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批判しそうになったら、粛々と自分のできることをする。

保育という仕事は誰もが知っている職業でありながら、本質はあまり理解されずにいる。

何年か前に、渡部陽一さんという戦場カメラマンの方がテレビのバラエティ番組などで活躍されていた。独特な話し方が人気を呼び毎日のようにテレビに出ていたんだけれど、バラエティでは戦場カメラマンという仕事について真面目に話している姿を見たことがあまりなかった。ある時「なぜ戦場カメラマンなのに芸人のような仕事をしているのか」という主旨の質問をされて答えた言葉が印象的だった。「どんな形であれ、戦場カメラマンというものを知ってもらうためにやっています」そんな風に答えていたと思う。

保育の仕事だけでなく、おおかたの仕事が「本質的に」は知られていないのかもしれない。


はじめに

前回の記事にも書いたのですが、私は保育の業界を変えたいと思っています。こんな言い方をすると傲慢に見えるだろうし、いま働いている保育士さんやこれまで保育業界を引っ張ってきた先輩たちを批判しているように受け取られることがあるのですが、そうではありません。

自分が革命家になりたいということでは無いんです。そもそも誰かが先導して改革するものではなく、新しい仕組みや価値観が生まれて変わっていくものだと思っているので、それぞれの立場からそれを発明していくことが必要だと考えています。私は私の立場から私のできることをして、例えば実践を通して保育の本質を追究することで、その変革の力になりたいと思っています。

今回は、私がツイッターで漫画を発信するきっかけになった出来事(失敗談)を通して、「他人を批判しそうになった時に向き合うべきもの」について考えたいと思います。


批判から生まれるもの

「業界全体を変えるのならば現場だけでなく社会にも発信していかないと」と友人にアドバイスをもらって、一年ほど前にツイッターを始めました。と言っても、ほとんど自分のメモのように使う事しかできず、たまに気になったツイートにコメントをして、保育について議論したり共感しあったりするくらいでした。

いろんな人の発信を見ていく中で、世に出ていなくても現場で実践を積んでいる人や賢い人は沢山いるんやなあ、自分が保育の本質について発信するなんて烏滸がましい(おこがましい)のかもなあと感じていました。

それでも、本質的な保育の形とは程遠い現場を目の当たりにして、「そうじゃないだろう、いつになったら変わるんだ」という憤りを感じていたことも事実です。

そんな中、ある方のツイートについてモヤっとしてしまい、いつもの「そうじゃないだろう」という感情がふつふつと湧いて「これは、保育でもなんでもない」と、批判するツイートをしてしまいました。
ただタイムラインに流れてきただけなら「そうじゃないのになあ」と感じただけだろうに、わざわざ引用リツイートしてまで批判してしまったんですよね。それが現役の保育士さんであり、なおかつ発信力のある方のツイートだったからだと思います。

当たり前ですが、その批判についてとくに反応はなかったし、ましてやそれで何かが生まれることも変わることもありませんでした。
「嫉妬じゃないのか?自分にもその人と同じくらいの発信力があれば何か変わるのか?フォロワーさんが20人ほどでいいねも良くて一個か二個しか貰えない自分よりも、フォロワーさんが何万人もいて多くの人から共感を得ているその人を妬んでいるだけなんじゃないのか?」と自問自答して落ち込んだだけでした。「悪口とか言ってっとね、心のここんところがカサカサになるんだぞ。ほんとだぞ。」って鉄コン筋クリートのシロが言っていましたが、ほんとでした。ただただ自分が嫌な気分になっただけでした。

カサカサになった心にニベアを塗っている時に、別の保育士さんのツイートが考えるきっかけを下さいました。

「ああ、正しい正しくないではなく、ちゃんと見ないといけないな」と思ってちゃんと向き合うことにしました。なんで、あのツイートがあんなに賛同を得ているのか。何万もの人にいいねやリツイートされているのか。


そこで、自分の大きな間違いに気づきました。


いいねやリツイートは賛同の数ではない

その時の自分のツイートを遡って確認したんですが、

と、まあまあな勢いで批判していました。これはもう批判ではなく非難ですね。いま見たら自分の言葉に嫌悪感を抱いてしまうくらいです。ツイートも消して避難してしまいたいくらいです。それだけ許せないと思っていたんだけれど、その思い自体が間違っていました。

この時の僕の姿勢は「正しいことを通す」ことに向いていたんです。いわゆる「正義」を振り回していたんですよね。ずっと「そうじゃないだろう」って。

件のツイート内容については、今でも「そうじゃないよ」と思うけれど、じゃあなぜ(その的外れと感じる)ツイートが話題となっているのかといったら理由がありました。

初めは、いいねやリツイートの数を見て、そんなに賛同者が多いのかと残念な気持ちになったんですが、そうじゃなかった。それだけ「悩んでいる人がいる」ということだったんですよね。 日々子育てや保育に悩んでいる人たちがいて、どうにかそこから抜け出したいと追い込まれている。そんな人たちにとっては、たとえ小手先の方法論であっても救いなんですよね。

それに気づいた時に、10年前に祖父が癌になった時のことを思い出しました。

投薬と放射線治療を続けるじいちゃんの通院に付き合いながら、僕はどうにかしたいという思いからさまざまな民間療法を調べていました。明らかに胡散臭いとわかっていながらも色んな方法を手当たり次第チェックしました。たまたま相談した人に水素水が癌に効くと言われて取り寄せたりしました。そんな時に知人から「水なんかで治ったら世話ないよ」というような言葉をぶつけられました。それを聞いて僕は「そうやんな、冷静になったわありがとう」なんて1ミリも思いませんでした。「わかっとるわ、そんなもん。けど、どうにかしたいんじゃ」と浮くことはないと分かっている藁にもすがる思いでした。

「そうじゃないのに」と偉そうに言っている人間よりも、手を差し伸べてくれる人の方が何倍もありがたいし役に立ちます。

自分は「そうじゃないよ」と批判するだけの人間になりたいのか?と考えました。違うよね、と。その困っている人たちに「こんなやり方があるよ」「こうしたら楽になるよ」って伝えることじゃないのか。それも、小手先の方法ではなく、ちゃんと専門性のある方法を。


保育や支援をしていて、私たちの思いが保護者に伝わらないことがたまにあります。私たちのやっていることに対して否定的な意見をもらうこともあります。

そんなとき、世間ではクレーマー、モンスターペアレントと言われたりしていますが、私たち保育者・支援者は絶対にその言葉は使いません。その“意見”の多くが、その人の「不安」だからです。そして、僕たちの仕事はその不安を取り除くことだから。

「あなたの考えは間違っていて、正しいのはこっちでですよ」というのは私たちの仕事ではないんですよね。具体的な解決策を、専門的な見地のもと伝えて支援するのが僕たちの仕事。わかってたはずやったのに…。

普段から「本質をみる」「見栄えではなく中身」と偉そうに言っているくせに、僕が見ていたのは目の前で困っている人ではなく、自分だった。相手ではなく自分の上に矢印があったんですよね。僕は戦うべき相手を完全に見誤っていました。

反省しました。

そして「じゃあ、自分には何ができるのだろうか」と考えました。


根本を間違えていた

自分ができること、自分がしたいことはなんなんだろうか。と考えました。

何度もいうけれど、僕は保育の業界を変えたいと思っています。そのために「子どもの力を信じて保育や支援をする」というのを理想論で終わらせないように、それが実践ができる学童保育という現場で働いています。

そして、現場で培ったその経験や知識などをツイッターで“多くの人”に伝えるために発信を始めました。
が、これが間違いだったんですよね。


例えば、子どもが30人いるクラスで何かを伝えるとして、“みんなに伝えよう”という思いで話をしても、ほとんどの子が話を聞いていません。「聞いてた?いま先生がなに言ってたか言ってみて」という定番のやりとりが行われますし、その後さらに「さっき言ってたでしょう」と怒ってしまうことになります。

みんなに聞いてもらうためには、“みんな”ではなく“ひとりひとりに”伝える必要があります。30人一人ずつに耳打ちしてもいいですがそうはいかないでしょうから、みんなの前で話をする形にはなるでしょうが。

それでも、同じように聞いていない子がいた場合に、“みんな”に話をしようとした場合は「ちゃんと聞いてよ」となるのが、“ひとりひとり”に語りかけるつもりで話をすると「どうやったら伝わるだろう」とそれぞれの子どもたちの表情を見るようになるので、意識するだけでも違ってきます。

人として尊重するというのはそういうことで、気をつけていたつもりだったけれど、ツイッターでは“ひとりひとり”ではなくどこにもいない“みんな”に向かって叫んでいるだけでした。


さて、失敗に気づいたら改善です。


ほとんどの人が知らない人ですから、多くの人にちゃんと届かないのは当たり前なので、とりあえず「誰かひとりでも悩んでいる人の救いになれば」という思いで発信してみることにしました。

私と同じように保育の現場で思考錯誤している人に向けて、保育現場で出会う保護者さんのように子育てで悩んでいる人に向けて、だれかひとりでもなにかのヒントにしてもらえればと。

画一的な方法論になってしまうのを危惧して、ノウハウのようなものは避けようと思っていたのですが、できる限り伝わるように本質的な視点と合わせた実践例を漫画にしてみました。そして、

誰かひとりのために、と思って書いたものが結果的に多くの方に読んでいただける形になりました。

なによりも、同じ思いで子どもと向き合っている人たちが多くいたことを知ることができました。

フォロワーさんが急に増えてからも、変わらずに「誰かひとりのために」という思いで発信しています。このような姿勢で発信するようになって、以前に家入一真さんという方が同じようなことを言っていたのを思い出しました。

とても素敵な記事でずっと頭の片隅にあったので、自分がその姿勢になって発信し始めて点と点が繋がったような感覚でした。めちゃくちゃいい記事なのでよかったら読んでみてください。(うろ覚えだったのですが検索グセがあるので探してきました)

ほとんどの方の名前も知らないし会ったこともないけれど、子どもを見守る同志として同じように悩んでいる仲間に向けて手紙を書くように、漫画や文章を書いています。


そして自分に問いかける

けどさ、その自分のツイートにいいねやリツイートをくれる人たちも、共感や賛同だけではなく藁にもすがる思いでいるのかもしれないだろう。そんな人たちに藁を放り投げるようなことはしていないか?自分はちゃんと浮き輪を投げているのか?飛び込んで助けようとしているのか?一緒に泳ぎを練習しようとしているのか?と何度も問いかけている。(比喩表現です)

なぜ、こんな自分語りの文章を書いているかというと、僕が批判した件のツイートの内容がCMになっているのを見て、また「そうじゃないだろう」の正義マンの自分が出てきそうになったから。初心に立ち返るために。


何度もいうからそろそろ嫌われるんじゃないかと心配になっているんだけれど(それでも言うんだけれど)、僕は保育の業界を変えたいと思っています。子どもを取り巻く環境を、子どもたちを見守る僕たちの環境を、よくしていきたいと思っています。

そのために、僕は毎日現場で実践を積み重ねていきます。たまにこうやって文章を書いたり漫画を描いたりして、実践で得たものを必要としている人たちに発信していきたいと思っています。

マスに向けて保育士を知ってもらう存在もいれば、誰にも注目されることなく目の前の子どものために向き合っている人もいて、未来の保育士を育ててる立場の人もいれば、運営の立場からこの業界を支える人もいる。

それぞれができることを、それぞれの立場でそれぞれの思いで取り組んでいく。先が見えないかもしれないけれど諦めずに続けていけば、それが、きっといつか繋がって大きな力となって保育の業界を変えていくのだと思っています。

実際に「保育業界を変えたい」と話をしても、みんなに鼻で笑われてきました。保育現場でやってきた上司には「そういうことは言うな」と言われます。けれど、多くの人が「変えたい」と考えていることをツイッターや前回のnoteで知ることができました。

子どもも親も保育者も、みんながしんどくなくて、みんなが楽しい保育の世界にできると思っています。

理想論だと思いますか?

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