったビヨンセは、デビュー当初からインタビューやスピーチ、映画などでの話し方から「カントリーすぎる口調だ」とアメリカ南部の訛りがあることをバカにされてきたと言います。
こういった過去の苦い経験をふまえるという意味でも、「looka dere」「y'all」などの南部訛りの言葉を歌詞に入れていると考えられます。


※25
この部分は、ビヨンセが初めてカントリーミュージックに大々的に取り組んだ作品である『Daddy Lessons』が、グラミー賞のカントリー部門に提出したにも関わらず、ふさわしくないとされて拒否された事実を表しているように思えます。
またこれらのビヨンセがカントリーにふさわしくないとする声に静かに反論するように「ALWAYS BEEN COUNTRY / 私はずっとカントリーで在り続けている」というテーマの特設サイトが作られ、ビヨンセのルーツやカントリー文化に関連した写真などが不定期に投稿されています。


※26
この部分で「excerpt / 引用」として、夫ジェイ・Z(Jay-Z)の楽曲である『Heart of the City (Ain’t No Love)』から一部のメロディが使用されています。
(引用や抜粋といった訳になると思われる「excerpt」は、広義にはサンプリングの一種ですが、数秒ほどの短いメロディなどを使用する際に用いられる言葉のようです。)
カニエ・ウェスト(Kanye West)がプロデュースしたこの曲は、自分の成功を妬む人々からヘイトを向けられるジェイ・Zが、そのように愛のない冷酷な街 ニューヨークの中心でその現実を嘆く作品のようで、内容的なつながりは見えません。
クレジットには、『Heart Of The City (Ain’t No Love)』がアルバムバージョンと、MTVの音楽番組「MTV Unplugged」でのライブパフォーマンスのバージョンの2つが記されています。
本楽曲で使用されている音は、ライブバージョンに近いように聴こえますが、原曲にも同じモチーフは認められるため記されているのかなと思います。
最初はまったくどこが引用部分かわかりませんでしたが、該当箇所を知って、音源を聴き比べたりしてからは、逆にこの部分だけ過度に意識して聴いてしまっています(笑)

〈引用箇所が簡単に比較できるサイト〉

https://www.whosampled.com/sample/1168361/Beyonc%C3%A9-AMERIICAN-REQUIEM-Jay-Z-Heart-of-the-City-(Ain%27t-No-Love)-Live/

※27
ここでは「bare feet / 裸足」という言葉で、ビヨンセの生まれ育った土地や環境が裸足で駆け回るような「田舎 / country」であったことを暗示し、さらに「solid ground / しっかりとした基盤」という言葉で、ビヨンセが自身のルーツに意識的であり、また誇りをもっていることが表現されていると捉えられます。


※28

公式サイトの歌詞では、この部分の主語が「we」になっており、「how hard we had to fight for this / 私たちが闘わなければならなかったことがどれほど辛いことか」という風になっています。
声を聴く限りでは「we」とは聞こえないので、単なる誤字かもしれませんが、同じような屈辱や怒りを抱えたこれまでの人々をビヨンセが代表している一文だと考えてもまったく不自然ではないなと思いました。


※29
アブラハムは、先述した通り、ユダヤ・キリスト・イスラムの三つの宗教に共通して最初の預言者とされる人物です。
一人息子のイサクを生贄として捧げよという神の命令までも受け入れるという「イサクの燔祭(はんさい)」と呼ばれる逸話が知られており、その忠実な信仰姿勢から「信仰の父」と呼ばれるようです。
ここでは、アブラハムという主題によってビヨンセの信仰心の篤さを示すとともに、再び聖歌風のアウトロ部分に入る導入となっています。


※30
「イサクの燔祭」の話は、アブラハムが息子イサクを神に捧げようと刃物を振り上げた瞬間、神の御使い=天使が現れ、イサクを殺そうとする手を止め、代わりに雄羊を捧げることで2人は助かるという結末で終わります。
よってここでは、アブラハムのように信心深くあれば、天使が導いてくれる、この世界にも希望はあると歌っていると考えられます。


Outro

Goodbye to what has been
これまでのことにはさよならしよう
A pretty house that we never settled in (※31)
私たちが決してくつろげなかった素敵な家にも
A funeral for fair-weather friends (※32)
うわべだけの友人のお葬式よ
I am the one to cleanse me of my Father’s sins (※33)
私はただ一人、建国の父の罪を贖う
American Requiem
アメリカン・レクイエム
Them big ideas (Yeah) are buried here (Yeah)
大きな大きな考えが、ここには埋まっている。
Amen
アーメン
(※34)

※31
ここで「a pretty house / 素敵なお家」として表現されているのは、アメリカ合衆国のことであり、白人のためにつくりあげられた見せかけの理想的な共同体を皮肉を込めて表現していると考えられます。
これまで見てきたように、こうしたアメリカが建国され、発展してきた輝かしい歴史は、先住民や有色人種への暴力や搾取に支えられたものでした。
そのようにしてできあがった国においては、差別を受けてきた人々が住み慣れることも、心を落ち着かせることもできなかったのだという悲惨な歴史が描かれています。


※32
「fair weather / 晴天、好天」から派生した「fair-weather friends」とは、空が晴れている時間限定というような「都合のいい時だけの友だち」、逆に言えば「困ったり、助けが必要な、いざという時に頼りにならない友だち」を表す言葉です。
同じく「friend / 友だち」という単語が使われていた冒頭の「my old friend」につなげて考えれば、この「頼りにならない友だち」はアメリカを指し、黒人である自分にとっては心から信用できる友人とは呼べないことを表していると考えられます。
またビヨンセ自身も、そして歴史的にも多くの有色人種や先住民の人々が経験してきたであろう、普段は友好的な関係を築いていると見せかけながらも、弱い立場にある自分たちが本当の困難に直面した時には手を貸さず、そっぽを向くような人々とのうわべだけの関係は、もう十分だという意思を「a funeral / 葬式」という言葉で表していると考えられます。


※33
ここでは、歴史的に称えられながらも、実際は弱者が搾取される残酷な構造をつくりあげた「建国の父」と呼ばれる人々の罪を、より良い未来のアメリカを見据えるビヨンセが独りで贖い清め、祈りを捧げている様子が描かれています。

前作であり、三部作1枚目のアルバムである『RENAISSANCE』のオープニングトラック『I'M THAT GIRL』の中では、「Cleanse me of my sins / 私は自分自身の罪を洗い清める」というフレーズがあり、オープニングトラックという点においても共通点が見られます。
また同じ『I'M THAT GIRL』内で繰り返されていた「un-American / アメリカ的じゃない」という言葉の意図も、この楽曲、ひいてはこの最新アルバム全体に通ずるものかなと思います。


※34
このトラックの最後の部分には、次の楽曲である『BLACKBIIRD』へのトランジッション=移行部分として、コオロギと思われる虫の鳴き声、ギターのボディを叩くカウント、鳥のさえずりが入っています。
鳥の鳴き声とアコースティックギターとういう要素は、そのまま次のトラックにつながるものだと思います。
もう一つの虫の声という要素は、それが夜行性のコオロギのものと仮定すれば、「Blackbird singing in the dead of night / 真夜中に鳴いている黒い鳥」というフレーズで始まる次の楽曲の場面につながります。
(自分の頭に真っ先に浮かんだのは「鈴虫」でしたが、こちらは基本的に日本にしか生息していないようです。)
そのような虫が生息でき、かつ鳴き声が聞こえるような静かな場所ということから、田舎=カントリーの風景につながるかなと思います。

また、次のカバートラックの本家であるビートルズ(The Beatles)の11枚目のスタジオアルバム『Abbey Road』において、楽曲『You Never Give Me Your Money』と『Sun King』の間のトランジッションでもコオロギの鳴き声が使用されています。



リリックビデオ

『AMERIICAN REQUIEM』のリリックビデオの背景は、山肌が写された場面が一つだけ使用されたシンプルなものになっています。
この砂漠に近い景色は、「act ii」のトレーラー映像などでも見られた土地と地続きのものと考えられ、ここでは車輪の跡か人が歩いた道が引かれているのが見えます。
こうした砂漠という舞台は、典型的な西部劇の舞台のひとつとしても考えられるかなと思います。
歌詞の表示には、セリフ体と呼ばれる日本語における明朝体のようなフォントが使用されており、最終トラックである『AMEN』においてのみ同じフォントの使用が見られます。




クレジット情報


軽く調べただけですが、『RENAISSANCE』より前にリリース予定だったためか、アルバム全体として、3部作以前最後のスタジオアルバムとなる『The Lion King: The Gift』や、『Lemonade』から『RENAISSANCE』の期間に行われたステージパフォーマンスに参加していたアーティストが多く関わっているなと感じました。


あまり馴染みがなかったので調べてみると、「Choir / クワイア」は聖堂建築の用語としても使用される言葉で、音楽としては厳密には単なるコーラスとは異なるものを指すようです。
一般的な歌唱グループやバックアップボーカルを広く指す「コーラス」に対して、クワイアは教会や礼拝での歌唱を指すことが多く、宗教的性格が強いものとされるみたいです。
ちなみに、黒人音楽の代表的なものであるゴスペルは、「the Gospel / 福音」が名前になっている通り、クワイア同様宗教的主題を扱い、合唱形態をとる場合が多いようですが、よりソウルフルな歌唱で、手拍子や身体を使ってリズムをとることなどが特徴とされるようです。

〈参考サイト〉



また、楽器の一つとして使用されている「シタール」は、北インド発祥の古典的な弦楽器で、1960年代にビートルズのジョージ・ハリスン(George Harrison)らロック・ミュージシャンが楽曲に使用し始めたことで大きく知られるようになったものだそうです。
『AMERIICAN REQUIEM』では、最初に曲の雰囲気がガラッと変わる部分(1回目の「Amen」以降)で聴こえてくる少し不思議な、エスニックな感じのする音がこのシタールだと思われます。

インド音楽を取り入れるきっかけとなった人物 ラヴィ・シャンカルと共に
シタールを演奏するジョージ・ハリスン


— 終 —

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