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狗は無慈悲な夕餉の女王

「ガメザ、ギリシアにおけるプロメテウスの火を知っているわね?」と、だしぬけに隠岐は口を開いた。
「エ?」ガメザは震える指で小さな銀のフォークをつまみながら、やや白い顔を上げる。
隠岐はその様子に一瞥もくれず、グラスに注いだ貴腐ワインをくいと舐めて、「あれはつまり」そう続ける。「火によって知恵が授けられたということを示した民話よ」
「そう、頁が捲れないほどの遠い昔、雷の山火事なんかで偶然に燃える薪を手に入れたのでしょうね。人類は」
「そうして得られた火が、その温度が、加熱調理を可能にしたの」
「加熱調理された肉は柔らかで消化しやすいわ。これはつまり、硬い生の肉をかみ切る咬合力がいらなくなったと言うことを示している」
「つまりね、脳を縛り付ける――頭蓋骨にまたがる顎の長大な筋肉が、必要ではなくなった、ということなの。この筋肉のバンドから解き放たれた灰色の知恵のたんぱく質は、喜び勇んで大きく膨れ上がったわ。わずか60万年の間に2倍ものサイズにね」
「人間とかいう二足歩行の、万物の霊長を名乗るたかが猿の延長が、どうしてこの地上を統べることができたのか、それはひとえに食事の変化なのよ。」
「ではわたしの――これはまあ、真似事だけれど。獣人の持つこの長い口吻は、何のためにあるのかしら?発話ができるこの唇は、でも彼らと同じものであるはず。不条理だとは思わない?口先で狩りをするわけでなし、強いあごの力を活かすわけでなし」
「わたしたちは――いえ、だから、わたしのは真似事だけれど。この不条理なる特徴は、いったいなんなのかしら?いずれにせよ、今この形で過ごしやすい文化は、イヌ科ではなくヒト科のそれのように、わたしには思える。だとすれば?そのルールの上に座るべきじゃないかしら。いえ、まあ実際がどうであれ、ここは彼らの食卓なのだから。彼らの知恵の庭なのだから。この社会や、この環境課の中で椅子を置くためには、最低限の人類式の知恵への礼儀が必要なのよ。きっとね
「え、え……どういうこと……ちょっと待って、隠岐サン、もう一回……」
飲み込めず、ガメザがフォークを取り落とすと、隠岐は表情のない顔をそちらに向けて。
「今のは嘘よ」「嘘??!?」と、このようにやり取りをした。

◆◆◆

狗は無慈悲な夕餉の女王

◆◆◆

ガメザが歩いている。庁舎の中を、肩を落として歩いている。青い顔で。
「どうしたんですかぁ~ガメザ先輩~」「おやー?どうされたんですか、ガメザ先輩」「っせぇな!散れ散れ」
付いて回る包帯だらけの瑠璃川とこちらは無傷の国分寺に手を振って見せ、ガメザはエメラルドグリーンの髪を揺らす。以前よりずいぶん伸びたその髪は、いやさすっぱりと切られ、ここしばらくで様々な髪型を披露してくれる。そんなバリエーションはガメザをいくらか品のある顔立ちに見せるのだが――
立てられる中指。失礼極まりないそのエモート。「そんなんだからカフちゃんにも嫌われるんですよ~?」「あァ?関係ねェよお前は――」
「――あー。ガメザくん、魔女、待ってるよ……」こっそり近づいて、曲がり角から顔をにゅっと出したボーパルが告げる。では、わたしは、この辺で……と、こそこそと姿を消す。関わりたくない。これ以上この件について触れるつもりはない。わたしは関係ない。ちゃんと言ったから……ボーパルのじっとりとした困り顔が目に浮かぶ。
魔女。隠岐衿奈。“監察のバラバラにしてくる方”、“品性”、“常識を騙る非常識”、“出会うな危険”。妙なあだ名は枚挙に暇がない。
そんな厄介環境課代表に呼び出されたのが、この青い顔のガメザだったのだ。病み上がりだってのによ……と、心の中でぬるい溜息をつく。

◆◆◆

扉を開く。そうすると、バロック調の、なれど日の射さぬ洞窟かと見まごうようなドス黒い食堂が、食卓が、そこには広がっていた。
ガメザの頭の中は「こんな部屋、この建物にあったか…?!」という疑問で純度100%の謎浸しであったが、ごくりとすべてを飲み込んで一歩一歩進んでいく。
「こんばんは」
地底から響くような、ため息のような静かな声の挨拶が、食卓の最奥に座る暗黒のピンクのプードルから発される。
「こ、こんばんは……隠岐サン……」弱弱しく口元を緩めてそう言うと、「何笑ってんだお前…………」と、耳元で声がして、翠の狐は飛び退いた。
「どうしてここに呼ばれたか、わかっていますね?」向き直り、喪服のようなドレスの裾をつまんで監察が問いかける。
「あ、ああ……こないだの企業間食事会でのポカとか、混合班調査の前会議での食事や言動を問題ありと見た隠岐サンが指導するって……」
「ええ。そういうもっともらしい名目であなたをいじめてスッキリしようと思い立ったので、こうしてここへと呼びました」
ぅげ……とガメザは小さく声を漏らしたが、隠岐は意にも介さず着席を促す。「どうぞ」「早く座りなさい」「音を立てずにね」矢継ぎ早に、静かに。指示が出される。
フォークが三つ、お皿を挟んで、ナイフがふたつ、スプーン、さらにもうひとつ、ナイフ。
「外側から使いなさい」ちいさな銀食器を恐る恐る手に取って、細長いオードブルをつつく。「フォークで端を抑えて、一口で食べられるサイズに切りなさい」「あ、ああ……」びくり、としながらも、おっかなびっくりで切り分けていく。
「ぅ……」と、ソースの下に乗った薄切りの玉ねぎに気づいたガメザは眉を寄せる。
「ガメザ、そう、聞いたことがなかったわね。野菜を食べないけれど、宗教上の理由で食べる事ができなかったり、身体の構造的に受け付けないという感じかしら?」
「あ、いや」やや焦りながら「苦手なんだよな……」と。ガメザは視線を逸らす。
そう。と言いながら、隠岐は玉ねぎを口に運ぶ。ガメザの皿には――それはもう、ない。「好き嫌いは良くないわね。まあ、マナー違反の範疇ではないので いいでしょう」
イヌ科にとって玉ねぎは毒だ。しかし、獣人と呼ばれる種族は、たとえばイヌ科の特徴を有する者たちであっても、知られる限り普通は霊長類の先端と同様の優れた耐毒性を持っている。あるいは、氏族によっては普通の人間よりも毒に対して優れた分解能力を持つものたちもいる。――隠岐は?いや。獣人かどうか。そもそもこの女がなんなのか。ガメザにはさっぱりわからなかった。何だコイツ。
そう思われているふわふわのツインテールは、あ、と。しまった。という顔をしてから、咳払いをして「ガメザくん、お野菜食べれないんでちゅか~~~???」と。甘ったるい声で、無表情で、突然にそう言った。
かしゃん。と食器の音が響く。
食卓の温度が急激に下がっていく。ガメザは「何か反応しなければならないのか……?」と、茹った頭を回転させていたが、隠岐は何事もなかったかのように食事を続けていた。

◆◆◆

しばらく食事を続けて、冒頭にあった無駄話などを挟んで、食事はポワソンを解体する運びまで来ていた。しかしどうもこれが難しく、音を立てる、海老の殻を飛ばす、罪を償う等の小さなミスが繰り返された。
「ガメザ、その義手は。まだ使い慣れない感じかしら?」「これは、大丈夫なんだけどよ……そういう問題じゃなくって、ああ…」「音が鳴っているわよ」
しばらく氷のような目で見ていた隠岐は「目に余るわね」と言って、ガメザの背後から両手を桃色の指で包み込んだ。そして、食器を動かして、こう動かすのよ。と淡々とレクチャーしていく。淡々と。
ガメザは得体の知れなさで見たことのない色に顔を染めながら、なすがままになっていた。息を吸い込むと、強めのラクトン類芳香――熟れた桃の、挽いたココナッツの甘くて絡みつくようなにおいがして、思わずせき込んだ。
「ああ」と隠岐は一歩引いて。指を何度か鳴らす。ぱちん、ぱちん。「イヤ違う。これじゃない。水素がひとつ足りないかな」と。わからない文言を吐きながらも望み通りの何かができたのか、また同じ位置に直る。今度はほんのり穏やかな、弱くて薄い白檀の香りが漂う。
「はいどうぞ」きれいに切り分けられた――いや、食べるたびに一口ずつ切られるであろうはずのものだが、とにかく食べやすくなった海老がぷるりと皿に身を横たえている。
が、その横のアスパラが目に入ったガメザは「げ……なんでまたこんなモンが……野菜なんて好き好んで食うやつ、いねえよ」と小さくこぼす。
隠岐は一瞬目を丸くして少し首を傾げ。トントン、と漆黒のマニキュアで彩られた指先でもってガメザの頭をノックする。
「ガメザ、ランクを上げたくはない?」唐突すぎる。「わたしと同じ3まで欲しくない?例えばよ、だとすればなおさらに、言葉遣いには気を使った方がいいわ。
丁寧に喋るのはね、ガメザ、なにもへりくだるということではないの。ただ気持ちよく誰かに意見を渡すということなのよ。お互いにね。
例えばあなたは野菜が嫌いだけれど、それを理由に、仮に、カボチャを食べる奴なんてバカだと口にする。そうすると、カボチャを好んで食べるわたしは気分が良くないわ。
“あなたの意見はまともに聞きたくない”、“あなたと会話したくなどない”と、まだまともに話してもいなくても、あるいは仲が良くても、そう思わせてしまうかもしれない。あくまで“かも”ではあるけれどね。
わかるかしら、ガメザ。これはとても“不利な状況”なの。つまり、こちらから持ちかける交渉や提案が、取り合ってもらえない可能性がある。わざわざハードモードを選択するような行為なのよ。――そう、あなただって、例えば好きな映画なんてバカにされたら、あまりいい気分ではないでしょう?相手に気持ちよーくいてもらえば、ね、多少メチャクチャでも話が通るのよ。いい?尊敬したり尊敬されたりしましょう。それは、ベタベタしようということではないわ。生産性のある話を、関係を、築きましょうということよ。」
と、隠岐は一息で言い放った。両手に添えられたピンク色のふわふわの手は、そのやわらかな肉球は、まるで巨大な蛭が群れを成して自分の手指に絡みついているように思われた。張りのある不滅の髪の毛がぶるると揺れる。怖気が走る。
と、いつの間に移動したのか、隠岐は食卓の向かい、端の席に座ってちまちまとオードブルを口に運んでいる。はあ、とガメザはため息をつく。やってられねえ。帰りたい。ラーメン食べて口直ししようかな。そんな感じの呪文が浮かんでは消える。味覚はそこそこに「おいしい」と叫んでいるが、味を感じることができるような空気も余裕もそこにはなかった。

◆◆◆

口直しのデザートを挟んだところで、ガメザは「ちょっと休憩させてくれ」と頼んだ。隠岐はぽかんとして「ええ」「いいけれど」と応える。
席を立って壁際に移動し、窓を開けて外に出る。口から甘い蒸気を吐きながら、ガメザは非常に長くて深いため息をついた。「いや、いや。まずなんだよここはよ。……ンなとこにベランダなんてあったっけ……?」のぞく景色も庁舎の周辺とは違って見える。煙ったような広大な夜景が眼下に広がり、涼しい風が吹いている。
「もうそろそろ季節が変わるわね」離れたところで隠岐もベランダに出ており、紫煙をくゆらせている。ああ!逃げてきたのに 休憩できない。とガメザは呻くが、ひとまずもう一度甘い蒸気を吸い込む。
妙な沈黙があって、しばらくしてから背の高い監察の食肉目は口を開いた。
「ガメザくん。今日のお食事はたのしい?」
当然ガメザは言葉に詰まる。何かを言おうとして、やめる。ことを数度繰り返し、
「いや、楽しくは、ねェっす……」
と。絞り出した。
隠岐は手元の煙草を軽く咥えながら、遠くを見ている。ふっと軽く煙を吐いて、席に戻っていく。
……恐る恐る、ガメザがベランダから戻ると、隠岐衿奈はドレスの裾を軽くはたいて、フーム、と呟いた。席に座るわけでなし、中途半端な位置で立っている。
腰に手を当てた姿勢で数秒黙っていたが、すっと両手がテーブルクロスに伸びる。そしてそれを真横に引き投げ、食卓のものを薙ぎ払い、すべてのなんかが縦横無尽に宙を舞う!!
開けられていなかったメインディッシュの骨付き肉が!食べ終わったお皿が!空のグラスが!高級なワイン、素晴らしくきめ細やかなナフキン、フォーク、ナイフ!蝋燭!ナイフ!銀のなんか!水!海老!ガメザは茫然としてそれを見ている。隠岐は流れるように何も乗っていないテーブルの上へ降り立ち、足踏みひとつで机を真っ二つに破砕する!!

適当な位置に落ちた皿に適当な感じに食事は乗っかり、なぜだかうまいこと食材が地面に落ちるというのは避けられていた。頭上より飛来した肉を素手でもって半分に割き切り、骨を適当に握りしめた隠岐が、ガメザにそれを手渡す。インク流動式の上品なドレスは飛んだ肉の油を避けることもかなわず、蛮族のような様相だ。
まあ、言いたいことは言ったので。後はお食事が楽しくできないなら意味がないわ」メチャクチャだ。わずか数秒の出来事にあっけに取られていたガメザは、は、はは、と小さく声を出し、
「はーっはっはっは!なんだよコレ…!めちゃくちゃじゃん!こんなの……ダメだろ!さすがに、ワケわかんねえよ…!」と、困り顔で笑い出した。
「ええ。ダメね。真似してはいけませんよ」「しねェよ!」ふたりは座る。胡坐をかいて――ガメザは緊張が一気に解けたからか、いつもよりやや低い声色でくつくつと笑っている。
――結局彼女が何をしたかったのかはよく分からないが、こういった形で食事マナーの勉強会はまったくわやになり、そうして終わりを迎えた。最後には隠岐も少しだけ笑みを見せ、大ぶりな肉を齧り食べて見せた。帰り際少し顔色のよくなったガメザを目にして、瑠璃川と国分寺は袖で口元をおさえ、小さく笑った。

◆◆◆

「ンだよ、えりなちゃん、案外話せるヤツじゃん!」
バンバン!とガメザが隠岐の肩を叩き、隠「は?」
「ア あの、ごめんなさい。隠岐サン…………」



#VRC環境課