大阪へ。

今日、風俗に関する本を読んだ。

正確には、飛田新地に関する本である。

そこで働く女性だけでなく、組合やヤクザなんかも登場したり。ディープな内容だった割には、底なしの闇へ墜ちていかず、踏み止まっている自分に気が付く。

数年前の私は抽象的な存在としての“悪”に支配されてしまいがちだったから、一歩間違えば被害妄想が現実化したかのような、ある種の幻覚のようなものに支配されていただろうと推測するのだが、今は違う。

一体なぜだろう。

おそらく“日常”という外部環境の変化のせいだと思う。

私は今、約20人の他人と同じ屋根の下で暮らしている。いわゆるシェアハウスという住まい方だ。

ここでの暮らしでは、常に自分と異質な他人という存在が身近にあり、世界の広さを教えてくれる。

例えばいま、私がパソコンを広げるリビングの片隅では、明日のためズボンにアイロンをかける若いサラリーマンに、主婦が作り置きをお裾分けしてる。少し自慢気な主婦と、無邪気に喜ぶサラリーマン…。あ、今度は別のシェアメイト、なぜか大量のカボスを持って帰宅。。

こんな風景が、思考の圧力を四方八方へ発散させ、私の世界が収縮しようとする動きに歯止めをかける。

最近、意識的に“自己の透明性の認識”と“取捨選択”するようにしていることも一因かもしれない。

時間の流れの中で生きていくことは、否応なしに変化していくことに他ならない。

どうせ変化していくのなら、悪いものを積み重ね腐ってしまうのではなく、常に良い方向に変わっていきたい。心も体も。

外部の影響を受けやすい“超敏感人間”として、不必要なものは積極的に捨てていこうと思い、この二つのキーワードを常に胸に抱いている。

良い変化のためには単に“捨てる”だけではだめで、糧にすべきことを吸収し自分のものとしていく必要がある。

では、痛みを伴ってでも学んでいくべきものとはいったい何だろう。

本を読み終わった今、そんなことを考えている。

私はいま、就職試験の作文の準備中。練習用に書く作文の題材を探している。その一つとして考えているのが、大阪を舞台に“女性の自立”を考えるというものだ。

三姉妹の次女、女子高に六年間通ったという自分の生い立ちに加えて、昨今安倍内閣の女性大臣がダブル辞任したことを受け、社会は女性に対しどのように向き合っていけばいいのかを考えてみたいと思うに至った。

できれば私の故郷、堺出身の与謝野晶子の考えを引用したい。それから飛田新地で働く女性たちも取材できれば、などと考えている。

 “大阪”。私がこの土地名から連想する風景は、新世界の狂った野良犬、小便の匂いがどこからともなくする寂れた生野の商店街、下半身丸出しで追いかけてくる堺東駅付近に出没した露出魔、人通りの少ない阿倍野の墓場横の細い道、喧嘩による流血を目撃した梅田の深夜のネカフェ、こんな感じ。

第二の都市、大阪には多くの物があふれ、たくさんの人がおり、数えられないくらいのイメージがあるはずだ。

それでも、やはりこの風景が私の中の大阪なのだ。

当時の私は大阪で、強く長く記憶に残る“貧困”を見て、そのイメージが狭い、狭い認識に繋がっているのだろう。

自分の半径、五メートル外の世界に手を伸ばし、歴史を知って人と話せば、もっと豊かなものを内包した場所であったことに気付くことができるはずだ。

過去と向き合い、今までとは別の意味を見つけたい。来週は、そんな思いで帰省したいと思っている。

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