見出し画像

インフォメーションの花束を

電脳のことについて知らない課員はまだまだ多い。電脳化されていても、それでも知らないという課員だってまだ多い。

「――だからまずは、“電脳”と“電脳空間”についての講義を行うよ」
ここは環境課庁舎。情報係サーバールーム前室、ARディスプレイマーカーといくつかのタワーPCで作られた急造の講義室。
とん、とレーザポインタ付きのボールペンで机を叩き、白い髪の毛が揺れる。軋ヶ谷みみみが話を続ける。
「ここ数日、環境課の管轄ブロック内でハッキング事件やネットワーク上の不審なアクセス報告がいくつも寄せられている。電子戦への早急な対策が必要な段階なんだって」
そこで、この講義が行われることになった。元ド取、電脳操作に堪能な軋ヶ谷みみみによる、対電子戦対策の講義。基礎知識の基礎知識編。

「――ハッキング事件……先隣りのブロックで起こったマフィア抗争の余波でしょうか」とこぼすのは国分寺。物騒な話をしながらも、袖を弄って無邪気な顔のままである。
「鋭いね」と返し、「だから対策が必要なんだ。相手はマフィアのハッカーになる。彼らはあまり加減を知らないから、なにもしないのは危険だよ」ARコンタクトレンズのディスプレイ投影が正しく行われていることを確認し、軋ヶ谷が向き直る。
挟むように。大型のヘッド・マウント・ディスプレイを指差して、「アレは使わなくていいのか?“電脳空間”についての講義なんだろ?」とガメザ。
「うん、使わないよ」だって、「VRでもARでもなく“電脳空間”について話すんだからね」と軋ヶ谷。
へえ、と返事をする前に勢いよく扉が開き、「こ~んに~ちは~!」と、ボーパルが電熱喫煙具を磨きながら現れた。
人懐っこい笑顔で後輩の肩をふんわり押しだすと、夜八がわわ、と国分寺にしがみつき、国分寺がフォスフォロスにもたれかかる。「ふぉ……?」

それを見た軋ヶ谷は――うん、全員いるね。と呟いて、
「ボーパルさん、お忙しい中時間稼ぎをありがとうございます」と、整った顔で会釈する。
「いいのよ~わたしだって~かわいいかわいいかわいいみみみちゃんの力になりたいもの~」
「え?あ、うん……」

……部屋を見れば、電脳化から日が浅いガメザ、義体制御は巧みだが電子戦にはやや疎い国分寺……そして、対ハックや電子ドラッグの基礎学習を終えたばかりの夜八とフォスフォロスが並んでいる。サーバールーム前室でわざわざ講義を行うのは、業務でいっぱいのボーパルが口を挟みやすいように――とのことだろうか。
タワーPCがふるると息を吐く。こうして講義は始まった。

***

画像2

「“電脳”とは、一体なんだろう?」
「早速基本的な、根本的な、でも大事なことを聞いておこうか」と前置きをして、軋ヶ谷は完璧な顔面で語り掛ける。
ポップな、ひどくポップなイラストがARコンタクトレンズに投影されている。稲妻のマークが描かれた丸っこい脳を抱えるかわいらしい軋ヶ谷のイラスト――これは、一体何を見せられているのだろうか。誰が描いたものなのか。

電脳と電脳空間の講義は、“電脳”とはなにか?というシンプル過ぎる問いかけから切り出された。一瞬面食らう課員の中で、元気よくガメザが声を上げる。「アレだろ!電脳ってのはさ……こう……脳に電気を通して……そのパワーで機械を操縦するとき……に、いや、ちょっと待って」
これ以上ないくらいふわふわした着地を行おうとする見切り発車に夜八が助け船を出す。「電脳は――脳を機械的に強化して、外部接続が可能になった状態。のことですよね」付け足すように「そう、まあ電気パワーも使うかもしれませんけど……」
それが言いたかった――と言い切りそうになりながら、「機械的に?」とガメザが動きを止める。

「流石だね。だいたい正解だよ」軋ヶ谷は微笑み、脳に細かい幾何学の破片がぱちぱちと組み合わさるイメージをARレンズに表示する。「正確には、」
「“電脳”とは、脳に神経細胞と結合するマイクロマシンを投与して、そのマイクロマシン経由で電気信号を直接外部と交換する技術」
「それが可能な状態になった脳のことさ」
マイクロマシン。結合。外部接続。そう聞いたガメザは「ゲーッ……俺の脳、そんなんなってんのか……?!」といきおい背筋を反らせて頭を抱える。フォスフォロスがちょっぴり心配そうに頭を眺めるが……「なんかすごそうだな!」と。本人は割合前向きに受け止めているようだ。
……ボーパルがマイクロマシンの補体系のような挙動やメカニズムについて説明しているが、高度な科学技術らしいということ以外は難解ですぐに飲み込めるものではなさそうだ。夜八は急いでメモを取り――録音の方が楽ちんですよと国分寺につつかれて慌てている。

では。
「“電脳空間”とは、一体全体なんだろう?」

今度は――軋ヶ谷が未知の光の格子で描かれた、広大な場所にたたずんでいるイラストだ。光のビル街の谷間に作られた……これは……自然公園……?

「まあ、いきなりこれを説明するのは難しい。質問を変えよう
ARは用いず、タワーPC備え付けのディスプレイに明かりが灯る。
「電脳で日常的にネットを利用しているかな?」
年代物のディスプレイには、型遅れによるものか、簡素なウィンドウからなる課内ページが――ところどころレイアウトが壊れている――表示されている。

電脳で、日常的な、ネット利用。それを聞いて、夜八とフォスフォロスがおずおずと手をあげる。「電脳でネット利用か――はじめの一回しか……やってねえな……」ガメザは首を捻り、「あ?」黒髪のアンテナの船舶のセーラー服へと目を向ける。「ぷおはないの?SNSで毎日ご飯の写真上げてんじゃん」
ぷお。呼ばれた国分寺が小首をかしげる。「SNSはこれでやっていますからね」と、手元にあるのはかわいらしいケースに包まれた携帯端末。

「そうか」「じゃあ」「今してみよう」軋ヶ谷みみみは手を打って、課内サーバーへ接続する手順が記された電脳の操作指示テキストを直接共有する――ガメザや夜八にも、共有する。
「うぇッ!?ARじゃないやつが割り込んできた?!割り込んで……??視界はそのままなのに……?なんだこれ??」顔を引きつらせるガメザに対しボーパルが、
「電脳は外部の情報ネットワークに直接接続できるんだから、当然他人の電脳という情報ネットワークにも、こうして接続できる――視界の共有や、感情の共有だってできる。最も完全な意思の疎通ができるのね。どう?まるで目玉がもう一つ増えたみたいじゃない?」
そう挟み込む。未知の感覚からか、まくしたてられたからか、ガメザは目を白黒させている。
「大丈夫?遠隔操作してあげようか?」「いえお姉さま。ワタシひとりでできそうです」軋ヶ谷の小声に国分寺が応じ、課内情報サーバーに接続を行う――知覚が共有される。

ぱちり。

画像4

明滅。
視覚のようなものがとらえる――延々と続く、滔々と流れる暗黒の海の上、ぼんやりと瞬く色づいた光の格子。その格子の上で乱立するいくつもの構造物には昨日の国分寺周防のタイムカードや共有情報のテキストが踊り、ビルボードのUIがかちかちと傾いては“それがなにか”を健気に記し、こちらを見つめている。

「お……?!」とガメザ、「久しぶりかな?電脳空間へようこそ」と軋ヶ谷。
「あ、あれ?こんな広かったっけ、電脳空間?」ワイヤ・フレームで形作られた幾何学模様。ナトリウムランプを反射するガラス製モダン建築の骨組みに、ガメザが疑問符付きの声を上げる。
「電脳施術テストの一回だけだったら……見覚えがあるのは、豪奢な図書館の電脳空間だったんじゃない?」「あ――?ア、そうだ!そうだっけ……」軋ヶ谷の言葉にガメザが声を上げ――夜八とフォスフォロスは、国分寺が出社後すぐにサボって居眠りをしている記録に気付き、くすくすと笑っている。

「じゃあ今度はこっちを見てね」言われてそのまま――眼球型カメラの生の視界に“フォーカスを合わせ”て、国分寺が向き直る。
と突然物理で、突然レーザーポインタで示されるタワーPCのディスプレイ。国分寺さんはこっちに来てね。と携帯端末を握ったままそのそのディスプレイの隣に座らされる国分寺周防。
「今見た課内サーバーを改めてPCで見てみよう」と、先ほど電脳空間で知覚したものと同じ情報が、簡素なウィンドウで平面にぺったりと表示されている。しかし、先ほどと違って遠くまで見通していくつもの情報を追うことはできない――まず見えるのはトップ・ページだ。しかもレイアウトが崩れている。
「携帯でも見てくれるかな」国分寺が自身のタイムカードを表示し、これを視界共有する。「うぇッ?!」「随分物覚えがいいんだね」――レイアウトは崩れていない。

改めて――
「“電脳空間”とは、電脳を通して知覚された、ネットワーク上の単なる“情報群”」
「みんなが見ているものはただの、生の、純粋な“情報”でしかなくて、電脳を通すとそれが空間的な広がりを持って知覚できるんだ」

そして。「比べてみて、全く同じ情報でも電脳空間と物理デバイスでは表示のされ方が違うことが分かったと思う」軋ヶ谷がまたもかわいらしいイラストを見せる。
ボーパルが説明を引き継ぎ、「PCや携帯は情報を表示する際にプログラムやデバイスを中継するから、指定した“表示方法”でこうやって描画されるけれど、電脳ではそんなまどろっこしいことは行っていないのね」
電脳空間では脳そのもので情報の読み取りを行うから――まるで目の前で広がるかのように立体的な構造で知覚できる」

「手を伸ばせば届きそうだな」とガメザが言うが、そうできれば楽しいかもね。と軋ヶ谷が返す。「ボーパルさんが言った通り、これは情報の読み取り方だから。自身をネットの海にダイブさせるようなものでも、知覚する情報に対して能動的に働きかけられるものではないってワケ。つまり手で触るのは、できない」ちぇーと口を尖らせるガメザ。

そう――あくまで情報は、情報。徹頭徹尾、ただの情報。これまでの人類史より連綿と続く、累積された知識の澱。今までのネットワークとは何も変わらない。
これを電脳で知覚することで――光の格子が脳裏に広がる。電脳空間を受け取ることが、できる。
VR空間のような異世界でも、現実空間に割り込むARでもない。“電脳空間”とは、“情報の見方”なのだ。

しかし、「だけれど。まあ情報を発信して他の電脳空間アクセス者に働きかけることは、できるけれど」軋ヶ谷は少しだけいたずらっぽい笑みを浮かべる。
国分寺はそれを聞き、ちょっと顔を上げる。「自分を情報にしてしまって、電脳空間に発信する事は出来ますか?」
あるいは、「別のデバイスに意識の情報をコピーするとか」
「それは――」とボーパルが言いかけ、「――うん、できるけれど絶命するね」あっさりと。軋ヶ谷が引き継いで告げる。
ボーパルはやんわりと微妙な笑顔で視線を宙に逸らせ、読み書きの負荷が……と小声で解説を行っている。国分寺は得心がいったようになるほど、なるほど。と頷いている。

さて。
「いくら高度電脳の持ち主とはいえ、慣れない長時間のネット接続をしたら疲労もたまるだろうし、さっくりと概要をまとめて講義の締めに入って行こうか――」軋ヶ谷は脳裏に表示されている現在時刻をわずかに確認し、お話の締めをしようと声をかける。
そこに、
「あのさ」と挟むのはガメザで、軋ヶ谷はいいよと応じた。
「高度な電脳だと電脳空間が違って見えるのか?」と。やや興の乗ったような顔。
「例えば あーホラ、俺とフォスフォロスとかだったら、体の機械の度合いに差があるし、なんか全然違いそうじゃん」「ふぉ?」これはフォスフォロスの声。
――勉強はあまり好まないように見えるガメザだが、電脳の世界になにかしらロボットものポップカルチャーとしての側面でも感じたのだろうか、ともかく、好奇心は持ってくれたようだ。

なるほど。もう一度時刻を確認して「まあそもそもフォスフォロスさんは電脳ともまた少し違うけれど、そうだね、着眼点はとても面白いと思う。けれど基本的には答えはノーだよ」と軋ヶ谷が返す。
付け足すように「ノーだけど、はなまる級の合格点だ」と言って、ガメザがそお?と頬を掻く。

「初めの話に戻ろうか。電脳は、脳をまったく完全に機械に置き換えるわけではない。と言ったけれど――」
ARコンタクトレンズには義体メーカーの記事がいくつか表示される。電脳化不要!即日接続!確かな品質!実際の商品が能動的に稼働する!!完全な回転トルクにより発揮される高品質な!!膝に明確な前屈を与える良いポーズ!!!おどり跳ねまわる売り文句。
「――体を機械に置き換える義体化とも直接のつながりはないんだ」軋ヶ谷がまとめる。
「高度な義手の操作なんかをするときには、電脳化するひともたまに居るんだけれどね~」とボーパルが言いながら精密操作可能な特注義体の記事を出し、にこにこする。
例外は。と、一息おいてから軋ヶ谷が頭からつま先を指すようなジェスチャー。
「全身義体化するときだよ」
「この時ばかりは頭部も丸ごと機械と入れ替えてしまうから、当然電脳化が必要になる
と聞いて夜八が「その時は確か、電脳がシェルに収まる形の高度電脳扱いになるんですよね!」と答える。いつの間に駆け寄ったのか、「えらいね~~」とボーパルが夜八の足を撫でまわす。「ボーパル先輩、ボーパル先輩……」フォスフォロスが周囲の目を気にして服の裾を引っ張る。

目をそらして。
「じゃあ、高度電脳のやつらはみんな全身義体ってコトか……」と、国分寺を見るガメザ。腕を胸の前でもたつかせる、謎のポーズで応対する国分寺。
するとボーパルが「いやいやガメザくん、必ずしもそうじゃないのよ。シェルなし義体化なしの高度電脳もあるからね」と言って視覚共有で高精度の高度電脳カタログを見せ――「ひえ……商品画像がちょっとコワいですね!」とフォスフォロスを若干びっくりさせる。

「ごめん、話がズレたね」軽く咳払いをして、軋ヶ谷が腕を組む。
「見え方の違いという意味では、例えば視覚情報の処理が大人と子供で異なることによって視野が――いや、実際に見る方がいいかな」手を開き何かをジェスチャーしようとして――再度腕を組む。
「そうね~~!そろそろお客さんも退屈してるだろうし、アレをやっちゃおうか」ボーパルが立ち上がり、「おキャットちゃん!」光の格子に指示が飛翔する。
アレ?……って、アレですか」
とフォスフォロスが呟くと、ディスプレイが課内サーバーの崩れたレイアウトから切り替わり、そこへと何度も繰り返されるハッキングの履歴がずらりと表示された。

***

画像3

「ここ数日の間に、環境課のサーバー……――民間の方でもアクセスできる領域なんですけど、これに対して複数回のハッキングが確認されていたんです」
フォスフォロスは視覚共有に表示したハッキング履歴を眺め、サーバールームの大きな椅子に腰かけながら、そう言う。
「おっきな被害はなかったけど、各種ログとの照会から、指名手配されているハッカー集団による犯行であると特定されていました。これですね……!」
こちらは夜八。同じく腰かけながら――数名の厳めしい義体の男たちの写真――や、分かっている名義などの情報を切り替えて視覚共有する。顔まで割れているのは一部の構成員までのようだ。
え?とガメザは眉を寄せ、「講義の始めに言っていたマフィア相手の電子戦ってのは……」「そう。もう始まっているんだよね~」ボーパルはのんきに喫煙具を磨いている。きらきらと金属の筒が輝く。
「彼らの手口は」筒を腰へとしまいながら「前段階で囮のハッキングを繰り返しながら同時に対象の建物に侵入して、独立した建物の管理システムに直接ハッキング――それから情報の改ざんや奪取を行うって感じ。度胸たっぷりな作戦だよね~」ボーパルは肩をすくめる。
しかも、「実を言えば、すでに本命と思われる規模のハッキングで障害が発生しつつあり、同時に庁舎内への侵入もされているんだ」と軋ヶ谷が言って、監視カメラの映像を表示する。
されているんですか」と国分寺が袖を揺らす。「うん」と軋ヶ谷が応じる。

「でもね~」おキャットの作業が映し出され、「これらはぜーんぶ予測済み。ぜーんぶ対策済みなの!これで乗り込んできたハッカーを拘束しちゃおう!ってワケ」
フォスフォロスが小さくファイティングポーズをとって、「情報係が設備管理システムに偽装した囮サーバーで時間を稼いでいるんです」と。自分もいくらか作業に貢献したであろうことをアピールする。ボーパルが頭をなでようとして椅子から滑り落ちる。フォスフォロスは……全く気付かず、むふー。と必要のない呼吸音を模倣している……。

「準備は揃っているんだ。後は仕上げだけ。これを電脳の視界共有で見てもらって、手順を確認しようと思ってね」軋ヶ谷が腰掛けたまま、手指を籠のように組んで見せる。「具体的にやることは――ハッカーまでの通信経路を逆探知する。そのあとは攻撃プログラムを回避しながら――対象を拘束するよ」
無線接続の準備はいいかな?――OK。じゃあ行ってみようか。

ぱちり。

明滅。
電子の脳が目覚する――はるか先まで続く暗黒の荒野の上、ぼんやりと瞬く色づいた光の格子。

先ほどの場所とは違う。デコイとして設けられた、偽りの設備管理システム――心なしか、格子の形や奥行きが、異なる。その格子はいささか繊細で、あるいはほとんど線のようにも見える。

「浮かんでいるように見える構造物は、情報のノードや階層を立体的に知覚化したものだよ」軋ヶ谷の声――ならぬなんかが聞こえる。いや、聞こえていない。知覚できる。知覚させられている。
「ガメザくん、端末……いや、“光のブロックの数”は一度にどれくらい見えるかな」「ん……20コくらい?…………さっきあったラベルはどこだ?」
軋ヶ谷が問う。ガメザが答える。20個。そう言った。「ラベル、ああ、ビルボードかな。そうだね、“このように描画する”という設定情報がなければそうは見えない……拡張GUIで、どうかな。見えるね。よし」にわかに幾何学模様の様相を取り戻す電脳空間。構造物の近くに名札が再び瞬いて、やはり健気にこちらを見つめている。
「じゃあ国分寺さん、どれくらい見える?」「40ブロックまで見えます」エ!と夜八が声を上げる。どうやらそれより少ないらしい。
「高度電脳の差はそこだね。見えるものは同じだけど、情報処理の限界量が異なるから、知覚範囲が違ってくる……ボーパルさんは?」「わたし~?」聞かれてボーパルが笑う。
「全部見えてる」
と、そう答えて。聞いた夜八は口をぱくぱくさせている。

いくらか格子の奥まで侵入すると、“異なる色のライン”が伸びてくるのが見えた。軋ヶ谷が何かの信号を打ち込むと――“異なる色のライン”は視界の手前で停止し、コッホ曲線を描くように無限に曲がり続けている。
「なんだこの超赤い虫。マフィアか?ぶっ潰しちまおうぜ!」ガメザが無い目でそれを見る。「赤いのは拡張GUIでそう見せているんだ。実際は知覚できないくらいカモフラージュされているよ。これは――」という軋ヶ谷の言葉を、「攻撃プログラム情報……ですか」と。国分寺が静かに続けて見せる。
その通り。「これがもしも私の電脳まで生きて無事に届いたら、この脳は徹底的に焼き尽くされるんじゃないかな」平板にそう言って、次に飛んできたラインにも同じように対応する。――ラインは不様にどこまでも曲がり、その末端で“発信先”を視覚的に示している。

「こちらを逆探知して電脳へ攻撃を仕掛けるプログラムに対して、みみみちゃんは通信経路が無限に続くように誤認させる防御プログラムで対応してるのよ」ボーパルが解説を挟む。「相手はあそこね」ある一点に視界が向けられるが、そこにおかしなものは何もない。いや。周囲と同じに並べられた構造物、空調を制御するフロアが刻まれたラベルの中に、ひとつだけ輝く空白のビルボード。……自らの発信場所を隠そうとするあまり、ハッキングを仕掛けている者の――電脳。そのありかを白々と示している。

じゃあ早速。軋ヶ谷はまた別の信号を打ち込み、……特に視界に変化はないが、受付を知らせる電子音のような感覚が響いた。重なるように別の視覚、暗い電脳空間が見え、その中にでたらめな軌道のラインを伸ばしていく。そちらの電脳空間は閉じられ、デコイの電脳空間へと視界が戻る。
前触れなく――極薄の天井スペースから覗くドローンカメラの映像が共有される。ハッキングを仕掛けているのであろう見知らぬ男が映っていて、逆探知より物理的な位置情報まで完全に割り出されていることがわかる。そして――その男は突如全身をこわばらせ、不気味に首を幾度か痙攣させて、それから動かなくなった。

電脳空間から視界の“フォーカスを外し”て、立ち上がる。
「終わったよ」あっさりと軋ヶ谷が告げ、警備係と通信する。――ハッカーは先ほど目にした姿勢のまま無抵抗で捕らえられたらしく、尋問室へと運ばれている旨の連絡が入る。「電脳にハッキングして義体の運動機能をすべてロックしたんだ。同時に迷走神経に向けて大量の信号を送って気を失ってもらったから、かんたんに拘束できたね」たった今行ったことの解説を行う彼女は、いたって涼しい顔だ。

スムーズな駆動音。サーバールームの出入り口は閉じられ、講義の参加者と共に部屋を出て尋問室へと向かう。長時間のネット接続からかガメザの足取りはわずかにおぼつかない。……フォスフォロスが心配そうに、時折押したり引いたりしてバランスを取ってやっている。微笑ましい光景を横目にしながら歩みを進め――、進め――、軋ヶ谷が立ち止まり、ボーパルが瞬きをする。
これから情報を引き出すために尋問するんだけれど、相手はひどく怯えているらしい。大人数で向かうとかわいそうかもね」軋ヶ谷は振り返ってそう言い、
「講義は……ちょっと尻切れだけれどこれでおしまい。確認してもらいたいことは大体見せることができたと思う」口元に手を当てて、
「電脳空間とは?」と急に問いかける。
「定規で引いたネオン街」ガメザが答え、「電脳空間は電脳越しに見る情報ネットワーク。ですね」国分寺が締めて、軋ヶ谷はいいね。と返した。

***

画像2

……。…………。
――電脳空間とは、情報だ。
その情報が丸ごと焼き潰された電脳の中は、永劫の闇が横たわっている。

「はは。みんながいる目の前でこれをやられなくてよかったね」と、接続を切ってから軋ヶ谷が言うと、「そうね……まああまり、気分のいい光景でもないし」とボーパルが返す。焼かれる前に何とかすればよかった。と小声で呟く。
……マフィアのハッカーは白く濁った目で机の天板を見ている。その眼球型カメラが映している映像信号は――もはや彼の電脳の元へと届くことはない。彼は絶命していた。自ら電脳を焼灼し、一切の情報を残さずに。
「けれど、環境課ってこうじゃない。いつかは目の前で起こることだし、見慣れておくのも――そのうち必要なんじゃないかって思うんだけれどね~」ボーパルはハッカーの義体の機能を停止させながらおどけてみせる。
軋ヶ谷はまさか、と笑って、
「あんまりいいものでもないよ、これを見慣れることって」
と返した。

聞いたボーパルは、そう、それも……そうね。と言って。鑑識係に連絡を飛ばし、遮断尋問室の扉を開きながら――そういえば。と。
「みみみちゃん、講義のARで出てきた絵って、誰が描いたの?」小さな疑問を投げかける。全く重要ではないけれど、講義の間ずっと気になっていてことではあった。聞いた軋ヶ谷は眉をわずかに上げ、「ああ、あれを描いたひと?」口を開く――

――祇園寺ローレルさん。