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クールベの苦難の七年間をラップで語ってみる。

オルナン生まれのブルジョワ育ち
法学を志してパリに旅立ち 
父の意図に反し選んだ画家の道

労働者革命、新時代の価値観と馴染み
労働者の日常の憩い、描かれた"食休み"

評価され無鑑査の特権獲得、急激の躍進、
革命画家クールべの誕生

【オルナン食休み/1849年】二月革命の翌年であり民主化の象徴として高く評価を受け、賞金と加えてサロンの審査を免除されるという特権も獲得

"食休み"から間もなく
地元描いた渾身の力作
パノラマ形式の葬儀の大作
"オルナン埋葬"保守派から非難が殺到

デカ過ぎるのと美化しすぎるのと
これが歴史画か?と無差別描写が批判の対象

労働者運動の弾圧の風潮
巻き返し始めた保守派政権
幅利かせ始めたナポレオン三世

画力あるのに我が強すぎて
パリ万博の出展banに

【オルナンの埋葬/1850年/高さ3m、横幅6mを超える並外れた大作/発表当時のタイトルは"オルナンにおけるある埋葬の歴史画"】

開かれたパリ万博の目玉となる
ドラクロワやアングル 
盛り上がる博覧会場とその隣りで
バラック小屋を急造するギュスターヴ
個展開いちゃう強い自己顕示欲とメンタル

新古典主義への反発。
近代社会を赤裸々に描く反アカデミズム
労働者階級と産業資本家による階級対立
流動する時代に左右される画家達の孤立
ありのままの現実描くスタイルで抗い
写実主義を掲げたリアリスム宣言

【画家のアトリエ/我が芸術的生活の七年に及ぶ一時期を定義する写実的寓意画/1855年】
※ここからラップではありません。

画家のアトリエは、落選が続きながらも1848年初めて評価されたサロンで受賞した"オルナンの食休み"から、1855年のパリ万博出展禁止になるまでの苦渋の七年を架空のアトリエとして表現したものと思われます。

画家のアトリエ/画面中央 

キャンパスの中心はクールベ本人。モデルであるはずの裸の女性は、クールベの故郷である、キャンパスに描かれたオルナンの風景に見惚れている様子。

画面のアトリエ/画面左

画面左 社会主義思想を支持するクールベにとって大敵であるナポレオン三世を中心に、道化師、ブルジョワの商人、娼婦、葬儀屋、が描かれていますね。クールベの目線で社会の悲惨さや貧困と搾取が行われている当時の社会を風刺しているのでしょう。(共和政を標榜しながら実際には王政に回帰を目論んでいたナポレオンはクールベにとって相容れない存在でした。理想化せず背中のたるみから足の裏の汚れまで写実的に描いた"俗女たち"という裸婦像はナポレオン三世から酷評うけ絵に鞭を打たれた事も…)

"広告"と"新聞"を融合させ商業化させた
ジャーナリズムの革命家と称されるジラルダン

クールベに批判的であった政治家でもあり、批評家のジラルダンは葬儀屋として描かれているようです。葬儀屋の手元の新聞紙が彼である事を仄めかし、そして新聞紙の上には死を意味する骸骨の絵。クールベの批評家達に対する皮肉がこめられているように思います。

画家のアトリエ/画面右

画面右 クールベの背後に位置し、画面左と比べ上品な身なりに描かれてい人々はクールベを理解し評価する社会主義派の著名人(詩人のシャルル • ボードレールに、小説家シャン • フルーリ、地元が一緒の無政府主義社のプルードン)やクールベを支持するパトロン達です。

【絶望/1845年/サロンで落選を繰り返していた頃に制作された自画像】

反骨精神から画家として始めての個展を開催したクールベですが、その行動に影響を受けた印象派達も個展を開くようになります。マネと並び印象派の二人の兄の一人と呼ばれる理由がなんとなくわかるような気がしますね。


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