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四歩目の玉座は誰のもの

久しぶりに小説を書きました。フォロワーさんに「かってえスジ肉」と言われました。全部咀嚼して随筆にできるなら小説なんて書いてないのよ(言い訳)


 梅雨が逆戻りしたような雨続きの夏の夜、葛西志帆は大学図書館のポストに貸出資料を返却した後、予定より少し遅れて透析センターに向かった。
 テレビから一番遠いベッドを選んだが、オリンピック真っ只中だから嫌でも中継のアナウンスは耳に入ってくる。定期的な通院が欠かせない透析患者がコロナウイルスに罹患した場合の死亡率は16.6%と高く、更にクラスターが起きた場合には倍以上に跳ね上がる。向こうのベッドでは同じように慢性腎不全の患者が簡易ベッドの上で呑気にオリンピックを観戦していた。ああ、安寧の人だ、と志帆は思った。国外から持ち込まれたアルファ株やベータ株がこれから蔓延するかもしれないのに。
 志帆が楽しみにしていたフェスと出演予定のアーティストもSNSではオリンピックと同じように槍玉に挙げられていた。オリンピック中止派はオリンピックを見るな。フジロック中止派はフジロックを見るな。そしてフェスの情報を検索しようとすればアーティストの評判は嫌でも出てくる。あのアーティストは反ワクチン派だ。そしてなお悪い事に陰謀論者だ。
 志帆はそれほど強硬な中止派ではなかったものの、初日の無料配信をつけて映し出された客席に溜息をついた。曇天の野外会場でマスク姿の観客がステージを見つめていた。旅行に行きたい、美味しいものを食べたい。そんなささやかな夢は只でさえ志帆と縁遠いものであったのに、コロナ禍でもはやどうしようもないほど手が届かないものに変わっていた。ただでさえ週3回の透析という制約があるのに、どうして命の危険を冒してまで人混みの中に入っていけるだろう。フェス最終日、アーティストが出演するラストアクトの時間が近づいてきても、志帆のスマホは未だ荷物と一緒にベッド横の籠に放置されていた。スマホのロック画面に2週間前に設定した予定を知らせるアラームが表示され、数秒して画面はまた暗い画面に戻った。あと30分したら開演だーー志帆はスマホから目を逸らし、透析器に繋がる管が抜けないよう小さく寝返りを打った。
「あれ、葛西さん、今日フェスの配信あるんじゃなかったの」
 巡回に来た研修医の吉崎が声をかけてきた。志帆と吉崎は年が近く、時々、長い透析の時間潰しにこうして世間話をするのだった。顔馴染みになって間もないが、普段ワイドショーやドラマが流れているテレビから離れたベッドに寝ているので、オリンピックを見ていないことにも今更何も言ってこないのはありがたかった。年若い吉崎は静脈注射が不慣れで他の患者からは敬遠されがちだったが、透析器に不具合が生じた時ナースコールをすればすぐに来てくれるので志帆は吉崎を信頼していた。経験を積んで注射針を刺す施術も上手くなれば、もう少し他の患者にも慕われるだろう。
「ちょっと、見る気にならなくて」
「そうなの?どこか具合悪いとか痛いところある?」
「ないです」と答えると、吉崎は透析器のモニターをチェックしながら、もし充電器必要だったら貸すよ、と言い残し、隣の患者に声をかけに行ってしまった。テレビで今まさに映し出されているオリンピックの話をしているらしく、話を合わせてメダルがどうだという話が切れ切れに聞こえてくる。
 うつらうつらしている間に一時間ほど経ったのだろうか、ベッドに仰臥する人もまばらになり、清掃作業をする人が空いたベッドをアルコールで拭いている。
 時間をチェックしようとスマホに手を伸ばした。もうこんな時間か。吉崎はテレビの前に陣取っていた人の抜管をしていた。オリンピック中継は切り上げられて、短いニュースが流れている。天井を見上げてため息を吐いた志帆に、吉崎は「起こしちゃった?」と声をかけてきた。
「ちょっと部屋の全体清掃が入るから、少し騒がしいかもーーそれが終わったらオーバーナイト透析の患者さんが来るよ」
 そう言いながら、小休憩とばかりに吉崎は両腕を上げて伸びをした。
「ああ、ちょうど起きたところなので、大丈夫です」
 上体を起こした志帆に、吉崎は「結局、フェス見なかったの?」と言った。
「僕もラフォルジュルネを楽しみにしてたんだけど、中止になっちゃったんだよね」
「そんなフェスあるんですか」
「クラシックのフェスみたいなやつだよ、シンフォニア・ヴァルソヴィアっていう海外のオケを毎年見に行ってたんだけど、今年はそもそもブッキングしてなかったのかなーーまあ、こんなご時世だから海外アーティストって来なくなっちゃったし」
 だから見聞を広げるためにも葛西さんがどんなアーティスト推してるのか興味あったんだけど、と吉崎は言った。
「どんな人って、その、だいぶおじいちゃんですけど」
「クラシックの指揮者は大体おじいちゃんだよ」
「あと、あの、結構思想に問題があって」
「ん?」
 首をかしげた吉崎に、言わなきゃ良かったな、と思いながら、志帆は好きなアーティストが反ワクチン派の勢力に組していることを話した。
「はあー、生きてる人のファンだと色々大変だねぇ」
 他人事のような吉崎の台詞に、志帆は唇を尖らせた。志帆の怒りを買ったことに気づいたのか、吉崎は、ごめんとフォローする。
「でも主義思想はそうだねえ、難しいね、ザルツブルクにカラヤン広場って名前の通りがあるんだけど、それもカラヤンがナチスに与したから改名するか協議中らしいし、世界でそういう世知辛い空気になってきてるよね。だけどさーー」
 そこまで言って、吉崎は言い淀んだ。
「じゃあ、カラヤンの功績が全部消えてしまうかといえば、僕はそんなことないと思うんだ」
 遠くから救急車のサイレン音が聞こえてきたので吉崎は一瞬窓に目を向けた。近付いて来たサイレン音は別の病院へと向かったのだろう、通り過ぎて次第に遠ざかっていった。
「オリンピックの舞台監督を降ろされた人も、音楽担当した人も辞任したねーー今はそういう時代だけどーーでも」
 なんだろう、うまく言えないや、と吉崎は口を閉じた。志帆にはその気持ちがよく分かった。自分の中の正義とそれでもやはりそのアーティストが好きである気持ちが衝突するのだ。擁護できないのは分かっている。それでもなお自分の中の感情が人質に取られていてアーティストの思想を断罪できないでいるのだ。すっぱりと見切りをつけ、ファンであることから抜けられたらどんなにか楽だろうと逡巡する日もあった。割り切って思想と作品は別と言い切れるほどの度胸も無かった。
「それでも好きなんでしょ、なら聴いたらいいじゃない。僕も気になるからちょっと見せてよ」
 吉崎に促されるままにスマホを起動し、音を小さくしてから配信画面を再生する。液晶画面に表示される硬質でテクニカルな照明、科学館に置いてあるような謎の機材からほとばしる稲妻に、スマホを覗き込んできた吉崎が息を呑む音がマスク越しでも聞こえてきた。
「フェスって、もっと、こう、のどかなイメージがあるんだけど」
「あっ、ほら、夜なんで」
 言い繕ったが嘘は言っていない。YouTubeのチャンネルは3つあるが、この日この時間はとりわけ特異なアーティストが密集しているのだ。電気グルーヴとか。
「なんだか、黒魔術のぎし……あ、ごめん」
「いや、大丈夫です、初見の人みんなそんな反応です」
「いや、ほんとごめん」
 時間を考えるともうアンコールぐらいだろうか。テクノポップらしいビートと民謡のような旋律、そして朗々と数え歌のような謎に満ちたボーカルが響く。


   一振りは雨の起源に響かせて
   二振りで海の怒りを学ぶ
   三度の恵みでこの世に間借りして
   四方を魔法の支援で囲むーーー


 不思議な歌だね、と吉崎がつぶやく様に言った。労働賛歌のようであるが神の国作り神話のようでもある、遠くにあるようでごく近くのような、そんな謎に満ちた歌だ。
「私も行きたかったな」
 叶わないと知りながら、志帆の本音が口からついて出た。
「ーー行けるよ」
「無理ですよ」
 透析患者の高リスクを吉崎が知らない筈は無かった。仮にドナーが見つかって移植手術を受けたとしても腎を定着させるために免疫抑制剤は飲み続けなければならない。免疫抑制剤を飲むことでワクチンを打ったとしても抗体がつきにくいのだと志帆ですら知っている。結局籠からは出られない。所詮籠の中の鳥の自由でしかないのだ。
「気休めですか」
「そんなことはないよ」


   一夜の徹夜でこの世の星を知り
   二度目の夜明けで陽の歌を聴く
   三界の野原ですべての父となり
   四本の柱で空を支えるーーー


「2年前には無かったワクチンができた、きっと治療薬も出来る、それにーー」
 吉崎は息を継いだ。
「古い言葉で『人間の体の中には百人の名医がいる』というのがあって、これは免疫の話だけど、何かを好きでいるとか、先の楽しみがあるとか、そんな些細なことがあるから生きていられると思うんだよね」


   一つの稲穂の誇りで飾り立て
   二文字の言葉で功徳を果たす
   三歩目の歩行で己が名を見つけ
   四歩目の玉座にキミを憩わすーーー


「そういえば人間の体で四つあるものって、わかる?」
 配信を見ながら吉崎が話しかけてきたので、志帆は「え?」と言いながら吉崎を見た。
「心臓だよ」
「心臓はひとつじゃないですか」
「右心房、右心室、左心房、左心室ーーほら、四つ」
 自然と視線が下に落ち、右手で左胸を押さえた。
 歌は続く。朗々と、なんの制約も澱みもなく。このコロナのしがらみすら忘れさせるほどに。

 ふいに、吉崎も左胸を押さえた。そして押さえた手で胸ポケットからマナーモードで着信を知らせる携帯を取り出して通話ボタンを押す。ナースコールだ。
「はい、はいーーすぐ行きます」
 返事をしたあと通話を切り、また携帯を左胸のポケットの中にストンと落とした。
「もう行かなきゃ、抜管するからまた一時間後ね」
 吉崎は立ち上がると白衣の裾を翻しながら透析センターから出て行ってしまった。その後ろ姿を見送った志帆の脳裏に、今聴いたばかりのアンコールの歌詞が蘇る。

   たんと吹け風よ ダントツに爽快に
   パンパンにシャツを 帆のように張らせーーー


 ライブ映像は次のアーティストに切り替わっていた。自分がこのフェスに行くことはないかもしれない。けれど、自分の中の弱々しくとも働き続けている百人の医師がいる。その力を信じたいと志帆は思った。


   たんと吹け風よ 人体の宇宙(そら)に
   働け庭師 休まずKING


 人の庭に全て足りるまでーーそう繰り返す歌のように。


 END

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