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あなたの畢生の物語(1)

0.
セダンが走る。今時めずらしいガソリン車。右ハンドルで、その座席はハンドルを握ったロナルド・ハンティントンにはかなり小さすぎるように見えた。見ようによれば滑稽で、こんな時に――リンリンがこれを見たら笑ったかも知れない。だとか、この車は課長の趣味からするとどんな具合なのだろう。だとか、残した課員の顔が次々に浮かび、フローロ・ケローロは瞼を押し上げて夜道だけをじっと見た。

「相模に着いたら起こしますので「それまでは眠っていても構いませんよ」
「あなたの前で眠れるほど気を抜いたわけではありませんから」

トンネルに入る。ナトリウムランプに照らされたロナルドは少し耳元に手を当て、ほお!とか、そうですか、そうですか。などと相槌を打っている。電脳の通信機能であれば……そんな仕草は必要ない。とすれば、これはフローロへ聞かせているのだ。表情はおだやかに見える。仮にあるとすれば、という話であって、また彼の悍ましい容貌を暫く見慣れてしまったせいかもしれない。手元の通信デバイスはずっと圏外を示しているので、もしかすると何とも話しておらず、大きな独り言なのかも知れない。その顔が、不意にこちらを向く。
「おめでとうございます。フローロさん、環境課への強制介入は差し止められました」

意味があったのかどうかはわからない。
自分がこの男の好きにされて、その甲斐があっての結果か、それとも関係なく、そうなのか、あるいは――あまり考えたくないが、ここまでが全てド取の思惑通りなのか。わからない。けれど――
「……よかった」
そう、苦しい一息はつくことが出来た。車が減速する。ジャンクションが視界の端をよぎる。

1.
結局のところ、案の定というか、フローロ・ケローロはロナルドの隣で、目的地である相模ブロックに到着するまで一睡もすることが出来なかった。かなり遠回りしていたらしいという事は聞いたが、どれほど時間が経過したかはきちんと把握できていない。
わからない。
ロナルドはド取の顛末について、環境課管轄ブロックについて、事務的に、または少し気遣って話してきたが、彼は全然その辺りに興味・関心が無いようで、道々で目に入る洋服や広告の話ばかりしてきた。こちらが警戒しているのを、敵意を持っているのを、不愉快を覚えているのを――知っていながら、わかっていながら、絶妙に注意することの難しい頻度とタイミングで……何気なく話しかけてくる。前もって知らされていた、元タレントであるとか、俳優であるとか……というのも、どこか納得することは出来た。そのようなメディア文化に相当疎いフローロからしても、明確に彼は話が上手だった。

『ようこそ相模区画へ!』『手を差し伸べる街、相模』『本当の“思いやり”とは?!
朝日に照らされたアーケードの隅には、児童が描いたと思しき手塗りのポスターが数枚掛かっている。相模ブロックは環境課の管轄地に比べて、かなり穏当に見えた。海沿いからしばらくセラミック成形の直線的ですっきりとした建物が続いて、坂ばかりの住宅地はアルミ押し出し式のなめらかな外壁を持った教育機関がぽつぽつと並び、美しく舗装された歩道を子連れの家族がよく通ったりしていた。幸せそうな笑顔。犯罪の香りもしない。いくつかの家は玄関があいたまま生活していたりして、そうしてそれを子供たちが行き交っていた。角の生えた子、耳の長い子、全身を半透明のシリコン皮膜で包んだ男の子に、スラリと長い三本足の少女、遠くで年配の獣人が花壇をいじっていて、わけのわからない、小型の傘が連結したような、多数の耳、口腔を持った生き物……の散歩をしている若い義体の母親が通る。

「亜人の方……が、多いですね」
「皆さん第五元素です「皆さん重覚を持った方々です「皆さん、いずれかのブロックを出てここへ移住された……と伺っております」
第五元素――あまりいい印象はない。リンリンを縛ったライル・ミツルギの件は、噂とは言え払拭することの難しい思い出だ。イオを癒やした白磁の聖母、アルファマリア……これから先、命を預ける相手だが、挙動も目的も読めないし、ロナルドが関わっているという点はほとんど最悪に近い判断材料ではある。しかし――

ボールが足元へ転がってくる。三本足の少女が駆け寄り、フローロは彼女にボールを手渡す。「ありがとうーかえるのお姉さん。はじめまして!」はじめまして。フローロは少女の丁寧すぎるお辞儀につられ、つい深く頭を下げてしまう。
「ロナルドさんも久しぶりです。おはようございます」「おはようございます!「麻木さん「少し髪型を変えましたね」知り合いらしい。普通に――喋っている。
少女は手を振り駆けていき、「麻木さん!「そちらは被災区域ですよー!」ロナルドは教育機関の担当職員のような振る舞いだ。通行止めテープを避けるように、彼女は友達の輪へ戻っていく。
第五元素についてはますますわからない。フローロは短い時間で反応に困る出来事に立ち会いすぎて、全く休めていないこともあって、ちょっとだけ狼狽していた。
その狼狽は続いて、少し歩いた頃、駅からやや離れた大きな道路沿いにあるモール。その液晶ディスプレイで打たれる最新の義体向け化粧品広告。一瞬目を疑う。シリコンスキンの淀みないコンディション維持を謳っているのは、平板な声、多分、宣伝に向いていない。無感動な読み上げ。白磁の聖母アルファマリアが、無表情で小瓶を抱えている。『……すばらしく、魅力的な肌……であるとか、美的……な質感を、即日入手…できます』
それを眺めていると、ははは…と隣から軽い笑い声。「先生は……「あまり向いておられませんね「コマーシャルには」
フローロはそうですね。という返事を押し殺して……ロナルドと意見が合うのが嫌で、そのモールの奥、ロナルドが案内した道の先、“NLSF”のロゴが慎ましく掲げられた大きなビルへと先に足を踏み入れる。

「……」
フローロはテクノロジーの知識をそこまで有しているわけではない。電脳の周辺知識も、四物の技術開発も、勉強はしているが見ただけでどのような機能があるものか、そこまで見抜けるほどではない。
だから、第五元素の大本山と思って踏み込んだ建物を目にした時の感想は、とても牧歌的なものになった。大きくて、知っている。くらいのものだ……そもそも、第五元素の威圧的なファイア・ダイヤモンドは掲げられていない。メディアで時折名前の出る医療支援団体――NLSF。ここはあくまでその本部なのであって、それ以上のものであるようには見えなかった。
建物の中にある設備は――メ学の関連設備や西部ブロック管理機関跡地で見たような、違法な脳バッテリの開発施設やライル・ミツルギのラボラトリーで見たような、そういった摩訶不思議な印象のものではない。単に見知った、例えば事務手続きに関する機材、小綺麗に並んではいるが一世代前の液晶ディスプレイ、医療用と思しき白いパウダーコートの折りたたまれたフレーム、テンションのしっかりとしたポリエステルの寝台、格納されたクレーン。それらが知っている十倍、数十倍の規模で整然と並んでいて、リノリウムの上を化繊でできた白衣を身にまとう男女が時折慌ただしく駆けていく。もっと――残存資料でしか見たことのない、外部ブロックの豪奢な宮殿や宗教施設の飾り付けが出てくるものと思っていて、持っていた儀礼派のイメージとは随分違って見えた。
少し立ち止まってしまって、ロナルドがすいと先導する形に戻る。フローロは少しだけ足を早め、彼の隣へ追いつく。進んでいくと受付のように見える大きなテーブルが目についた。わずかに計算機のラックで仕切られてはいるが、巨大な柱を一本背にした以外はただ開かれた一角、その柱の壁面には同じ角度で佇む科学者然とした硬い表情の肖像画が掛けられていて……よく見れば、肖像画の下、受付のような席に座っているのは……アルファマリアだ。ブロックの長であるはずだが、彼女はこんなに風通しのいい場所で待ち構えていた。ロナルドとフローロが来たことに気付いているのかいないのか、瞼を全く閉じた能面で、むしろここには不似合いな西洋白磁の歴史的ティーカップに、歴史的にゆっくりと紅茶を注いでいる。あたりにふんわりと良い香りが漂う……が、紅茶の銘柄は天然物ではない。100%人工物の代用茶だ。それに同じく人工の角砂糖を……ゆっくり……あまりにも、挙動が、遅い……!!

ようこそ……フローロ・ケローロ…」
「NLSFの……アルファマリアです。お待ちして…おりましたあなたと……ロナルドが来るのを」「ああ!「おはようございます先生!「今日はですねこ――
ロナルドが何かを行っているその最中に――慌ただしくスタッフが駆け込んでくる。担架と包帯、血色の良くない、刈り込まれた金髪と細い指のような角を備えた男性が、痛々しい火傷を伴って運ばれてくる。重電施設――何者かが――電気事故――室内にいたスタッフへ状況が断片的に説明され、詳しくは添付の画像を、と恐らく電脳へのアクセスであろう、一瞬間を置いて男性は奥へと運ばれていった。添付された画像というものはアルファマリアにも送られているらしく、彼女はカップの持ち手に指を揃えて添えて、なにか確認か、承諾か、会話でもしているのだろうか……元々ほとんど身動きはしていなかったように見えるが、動きを止めている。

ちょっとして。「失礼……いたしました……立て込んでいて…」と、フローロへ向き直る。向き直ってはいない。彼女はずっと西洋白磁のカップを撫で回していて、顔はこちらを向いていないのだ。
フローロはどんな顔をしていいかわからず、「その……すみません お忙しいところ」と、申し訳ないようにちょっと会釈をして返事を口にした。
聞いて、全く否定せずに「はい……大変…忙しいです……」とアルファマリアは返す。
「……本当に。ゆっくりする時間も……ありません…」とても、非常に、ゆっくり喋り、西洋白磁で紅茶を啜る。柱の向こう、施設の奥でスタッフのああーッ!という叫び声が響き、何かが砕ける音がして、アルファマリアはほんの少しだけそちらに首を向け、興味を失ったようにカップへ向き戻る。
それからは、ややまどろっこしい話し方ではあるがすらすらと、フローロが受ける施術についての説明、その担当者がアルファマリア本人であること、ただしセットアップ段階までであり侵襲についてはNLSFと第五の科学者が担当すること。電脳転写の手続きには4日、施術に10日。リハビリに14日かかり、概ね一ヶ月相模で過ごしてもらう旨の説明がなされた。それを言い終わる頃、棚を倒してしまったと泣きながら報告しに来た大きな耳の獣人が駆け込んできて、アルファマリアはごく適当にそれをあしらい、冷めているであろう紅茶を一口啜った。「今週で4回目です。彼女が棚を倒すのは」

淡々とはしているが、人当たりはそこまで悪くない。得体は知れないが、事務的にでも丁寧に説明はしてくれる。フローロは頷いて、ありがとうございますと返し、もう一度考えた。概ね一ヶ月。環境課への強制介入はひとまず――止まっている。課員たちは無事なのか、ブロックがどうなるのか、一ヶ月というラグでそれが気にはなったが、彼らのことは信じる他にない。

……フローロが黙っているのを、訝しんでいると捉えたのか、怯えていると受け取ったのか、アルファマリアは少し上を向いてご安心下さい。と告げる。
「例えばわたくしも…ピルグリム第五局地開発室の全員が……単一の意識として……コンバートされた状態です…」
そういう意味では、あなたに近いところがあるかもしれません。と。前例は自分である。意識として捉えられるならば電脳へと統合できる。だから安心して良い。と。彼女は言いたいのだろう。
そう、アルファマリアの開かれたオフィスに、横一列に飾られた肖像画。歴代の経営者の写真でも飾っているのかと思ったが――違う。これは、全てがアルファマリアなのだ。自分のオフィスに、一周自分の絵を飾り付ける女……悪趣味と言えば悪趣味である。一瞬わずかな人間性の見え隠れに気を抜きそうになったフローロは、逆に全く安心ができなくなった。やはりわからない。ロナルドも、アルファマリアも、第五も、相模ブロックも。

ちらりと奥を見て、「…………少し……場所を移しましょう」アルファマリアはそう言った。彼女が立ち上がると、背の高く均整の取れた体つきがよく見て取れる。フローロが着いてくるのを目で追うこともなく、飛び立つ前の水鳥のようにくいくいと指先のメスを伸ばす仕草をして、緩慢な足取りでNLSFの奥部へと歩き出した。