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心地よく秘密めいたはなし

夕暮れのプールサイド。誰もいない、青く塗られたなまぬるいコンクリートの波打ち際。闇色の四つの瞳は灯り始めた街街の明かりを照り返すこともなく、ただただ暗く開かれていた。あるいは星ひとつ瞬かぬ夜空のように、あるいは光の息の緒が絶えた海底のように。
「ではあかつき、教えていただけませんか。ワタシのことを。」
そう言って、病的に整った能面の無表情が顔を寄せる。異常に近い。スピーカーからささやく声がくすぐったい。ちょっと腰を引きながら、メガネの少女は返事をした。
「教えてあげるね。いぶきちゃんのことを」

心地よく秘密めいたはなし

「いぶきちゃん…?」
その声に、“国分寺周防”は振り向いた。
情報係の夜八と警備のホロウと歓談をしていたらもうこんな時間だ、と。遅いアフタヌーンティーにぴったりの、どっしりしたつやのあるスコーン――わざわざ走ってデパートメントストアのパン屋で買ってきた、まだ温かいお茶うけ――を両の袖で持ち、さあ休憩の延長戦の延長戦を始めましょうといったその時、モニタールームのはす向かい、談話室の手前の廊下で国分寺周防は振り向いた。
「あ…やっぱりいぶきちゃんだ。久しぶり…じゃなくて、初めまして ですね」
「…………どうして そちらの 名前を?」
国分寺は薄笑いを少し消して、ほとんど無表情に近い顔で見上げる。同じ瞳の色、同じ血の気のない白い肌。人好きのする穏和な笑顔の、黒縁メガネの少女の顔を。
「フォスフォロスです」
背の高いセーラー服の少女はそう名乗った。存じております。と国分寺は返す。「この間の昼礼で紹介のあった、情報係の新人さんですね」
そうではなく、
「そんな初対面の新人さんが、ワタシのことを“国分寺”でも“周防”でもなく、“ぷおちゃん”ですらなく、……いえ、」
場所を改めましょう。と国分寺は小声で言い、歓談室に入ると皿に盛ったスコーンをざらざらと丸ごと平らげて、情報の先輩に挨拶をしながらそそくさと出て行った。フォスフォロスはちょっと迷って、先輩課員に慌てた挨拶をしてから国分寺の背中を追った。
「なんでお皿だけ置いていくのさ!ひとつずつくらい残しておいてくださいよ!」歓談室から首を伸ばしてホロウが抗議するが、ふたりの姿はもう見えず、速足の音だけが響いていた。

***

「前の職場の関係者から会員カードをいただいているのです。」と、国分寺は磁気ストライプ入りの黒いPVCカードを袖から覗かせる。サンズグループホールディングス-観光子会社の経営する会員スパ・フィットネスクラブのカードだ。「まあ、ターミナルから少し離れたこのスパはご覧の通りの客入りですが……」壁面格納された無人クレーンと調整設備だけが穏やかな待機音を鳴らし、客の姿は全く見えない。階下ではトレーナー付きでエアロバイクやヨガを楽しむ各人種の紳士ご婦人の方々がちらほら見えたものだが、このプールは色温度の低いインテリア照明――メタマテリアルも使わないレトロ嗜好な骨とう品――の薄明りだけが、水底より誇らしげに主張していた。
じゃあ、
「ここはないしょ話にぴったり?」「はい。」ベルト張りのプールサイドチェアに腰掛け、セーラー服のままのふたりは季節外れのトロピカルジュースをついばむ。フォスフォロスは少し考えて、「環境課のみんなには、聞かれたくない名前だった…?」と切り出す。
「いえ、そうでもありませんが」と、なにか恥ずかしいむかし話が飛び出ると困りますからね。国分寺は続ける。

いぶき到達不能極船伊吹とは、国分寺がかつて海上で乗っていた船の名前だ。そして、揃えてつけられた国分寺の生来の名前でもあった。そんなことを環境課で話した覚えは国分寺になかったし、ましてや新人が知るはずもなかった。
「その船が沈むの、見てたの」と、フォスフォロスは答えた。「わたしはその、に、いたんです。や、いるんです」口ごもりながら空を指さす。「あわ、言っちゃダメな気がする」とちょっと目を泳がせたが、国分寺は水面だけを見ながら「ワタシが乗っていたのは、――ワタシは、大戦期より使用されていたいわくつきの船でした。元は戦艦。キミがどういう何かを詮索するつもりはありませんが、つまり監視をしていたということであっても、おかしくない代物だったことでしょう」フォスフォロスは音声を発さずに、口元をきゅっと結んで何度も首肯する。
「沈んだ場所はわかりますか?船は今どこにありますか?」「ログは、……ここ10年はずっと動いてない……沈んだ場所は…」高濃度汚染海域の真ん中。国分寺は携帯端末で数値を確認し、ふむ、と声を出す。「一度調べた場所ですね 確かに大きな残骸はあったようです。」が、引き上げは部分的にしか行われず、“体”があった電気室はそこから見つかっていない。
……。会話がつかの間途切れて、
ちょっと自分のことばかり話題にしすぎました。国分寺はそうこぼした。「キミのことが知りたいです」と、続ける。
「わたしは……わたしは…これは言っちゃダメ…?あれは…?ダメ。えーと… ふぉ……えーん…」口ごもるフォスフォロスを見て、国分寺は口癖をもらす。
ぷお。
いぶきと呼ばれてからこちら、ずっと表情を消したままだった彼女は、ようやっと薄笑いを浮かべてチェアに体を満遍なく預けた。
「失礼、そうでなくていいんですよ。好きな食べ物はありますか?環境課には慣れましたか?最近あったちょっと困っちゃう出来事なんて、思い出せたりしちゃいますか?」
少し飲み込んでから、ぱあっと明るくなったフォスフォロスの顔はひどく可憐な具合で。「わたし、わたしが好きなものはね!クレープ…ターミナルすぐそばでいつもとまってるワゴンショップ……あ、いぶきちゃん、知っていますか…?」ええ。「そう、あそこおいしくってですね……店員さんが……」フォスフォロスはゆったりした様子で雄弁に話した。自分の好きなもの、身の回りの物、赤子のようにすべてが珍しいらしく、このジムのことやプールがきれいだということも、今になってぽろぽろと言葉にした。
「あかつき。」
「はい。いぶきちゃんの名前とはまた少し違いますが、わたしだけ、いぶきちゃんのひみつのことを知っているのも悪いように思って」
「そうですか。でしたらふたりの時にはこのように呼びあいましょう。
あかつき。フォスフォロスが教えた彼女の名前。プロジェクト名か、あるいは内部呼称か。いずれにせよ これについても国分寺は詳細を聞かなかった。教えてからフォスフォロスは恥ずかしくなったのか、血の気のない頬を抑えた。少し話しすぎたかな とも思った。一方国分寺はといえば、食むように「ひみつのこと、ね。」と呟き、
「ああ、そうだ、ほかにどれくらい知っているんですか?“いぶき”について。」と尋ねる。
「ん、ええと…………怪しい動きをしたら連絡しなきゃいけない……ってこと…あと、船の外観と、位置と、信号のパターン…そのパターンも結局ほとんど解析できなかったけど、あと……」

乗っていた女の子、いぶきと呼ばれていた子の、見た目。

どういう身のこなしをしたのか、いつの間にか音もたてずフォスフォロスに馬乗りになった国分寺は、袖でネオンイエローのスカーフをぎゅっと握り、顔を寄せ、ひどく珍しい表情――険しく顰めた瞳で、声の出ない口蓋をぱくぱくさせた。そうか、それを知っていなければ、“国分寺”を見て“いぶき”だと思うわけがない 考えればわかることだ。
「差異は、教えてください 差異はありますか」「え?え?」フォスフォロスは突然の意味不明な詰問に戸惑う。「うろ覚えなんです。ワタシはワタシのことをちゃんと思い出せない。あれからもう15年も経っている。」
自分の形を、自分が人間であったことを、このままだと忘れてしまいそうな気がするんです。と国分寺は言った。その顔貌は彼女が彼女でいるためのアイデンティティの最後の砦なのだろう。だから沈んだ船の位置を聞いたのだろう。“撮っておけばよかったと後悔した写真”は、フォスフォロスの瞳の中にある。では、
「ではあかつき、教えていただけませんか。ワタシのことを。」

***

「あれ?」終業後の最後の業務、モニタールーム前室に磁気ドライブを置きに来た夜八は声を上げる。おやつと歓談のためか、情報係へ来ていた国分寺を見て、普段と髪型が違っていることに気付いたからだ。
「ぷおちゃん!イメチェンしたんだね」「はい。」丸みを帯びたボブ、穏やかなカーブの前髪口元のほくろは幾分か、彼女を大人びて見せている。……つまんでいる揚げパンの粉砂糖が、口元をかなり子供っぽく見せている。
空圧式自動ドアがスライドして、フォスフォロスがその高い背を丸めて部屋に入る。「クレープ買ってきましたよ!ティータイムにしませんか~!」ホロウもいたずらっぽい笑顔でついてきて、ボーパルがガラスの向こうでもー!と抗議の声を上げている。「飲食禁止ー!あと今は休憩時間じゃありませーん!」
終業時間過ぎではありますよ~ と国分寺は返し、えっ?!とボーパルは時計を見やる。「うそー?!終わらない…じゃあわたしも休憩する……」と、うなだれて出てくるスナネコの肩をぽふぽふ叩きながら、国分寺はフォスフォロスに目を合わせる。黒灰色の舌で唇の砂糖をなめとって、
「この前言ってたやつですか?」「あ、うん……」
と、やり取り。聞いたホロウが眉を顰める。「なに?その……なに?」「ずるいですよ!私もフォスフォロスちゃんとアイコンタクトで意味深なやり取りする―!」夜八が笑顔で抗議して、ボーパルもちゃちゃを入れる。フォスフォロスは意味深なんかじゃないんです~!とぱたぱたしている。
ぷお。国分寺は楽しそうな情報係の掛け合いを耳に、ゆっくり闇色の瞳を閉じてクレープを頬張った。夕暮れのようにあたたかな、マーマレードの味がした。