新しい「領解文」混乱の解決のために

 筆者は部外者なので、飲み会程度の話として聴いてほしい。
 前半は、事件の大きさの確認のために書いている。早く結論が欲しいという方は、直接タイトルと同じ目次へ向かって構わない。

三業惑乱事件を端折る

 今回は、たまたま読んでいた本(『真宗悪人伝』(井上見淳;法蔵館))が、三業惑乱の経緯を記していて、それを参考に、すでに一般紙から言論紙が扱うこととなった、新しい「領解文」における混乱の解決ができないか、という話。当初から指摘のある通り、今度の新しい領解文の話は、1800年頃の江戸時代の「三業惑乱」になぞらえられる。
 三業惑乱とは本願寺(=西本願寺)派の本山の教導トップに対し、地方の学僧が異議を唱え、反論本の出版~本山の教育の改訂~本願寺他での両派門信徒による暴動・流血沙汰と、本山が曲がり出してから三代約40年、ことが公になってから約10年にわたる混乱の末に、本山側が異安心と裁定された事件。

三業惑乱の40年間のクライマックスを1分で

 大瀛は必ずや教えを正してほしいとの師の遺言を継ぎ、重病をおして裁判のために故郷の安芸と京を行き来する。
 かつて京での師であった、本山の智洞と江戸で対する裁判。寺社奉行脇坂安董は、大瀛の主張と、彼と初対面ながら道隠の主張とが驚くほど一致するというので、この二人に、浄土真宗の安心を示させた。二人は安心を広中略の三通りに著し、これを書き上げた大瀛は、最終決着を見ずにそこで命尽きた。

異安心とは

 そもそも異安心とは、宗意安心と異なる心・理解にあることをいうが、各宗教の目指すものを正しく知るには、異安心を知ることは欠かせない。宗意安心と異なるままであることは、個々人の「私」の信仰における脅威だからだ。なあなあで生きている私たち現代人は、普段自身の欲望や生活に追われ、信仰を意識しないので気が付かないが、いったん心が受け付けない―信仰に反するものを見ると、心が勝手に組み上げているところの自身の足場が揺らぎ、反発したくなる。つまり、自分では自身の顔がわからないように、自己に相対する違うものを見ないと、自身の相に気が付かないのだ。その意味で、異安心を学ぶことは、「私」が生きている足元を見つめることになる。
 (ならば三業惑乱においてどう異安心だったのかは、私の手に余るので他を参照されたい)

新しい「領解文」混乱の解決のために

 三業惑乱の経緯の中で、策として提示したいのは、大瀛と道隠が、安心を広中略に分けて示したこと。あらゆる方便を尽くされた釈迦の教法は、あたかも音を言葉としてみるか・声としてみるか・音としてみるか・音波としてみるか、ほど経典によって物事の見せかたが異なっていよう。だからこそ一つのものを、二人は三通りに示してみせた。今度の混乱も、両者のその学識にかけて、根拠を段階別に複数に示してはどうなのだろう、と。
 総局側においては、どうあっても新しい領解文の内容こそが宗意安心だと示すもよし、場合によっては、この新しい領解文は広中略の三本立てした中の広の話だ、と示す妥結点も考えられるかもしれない。新しい領解文は勧学寮の諮問を一度通っているとの話なので、これを後から意味づけを変更することは憚られるかもしれないが、そこは、新・領解文を洗練することができるのであれば、むしろ望ましいのではなかろうか。
 力技かもしれないが、安心/異安心は宗教としての根幹であり妥協できない問題なので、解決させずに棚上げしたり通り過ぎたりすることはできない。

もし「取り下げ」る際の論点

 ところで、もしご消息を「取り下げ」るなら、それは誰の権限で行うのだろう、という疑問が浮かぶ。
 公開されている本願寺派の宗法によれば、「消息」項に、門主は総局の申達によって勧学寮の同意を経て消息を発布する、となっている(第11条,同条2項,第59条2項3号)。また宗意安心に関する事項は勧学寮全員の一致が必要とある(第59条2項但し書き)(以上は私ごときが触れずとも既にネット上で稲城先生が言及されている)。
 門主・総局・勧学寮の三者が関わっているが、消息取り下げの規定はここにはない。
 まさかご消息の宗意安心について内から反発を受け、消息の取り下げを要求される、など夢にも思わなかっただろう。なにせそもそも、門主(含む勧学寮)が宗意安心の正否を裁断する(第8条,同条2項)、と宗法にあり、執行部の誤謬がないことが前提なのだから。
 もっとも、自身が布教する内容に対し自身が誤ることを考慮した宗教というのも奇妙だが。この妙を必要とすることこそが真如と我々との差であり、宗教がカルトに陥らないための分岐点かもしれない。
 それは余談としてまあとにかく、出したものを引っ込められるのは出した人であるから、門主・総局・勧学寮のいずれかまたは総意、となるのではないか。

さらに、個人的な思い

 現時点で、新しい「領解文」について、反論本の出版および本山の教育の改訂のそれぞれ方針が発表されている。あたかも三業惑乱と同じわだちを踏んでいるかのよう。
 部外者である私には、下手くそに勝手なことを放埓に述べる以外、何がどこまで正しいのかは言いようがない。なので、策を提示するという当記事の主目的は済んだので、引き上げてくださって構わない。ここからは、新しいジョッキで個人の思いを少し述べさせていただきたい。

 総局がその作文の解説を勧学寮に丸投げするという荒業は、決定された信心は誰の上でもみな一味という親鸞聖人の教えからと思われる。にもかかわらず、本山に物言いをつけることは、信心が異なることを公にすること、と解釈もできる。僧俗有志の表明は、畏れながら総局(とそれを認めたご門主とさらに勧学寮)の領解は、宗意安心の広にも収まらない、と告発するものだ。少なくともこれらの人々を納得させないと、本願寺派からの多数の離反は避けられまい。ただ願わずにおれないのは、当事者であった前総局が解散した今やもはやかなわないことではあるが、一度、新しい「領解文」に対する、勧学寮による解釈前の総局自身の見解を示してほしかった。

 思えば先日もちぐはぐさがあった。先の2023年5月の慶讃法要中、池上彰氏ら超大御所を招聘したシンポジウム。質疑の時間の一問目。
「ロシアとウクライナの戦争はどうしたら止められますか」
とだけ。
 いくらジャブにしたって、大振りだろう。しかも誰に向かって振っているのか。司会の弁明「私は質問の中身を見ていません」がむなしい。
 事後のために記しておくと、現在は当該の戦争が始まってからすでに1年半になろうとしている。上の質問は、老若男女貴賤貧富を問わぬ人々が「なぜ私は生きているのですか」の次に多く問うた質問ではなかろうか。
 池上氏の回答は「ChatGPTに聞いてください」とみごとにあしらう。

 再び本願寺派宗法によれば、予算は総長が編成し門主の認証を得て宗会の議決を経る、という(第79条)。この慶讃法要の様子を見れば、総長が好きに企画してどんぶり予算組んで、そして実施は投げっぱなし、という光景が浮かぶ。今度の、新しい「領解文」祭りも同様なのではないか、と観じざるを得ない。
 ということは、宗会が機能していない、もしかしたら宗法に手を入れなければならないのではないか、という思考になろう。
 とても宗勢回復の布教のために領解文を新しく考えるどころではないかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?