新しい領解文(23年1月16日)への領解

決して文章は得意ではないのだが、せっかくだし試しに1本書いてみたい。

前おき

 先般西本願寺から発布された、新しい領解文についてはfacebookで喧々囂々だというが、自分はアカウントないので、facebook上でどんな論議がなされているかわからない(作るつもりもない)。ただ、この「新しい領解文」を見ていると、本願寺はここまで堕ちたかと愕然とする。最初にこれを見たときは、ひざが崩れ落ちる思いがした。どこを見てもおかしく、本願寺も騒ぎを知ってか知らずか改める様子もなく(同派の先生方による声明が発表公開もされているので知らないはずはない)、気が収まらないので、試しに不満に感じる個人的な思いを書いてみる。他の方のご意見と多々重なってしまうと思われるが、それだけみな同じように感じるのだということでご容赦いただきたい。
 (なお、きちんと書くなら典拠が必要であるはずだが、筆者は現在どこの門の者でもなくただ流れで生きてしまっている者でしかありませんので念のため。)

 本願寺派・新しい「領解文」紹介ページ

第一段

1~2行め「南無阿弥陀仏 / われにまかせよ そのまま救う の 弥陀のよび声」

 冒頭、私が念仏を申したかと思ったら、あっという間に主語が私から離れている。この念仏は救いの喜びというより、まるで“おはよう”や“いただきます”みたいなちょっとしたあいさつのような念仏だ。
 救いとはそんな浅薄なものでないだろう。とても「一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生」があったようには感じられない。

3行め「私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ」

 まず最も引っかかるのがここだと思う。
 この「本来」は、「私の煩悩」があることを惰性的に許容を促すように見える。煩悩が、煩であり悩であることを忘れさせ、煩悩があることに胸を張っているのだろうか。後出しジャンケンで、ほら勝った!と言い放つようなものかもしれない。
 これでは、「煩悩即菩提」とか「罪は渡さぬ 喜びの元」とか、
「有漏の穢心はかはらねど こころは浄土にあそぶなり」とか、
救われた姿は必ず両面があるのに、そこを放置し“本来一つ”とあっさり言ってしまうと、その一面で満足し、さらに救われる必要までも否定してしまう。まさに陥穽だ。
 解説文も発表されているが、勝手に発表されて後付けで解説を丸投げされたらしく、解説に苦労したという。

5行め「ありがとう といただいて」


 「ありがとう」
 これは、(蓮如上人時代のことは存じませんが)現代の日常用語です。日本語で基本の基本の基本の語です。例えば外国人が最初に習うであろう語で、英語で言う「thank you」です。つまりちょっとした感謝でも皮肉でも社交辞令でも、どんな場面でも使える汎用語です。救いをこんなありきたりな語で済ませる領解は、逆に腹立たしくとても聞き捨てなりません。それとも、現代日本人でない人の領解でしょうか。
 せめて漢字であれば有難さもちょっと表せようが、幼児向け絵本のような表記では、おこづかいでももらったのかと感じられる。元の文は「ありがたくぞんじそうろう」とあるが、現代はありがとう、だけではとても救われた喜びを表す語ではない。

第二段

11行め「歴代宗主の」


 過去段。わたしの救われたことは誰のおかげか、という節。
 「歴代宗主の 尊いお導きに よるものです」
 わからなくはない。法灯を伝承された先達に、歴代宗主も含まれることは違いない。
 けれど、この新しい領解文には、親鸞聖人と歴代宗主としか書かれていない。救われたおかげにあたるのは歴代宗主だけではないし、そもそも宗主は何万という多くの門徒にとって遠い存在だ。それとも、教団はトップの導きがそのまま末端まで流れる集権的組織なのだろうか。
 これでは中間の階層を認めない独裁集団トップの、敬えアピールに等しい。
 救いとはそんな遠い存在であってもいてくれればかなうような簡単な導きではなかろうし、金輪際救われない者が救われる不可称不可説不可思議の功徳と表されるほどなので、歴代宗主だけでなく私を取り囲むあらゆるすべてが救いの縁となってくれたと思わざるを得ないはずだ。
 なのでこれも真実信の領解にはみえない。

第三段

14行め「少しずつ 執われの心を 離れます」16行め「むさぼり いかりに 流されず」

 未来段。「執われの心を 離れます」
 そんなこと、誰が可能なのだろう。むしろ、救われても執われの心から離れられないからこその他力の救いではないのか。あるいは煩悩から離れられるとでも考えているのだろうか。「貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天」「不断煩悩得涅槃」むしろ根本聖典から離れているのではないか。
 ただし、得涅槃の後に、実際執われから離れられるなら、私のほうの誤り。凡夫の信で涅槃を得た後の心を判別するのは怪しいので、それを表すような記述があるか探してみた。次はどうだろう。

小慈小悲もなき身にて/有情利益はおもふまじ/如来の願船いまさずは/苦海をいかでかわたるべき

 前半は、自身に執われる、わずかな慈悲もない心を述べられている。ご自身の心の表明といえよう。もし後半でもう一方として執われの心を離れる面を述べるなら、新しい領解文の通りに思われるが、前半の上にたたみかけているので、「執われの心を離れます」とは解釈できず、逆に前半の強調、といえるのではないか。
 執われの心を離れられるのだとしても、離れます、と意図して離れるものではなく、腹いっぱいになれば食欲が一時的に落ち着くような、執われの心が障りでないから次第に気にならなくなる、というような消極的な類のものではないだろうか。少なくとも、少しずつ、とつく以上、14行めは他力側でなく自力側の話ではある。

 16行めも同じ。どうしてもできなかった、むさぼりいかりに流されないことは不可能であったと泣く泣く決判し一度心の奥に深く埋めた自己の黒歴史を、わざわざもう一度掘り返して再挑戦する?と。まあここも救われた後の話なので、凡夫の感覚でなく、典拠を探す。
 やはり「貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天」から、貪愛瞋憎の雲霧が常に真実信心の天を覆うというので、真実信心をえても「むさぼり(貪) いかり(瞋)に 流され」まいと振る舞うことは気休めだと言える。流されずであり起こさずではない、と弁明したがっているような感情がのぞくが、結局自力には違いない。
 この段は、以降も自力色の濃い表現が続く。

 なお、元の領解文では救われたなら「御おきて、一期をかぎり、まもりもうす」とあるが、おきてとはなんだろう。さすがに「執われの心を離れ」ようとか、「むさぼりいかりに流され」るな、といったことではなかろうが、この辺りのことは自分は修学してなくてわからない。時代柄を考えれば、あるいは武家社会に対峙する結束のためのきまりのことかもしれない。

まとめに代えて

 私はたまたま今は時間があるので本記事を書いている。これまでも本願寺はおかしかったのになぜ今、という声もある。見てみると確かに、個々にはこれまでの発布の内容が、今回の領解文にもかなり引き継がれているとわかる。第二段を取り外したものが、二年前発布の「浄土真宗のみ教え」の丸写しだ。筆者の個人的には教団と直接の関係がないので、これまで発布のものは、西はまたまたおかしなのを出してるな、と小耳にはさむくらいだった。今回、ある法話で領解文の新しいものが発表されたと聞き、これはあのペラッペラの薄い言葉が教えの前面に出されるならただ事でないぞと感じ、いろいろ見て驚天動地に直面している。
 改めて総括的なことをいうと、上の3行め以外の他の点は、言わば枝葉で、教えを受け取った果実の救いの相なので、よかったですあなたはそうなのですねとなんとか聞き流すというか容認できなくもない。が、3行めが表すのは救いではなく教えなので、誤るわけにはいかない。この行を本来と言ってしまったら、もう鮮やかな芸術的ちゃぶ台返しだし電気回路のショートだし救いも苦悩も人生も教学も布教も何もあったものじゃない。もはや「お前はもう、救われている」とケンシ○ウの声が聞こえてくるし、私は運命の人と本来結ばれているの!と占いマニアさんがキャッキャウフフしている。

 ところで今度のお西の慶讃法要を聴いていると、門主様ご親教で「(前半分を世俗の安穏の願いに費やした後)生死即涅槃、とか、煩悩菩提体無二といった仏智の側の言葉で語られます」とのこと。なんだ、まちがっていないじゃないか。
 “仏智の側”これ外せない。外せないのに、発布された領解文では外され二年前のまま“本来”と濁したから、教えの根幹の誤りだと大騒動になった。“仏智の側”を外したら、この言葉を聴く人はまずその立場を誤解する。立場を都合よく考え、例えば毎日食事があることが本来当然と考えるような、電気ガス水道といったライフラインが万全であることが本来当たり前と考えるような、生かされていることを俺が本来生きてやってると考えるような、はっきり言って大勘違い大馬鹿野郎になる。話を広げたくないが、議員年金を当たり前と考える国会議員や、愛国を当たり前と考えるプーチンを生まないために、“仏智の側”を外してはいけないのだ。世の安穏を願うなら、“仏智の側”を外してはいけない。“仏智の側”が有るか無いかで世の運命が大きく分かれる。ここは紙一重の紙だ。
 現状まで至ってしまった問題の根底は教団の体制にまで及ぶらしいが、新しい新興宗教と言われないうちに早急に見直しをしてほしいものだ。

 ちょっとで済ますつもりが、くどくなってしまったかもしれない。ここまで読んでくださった方には感謝申し上げたい。


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