#0009【徳川家康(日本、16C後半-17C初)】

こんばんは! 1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。

今週最後は、徳川家康です。

徳川家康は、三河(現愛知県東部)に生まれました。そこそこの大名の家でしたが、強大な勢力に挟まれていたため、彼自身は幼い頃から隣国の織田家や今川家の人質となり、苦労していました。

何とか人質・隷属状態を脱して独立した後も、天下統一に突き進む織田家に同盟者として協力しますが、実態は配下のようなものでした。

信長の死後、家康も信長次男と手を組んで天下を狙います。織田家の天下を奪おうとする秀吉を倒すという大義名分もあり、戦争でも家康が秀吉よりも優勢を維持します。

しかし、家康が本拠地に帰っている隙に信長次男が秀吉と和睦(わぼく)、仲直りをしてしまいました。このとき家康には何の相談もなかったといいます。その後、根回しの達人、関白秀吉の前に家康も屈服させられてしまいます。

1590年に秀吉が天下統一すると、それまでの領地(愛知東部・静岡・山梨・長野)から関東に領地を移されることになりました。

折角、これまで開発してきた土地から引き離されて、しかも鄙びた漁村に荒れ果てた城があっただけの江戸を拠点に定めることになります。しかし、家康はめげません。江戸を大開発し、今の東京の基礎を築き上げたのでした。

ちなみに東京の地名に「坂(赤坂・神楽坂等々)」や「谷(渋谷・日比谷等々)」、「台(駿河台・尾山台等々)」が多いのは、開発前の江戸に小山や丘がたくさんあった名残です。家康は開発に着手すると、それらを削って平地にし、余った土は「築地」などの埋立に利用しました。

そんな苦労人の家康も1598年に秀吉が死ぬと、実力第一位の大名として天下の実権を握ります。1600年の「関ケ原の戦い」では秀吉を見習ったのか、敵方についた大名たちを事前の根回しによって裏切らせることに成功し、圧勝します。1603年には征夷大将軍(武家で一番偉い人)に就任し、豊臣家を押しのけて名実ともに天下の主となりました。

天下の主となった家康が、豊臣家をどのように扱おうとしていたのかは歴史家の間でも意見が分かれています。

 「絶対に滅ぼすつもりだった。」

 「何とか形だけでも残したかった。」

と真逆の説があり、多くの歴史小説のネタにもなっています。

個人的には歴史に精通し吾妻鑑(鎌倉幕府に関する歴史書)を愛読していた家康ですから、反対勢力は絶対に滅ぼす必要ありと考えていたと思います。豊臣家がプライドを捨てて、徳川家に屈服する姿勢をみせれば存続させたかもしれません。

徳川家が天下を取ってからも家康は豊臣家との関係を考え続け、悩みます。しかし、10年間の熟慮の末に「臣従しない豊臣家を倒す」という結論になりました。

1615年大坂夏の陣にて豊臣家を滅ぼしたのち、翌1616年に徳川家康は亡くなります。当時としては長寿の75年の生涯を見事に使い切りました。

さすが、「鳴かぬなら 鳴くまでまとう ホトドキス」と言われた家康です。

その後、大名同士の抗争はなくなり、海外からもパックス・トクガワーナ(徳川の平和)と称される平和な時代が築かれました。

家康は日光東照宮に東照大権現として、今も神として祀られています。

以上、今週の歴史小話でした!

来週は「歴史上の人物から学ぶ処世術特集」をします。月曜日は北条早雲から現代にも役立つ処世術を学びましょう!

それでは良い週末をお過ごしください。

========================

発行人:李東潤(りとんゆん)

連絡先:history.on.demand.seminar@gmail.com     twitter: @1minute_history

※本メルマガの著作権は李東潤に属しますが、転送・シェア等はご自由に展開頂いて構いません。

※配信登録希望者は、以下URLをご利用ください。 http://mail.os7.biz/b/QTHU

========================

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?