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西国疾走少女 7

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 電話が鳴って、わたしは現実に引き戻される。いそいで手をぬぐって、通話ボタンを押す。「ちょっと疲れたから電話してみた」と夫は言った。「今日の晩メシ何?」

「ちらしずし、はまぐりのお吸い物、茶碗蒸し」

「おっいいね、ひな祭りっぽいね」

「あとはイカ大根。大学芋も作るよ」

「うわー、今すぐ帰りたい。仕事が多すぎるよ。もう明日の僕に頑張ってもらおうかなあ」

「ねえ、イカのなかに魚が入ってたのよ」

「えっ、なんの魚?」

「知らない。もうすてちゃった」

「なんですてたの」

「毒があったら怖いじゃない」

「魚もさばいてみたらよかったのに。もう一匹入ってたかもよ」

 手がかゆい。心がかゆい。桐原の声がよみがえる。

 うしなった人間に対して一ミリの後悔もないということが、ありうるだろうか。

 大人になった桐原は、どんなふうに携帯電話に触れるのだろう。タバコは喫うだろうか。あれから背はさらに伸びただろうか。今、どんな服を着て、誰といっしょにいるのだろう。

 中学を卒業して、桐原は有名私立高に進んだ。わたしは定時制の高校に入ったが、高一の夏にとつぜん遠くへ越すことになった。

 あの夜、オレンジ色の電車が来るのを知っていたことは言わずじまいだった。

 桐原と出会ってはじめて、自分は生まれてよかったのだと思えた。彼を好きになるのと同時に、すこしだけ自分を好きになれた。桐原がわたしを大事にしてくれたから。

 あの日々があったから、その後どんなに人に言えないような絶望があっても、わたしは生きてこられたのだと思う。

 桐原が今笑っているといいと思いながら、二杯目のイカに手を伸ばす。

 軟骨を引っこ抜いて、体内を覗き込んだ。いくら覗いても、そこにはもう何もない。

(カット 沿志)
*イラストはウェブでの立ち読み版限定で入っています。

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