負けヒロインに関する抜き書き

負けヒロインという概念の誕生にまつわるものとして興味深い記述を、村上裕一『ゴーストの条件』から引用する。

この作品(注:『To Heart』)は端的に言えばノベルゲームと恋愛シミュレーションのキメラとして生まれた(76頁)
前者の代表作といえばコンシューマーゲームである『弟切草』(一九九二)『かまいたちの夜』(一九九四)といったサウンドノベルシリーズである。現在想定されがちなノベルゲームとは異なり、人物の立ち絵がなく全て影絵で表現されている。(76頁)
(注:『To Heart』(一九九七)以降のノベルゲーム的な美少女ゲームについて)LINVSにおける立ち絵の採用は、物語の分岐が攻略ヒロインの選択であることと同期している」(77頁)
後者の恋愛シミュレーションはむしろ真逆で、本質的な選択肢はどの女子を狙うかということにある。こちらの最大のヒット作は『ときめきメモリアル』(一九九四)だ。(77頁)
『To Heart』以後の美少女ゲームの「王道」においては、物語の単位が人物に還元されているため、不可避的に、ヒロインが解決されるべき問題を有してしまう。しかもそれは美少女ゲームの主人公以外の誰によっても解決できないような問題だ。ゆえに医者たる主人公は一種の万能者としてゲームの中で振る舞っている。(82頁)
しかしここで我々は別なことを言うことができる。つまり美少女ゲームの本質とは、万能の主人公がトラウマを抱えたヒロインたちを所有するかのように癒していくゲームなのではなく、主人公が万能であるがゆえに問題を抱えたヒロインたちによってむしろ奪い合われている、ということにある。即ち、攻略されているのはヒロインではなく、むしろ主人公であり我々だということである。(82頁)

ノベルゲームにキャラクターの立ち絵が導入されるようになったことが、物語の分岐がヒロインの選択になったことと相補的な関係にあるようだ。負けヒロインは、ノベルゲームに立ち絵が導入された瞬間にその歴史を始めた、と言うことができるのではないか。負けヒロインの種子は、1997年の『To Heart』によって蒔かれた。つまり、『To Heart』を出したLeafは、技術面で負けヒロインの誕生のプロトタイプになったのだ。

現在言われている「美少女ゲーム」は、物語の選択が人物に還元される、つまりヒロインを選んでそのヒロインが抱えている問題を解決する、という形式のものである。主人公が選択すると、そのヒロインが抱える問題が解決に向かう。そのため、問題を抱えたヒロインたちは医者たる主人公を求めて奪い合っているのではないか、と考察されている。医者を得られなかった病人が負けヒロイン。美少女ゲームと異なり、漫画やアニメやライトノベルでは、負けヒロインは自分自身のルートを持たない。負けヒロインに大きな感情を寄せることは、病人を治療できないことへの負い目なのかもしれない。もしくは負けヒロイン=病人に感情移入し、治療放棄された病人として嘆いたり、逆に「トリアージの結果だから」と主人公=医者に同情するという構図なのかもしれない。

しかし考えさせられるのは、物語の分岐がヒロインの選択になってしまったことではなかろうか。立ち絵の導入がそれを助けなかったらどうなっていただろうか。主人公とヒロインの医者-病人関係が生まれてしまい、負けヒロインが生まれたという問題。美少女ゲームのそのような想像力が他のオタク文化の領域に流れ込んでしまった。『To Heart』から約四半世紀経った現在、「負けヒロイン」を題名に冠したライトノベルが大手を振って歩きつつある。それは「豊饒の海」なのか?「空虚の海」なのか?



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