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読書ノート 「満州事変 政策の形成過程」 緒方貞子 

 以前に単行本で読んでいたが、そのときはメモをとることを忘れてしまった。再度岩波現代文庫で読み直す。この文庫には、2011年に追加された緒方貞子の「まえがき」、更に酒井哲也の解説もあるというお得感満載の一冊になっている。特に「まえがき」が素晴らしく感動的ですらある。これからの人の進むべき方向を指し示していると思うのだが。

 

 まずは昭和41年に書かれた「あとがき」から。

「未曾有の敗戦を経験して以来、日本は自己を破滅へ導くような膨張政策をなぜとらなければならなかったのであろうかということが、私の絶えざる疑問であった。しかし戦後の十数年間、この疑問に満足な答えを与えてくれるものはなかった。いわゆる「昭和史」的な批判は、過去の指導層を徹底的に糾弾するばかりで、その時代に生きた人々が与件として受け入れなければならなかった対内的および対外的諸条件を無視し、かつ彼らの意図を曲解しているように思えた。「極東軍事裁判」的な解釈は、戦勝国による敗戦国の審判に過ぎず、日本の膨張を侵略的一大陰謀に起因するものという前提は、これまた到底納得出来るものではなかった。

 とはいえ、日本の対外政策の失敗は明白な事実であり、過去の指導者の責任も無論看過することはできない。本書は、このような年来の疑問に、私ながらの解答を試みたものである。ここから引き出されたいくつかの結論は、決して満足の行くものでもなければ、また最終的なものでもなく、むしろ私にとってさらに多くの新しい疑問を生み出したのであったが、ここで読者の批判を受けることにより、自分の研究をさらに進めることが出来れば幸甚であると考え、あえて出版に踏み切った次第である」


 末尾に家族への感謝を述べる姿も心があったくなる。

「最後に私事にわたり恐縮ながら、私が長年学問に励むことが出来たのは全く家族の者のひとかたならぬ理解を援助とによるものであることをつけ加えたい。私の両親、夫、息子は、私がこの研究を試みなければ、いま少し多くの孝養を受け、いま少し落着いた家庭生活を楽しみ、いま少し母親と遊ぶ時間を持つことが出来たのではないかと思う。特に夫四十郎は本稿を通読して、修正加筆の労をとった。その意味において、本稿は家族ぐるみの努力の成果である」


 そして時は過ぎ、2011年の「まえがき」
「2009年12月、私は、国際協力機構(JICA)理事長として、中国東北部を訪問した。…『満州』時代の多くの遺産が未だそのまま形を残しており、南満州鉄道や学校のインフラも、丁寧に維持管理がなされ、当時と目的は大きく変わったものの、現在も充分に活用されていた。…『奉天ヤマトホテル』は、今も『遼寧賓館』として立派に使われている。フロント脇にある著名な宿泊者が記されたパネルの中に、思いかけず私の祖父の名前を見つけた。当時フランス大使として国際連盟政府代表を兼務していた芹沢は、国際連盟における討議を終えて、犬飼内閣の外相就任を承諾し、シベリア鉄道経由で帰任の途中にこの『ヤマトホテル』に立ち寄ったのであった。私は、このめぐり合わせに感動するとともに、当時の日本国内、さらには国際的な満州を巡る激しいやり取りの中で、祖父芹沢がこの一夜に何を考えていたのか、あらためて思いを巡らしたのである。

 私は、1950年代半ば、戦前の日本が世界大戦に突入していった過程と理由に大きな関心を持って、満州事変を研究し、この論文を取りまとめた。歴史の考察は、現在、そして、将来に大きな教訓と示唆を与える。日本国内のみならず、アジア情勢、世界情勢が大きな変化に直面する時こそ、歴史を読み解き、歴史に学ぶことが必要である。本書の再販にあたり、歴史研究の大切さ、意義をあらためて強調しておきたい」


 本文の趣旨は以下だろう。序論で緒方貞子が言う。
「私は本書において、満州事変当時の政策決定過程を逐一検討することにより、事変中如何に政治権力構造が変化し、またその変化の結果が政策、特に外交政策にいかなる影響を与えたかを究明することとしたい。このような変化は、対立する諸勢力間の争いの結果生まれたものであるが、軍部対文官の対立ということで説明できるような単純なものではなかった。むしろ、それは左官級ならびに尉官級陸軍将校が対外発展と国内改革とを断行するため、既存の軍指導層および政党ならびに政府の指導者に対して挑戦したという、三つ巴の権力争いとして特色づけられるものである



フラグメント

  • 「著者は、満州事変の背後にあった思想や関係当事者の態度から見て、満州事変の原動力を『社会主義的帝国主義』と定義している。満州事変には、国民大衆の生活向上やそのための統制経済の樹立という思想が背景にあり、その意味で、日本ファシズムには『下からのファシズム』としての性格が存在していた、というのが著者の立場である」(解説)

  • 「リットン調査団による報告書は、満州事変前の状態に復帰することを提唱したのではなく、日中両国が徹兵した後に現地に自治政権を樹立することを提唱した」

  • 日本近代史研究=進化しすぎて形の崩れたアンモナイト

  • 「観点を変えると、満州事変は、国際連盟の常任理事国が紛争当事国となった地域紛争」

  • リットン報告書は、「未発のPKO」ないし「未発のPKF」としての性格を有していた

  • 「研究の志においては、戦争を経験した日本人の熱い問題意識に基づきながら、それを追求する手法においては、戦後日本のイデオロギー的文脈から離れたアメリカ社会科学を軸とする姿勢が、本書を息の長い書物とたらしめた一つの要因といっていいいだろう」(解説)


「結論」の章《抜粋》

 (・・・右に述べた如く、)軍中央部は軍事作戦においては断固として指揮権を行使したが、関東軍の政治工作に対しては全く統制力を発揮することが出来なかった。このことは、いわゆる政治謀略と称せられる行為の本質によるところが大きいと思われる。政治謀略とは、不穏状態を引起したり、敵側の人員を味方に引き入れたりする目的で行われる秘密活動のことである。そのような活動は秘密裏にいかがわしい手段を用いて行われるのが通常であり、必然的に少数の人々の裁量にゆだねられなければならない。政治謀略は、政治的に不安定なアジア諸地域における日本軍の常套手段であった。関東軍はかかる政治謀略によって南満州に親日政権を樹立することを決定し、それが遂に満州国の建設まで発展したのである。軍中央部は、軍事行動面で関東軍を制約したのと引換えにある程度の自由を政治謀略活動については容認せざるを得なかった。そしてひとたび謀略手段の行使が許されると、関東軍は軍事行動に訴えることなく、満州を実質的に支配することが出来たのである。軍中央部が関東軍に禁止し得たのは、彼らが公然と表面に立って政治活動に参加することだけであった。満洲事変中、満州の地方指導者は、関東軍の指示を受けて相次いで独立を宣言した。それに対し、軍中央部や日本政府は、彼らを無視することは出来ても、到底彼らをその地位から取り除くことは出来なかった。満州国の建設は、関東軍の裏面工作の最大の産物であり、結局日本はそれに対し正式に態度の決定を迫られる結果となったのである。 

 政治謀略が是認されている政治制度のもとでは、効果的でかつ責任ある政策決定は行われ得ない。たとえ日本において統帥権独立の問題が克服され、文民優位の原則が確立されたとしても、中央の統制の及ばない領域が広汎に存在するかぎり、政策の決定とその執行について政府ならびに軍当局が完全な主導権を確立することは出来なかったであろう。要するに、日本軍部はその行動の全領域を合理的な支配体制のもとにおいてはいなかったのである。上述の如く、中央の統制の及ばない領域が存在したため、権力をめぐって対立する諸勢力がそれぞれの立場を対決し合う必要性が減少し、それがまた統一された政策決定構造の発達を妨げたといえよう。かくして、満州事変以後に残されたものは、合理的で、一貫した外交政策を決定、実施することの出来ない「無責任の体制」だけだったのである。

 


 

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