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《エッセイ》カヌレを食べる日

 生命線をつないでゆくためにカヌレを食べに行った。

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 東京はくもり空からの雨予報。けれど出かけるときはまだ雨が降っていなくて、私はえいやと外に出る。化粧はしない。知人には会わないし、化粧を落とす労力のことを思うと今はそれだけのことがひどく億劫だった。読みかけの本一冊と、スーパーで買いものをするかもしれなかったからエコバッグも持って、着慣れた真っ黒なワンピースとショルダーバッグを引っ提げて歩く。

 外に出ると社会と町が広がっている。たくさんの家、飲みものを買って喉を潤すための自動販売機、仕事途中の人、休息を満喫する人、飼い犬や野良猫、さまざまが在る。

 自分ではない他者が生きていること、が、たまにすごく尊いことに思えるときがある。私は昔、生きている人間は私だけで私以外はみんなロボットだと思って生きていた。でも実際にそんなことはなくて、みんな呼吸をし、血を通わせ、生きものとして生きているし、私がこれまで生きてきたのと同等の数多の時間を過ごし、その人だけの人生を過ごしてきている。
 つまり、私が過ごした10年と同じ長さを、たとえば今このカフェで働いているあの女性も10年過ごしてきたということ。彼女のその10年分の時間に何があったか、何が起こったか、私には知る由がないしきっと知らないまま一生が終わるけれど、彼女には彼女の人生があったし、それと同様に私には私の人生がある。それだけのことをとても大切にしたくなる。そんなことを考えながら紅茶を口に含む。

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 今までの中で一番症状が重い。私は生まれた意味も生きる意味もありはしないと考える人間だけれど、それであっても自分は今何のために生きているのか? を考えてしまう今日この頃だ。それは裏を返せば明確に生きる意味を感じていないということで、ここしばらくは“死ぬこと”を遠くない未来の選択肢の一つとして含めながら日々を過ごしていた。

 もしも死んだら何が起こるかを考える。色々があるんだろうが、色んな人に、死んだらしい、と思われること、つまり私の死を認知されることが嫌だなと思った。
 私のことは気にせずそのまま波風の立たない日々を過ごしてほしい、どこか人生の途中で思い出したりもしなくていい。何かを美化されるのも貶められるのも嫌で、そっとひとつの風が吹いて花が揺れる、そのくらいの現象として済んでほしいと思う。けれどそれは叶わないのだろうと思った。私が知らないだけで、この社会で一人の人間が死ぬことはきっととんでもない強風、もしくは吹き止まないゆるやかな風を巻き起こす出来ごとなのだと思う。だから死んだとき、色んな人にそのことを認知されたくないのであれば、今からできることはもうこれ以上誰とも関わらないということであって、あまり現実的ではないことだ。であればまぁ、生きるか……となる辺り、そもそも私には命を終える必要はまだない、ということなのだとも思う。

 もしも死んだらあなたが悲しむだろう、と考える。それがすごく嫌だった。あなたにとって人一倍に辛い出来ごとになるだろうことを思うと、気が重くなる。
 あなたの前では「もう死にたいよ」なんて言えなかった。きっとこれからも言えない。相手が他でもないあなただから言えない。人一倍の恐怖をあなたの中に芽吹かせることをしたいなんて、私はずっと思わない。それでも、じゃああなたのために生きるよ、なんて思える人間では私はないし、そう思えるほど元気ではなかった。

 出逢わなければよかったか? そもそもの始点がなければよかったのだろうか。もしも出逢わなかったら、なんて今さらどうにもならないことを考えることはしないけれど、それでも出逢わない方が幸せだったのだろうか? とは思ってしまう。
 そこまで考えて、それでも出逢えて幸せだった。
 そんな結末にいとも容易くたどり着けてしまうことがなぜか悲しい。あなたと出逢えて幸福だったということ、たったそれだけが今自明だった。

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 今日はカヌレを食べに来た。おいしいものを食べに行こう、と思ったんだと思う。洒落た空間で、穏やかな音楽が流れる中で、本を読みながら、呼吸をして、おいしいものを食べて、飲んで、そのときを生きるために。
 それはどう考えても、このときを生きて生命線をつないでゆくための、前向きな営みでしかなくて、だから私は悲しかった。死から遠のいてゆくこと、あなたと生き続けること、それを選ぼうとするだけのちからがまだ私の内にあること。

 カヌレは美味しかったし、店員さんは優しかったし、店の居心地もよかった。だから私はいつか、あなたを誘ってこの店に来ようと思った。生命線をつないだ先で至ったどこかの未来、私とあなたは並んでカヌレを食べる。たったそれだけの幸福を味わうために、私はまたこの店に来る。

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