連載小説【夢幻世界へ】 3−7 転がる先のハンナ
【3−7】
「あの、よくお坊さんの経典なんか見てると、ずらずら~っと仏さんの名前が書いてあるじゃない、あれってそんなに書く意味があるのかなあっていつも思っていたんだけれど、なんとなくその意味がわかったような気がするの。あれって、書いてるけど、元々は経験として理解してるのね。その仏さんに会って、話を聞いて、一緒にご飯を食べて、一緒に一つ屋根の下で眠って、そうして理解した経験が、そこにはあったのね。あまりにも昔のことなので、誰もわかってないと思うの」
その四肢を芒と光らせながら貞子はつぶやいた。
「正確に言うと、その経験は現実のものではないのかもしれない。我々のいう現実ではなく、観想としての意識世界での経験の共有であろう。ちなみにここも、現実世界とは言い難いがの」
「貞子様、神々しい光が漏れてます…」宗玄が呟く。
「なんだか自分が自分でないみたい。眩しいし」
セラフィタは笑った。「蛍みたい」ニンファも笑った。
「Psyche(プシュケ)のラテン語をanima(アニマ)という。命や魂を指す言葉じゃ。全ての中で最も顕著な自立性の集合体で、魂の原型であり両性具有を表すこともある。無意識における男女の対や意識における男女のイメージを表している。そのアニマには四つの段階があり、初期段階は母親、母親代理で、アニマ像の基礎と言われる。優しい、許容、保護、甘やかしてくれる母親のイメージじゃ。第一段階は性的なアニマ。母親から分離し、性的なイメージを表し、その外見的なセクシーさに強く惹かれる。男なら生命を生み出す女性に興味を抱く」
貞子、宗玄、ニンファ、セラフィタが静かに大爺の話を聞いている。
「第二段階がロマンチックなアニマの段階。一人の女性(男性)の人格を愛するのじゃ。過去の日本は女性としての個性を認めてこなかった歴史があるため、社会での女性像が限定的になり、日本男性のアニマはこの段階に達しづらい。
続いて第三段階は霊的なアニマの段階。恋愛を超えた霊的な愛の段階じゃ。聖母マリアや美の神ヴィーナスなどのイメージで母性と乙女の清らかさを併せ持つ。神話やおとぎ話に出てくる女神じゃのう。
そして最後に第四の、叡智のアニマの段階。愛すら超越し、弥勒菩薩のような、静かな優しさと叡智を兼ね備えた女性像(男性像もあるはず)。アニマがこの段階を経ると、ついにアニマは姿を消し、自己の機能として統合されるのだという、これ河合隼雄の言説」
「わたしなんかは第三段階までの具現化ね」セラフィタが苦笑する。
「アニマについてはこれくらいでいいじゃろう。物語的には重要なテーマなので少し詳しめに話してみた。人世の愛もいろいろで、エロス、アガペー、ストルゲー、フィーリア、トリシュナー、カーマ、慈愛や悲愛など色々な素がある。貞子さんはそれを見てきただろうから今更ではあるが、突き詰めて言えば関係性を深く受容する情動エネルギーということだ」
「確かに、他者がいなければ愛は存在しないわ。『自分を愛する』時も、客観的な『自分』が相対しているもの」
Curl-up・Wentelteefje(伝繰り伝繰り)が床を転がっていく。
Curl-up・Wentelteefje(伝繰り伝繰り)が床を転がった先の、部屋の隅にグリューネ(緑色のワンピースを着た女の子)が立っていた。
恥ずかしがり屋で引っ込み思案で、心を打たれるほど美しい姿と寂しい瞳をした彼女は、自分自身であろうとする絶対的な決意を持っており、非常に傷つきやすいにも関わらず、耐え忍んでそれを成し遂げる力を持っていた。
「あなたにとっての他者は、誰だったのかしら、ハンナさん?」
「もう、そんなこと、分かりきってます。でも、ここじゃ、とても恥ずかしくて、言えません」
「愛が思考を研ぎ澄ますこともある。反対に思考を鈍らすことも。その根本の原因は、自分次第ではなかろうかのう、貞子さんや」
「ひとくちに『愛』と言ってもその発露の形は多様です。その多様な『愛』
の中に、特筆すべきエネルギーとして、大爺、あれがあるのね。なんとなく分かってきたわ」
「そうじゃのう、貞子さん。ではあれに話を移そうか。その前に、一旦ここれで休憩を入れよう。静かな夜を過ごせば、明日は強い風が吹く秋の日になるじゃろう」
「よくわかりませんが、承知しました。あの、いいんですけど、きっと、元には戻れないみたいですね、分かります」
「実は貞子さんが来てからすでに、ざっと200年の時間が流れています」
「そうなのね。でも200年の時間が一瞬で流れるこの『ノート』で、また楽しい対話ができると思うと、なんだか楽しくなります…」
「では、いいことをお教えしよう。よく眠る最良のやり方は、水の夢を見ることじゃ。夜ベットの中で、穏やかな、香りの良い、温かい水の中にいるような夢を見るようにしてみなされ、今の貞子さんなら造作もなかろう。未来が良きものになるように…おやすみなさい」
梟が部屋の外で鳴く。
部屋の外でラカンが呟く。
「わたし、分析家の欲望は純粋な欲望ではない。それは絶対的差異を得ようとする欲望である。絶対的差異というのは、主体が原初的シニフィアンに直面して、それに従属する位置に初めてやってくるとき、そのときに介入する差異である。ここにおいてのみ、限界のない愛というもののフィニシカシオン(意味内容)が浮かび上がる。なぜなら、その愛は法の限界の外にあり、そのような外部においてだけ、生きることができるからである…ハックション」
よろしければサポートお願いいたします!更に質の高い内容をアップできるよう精進いたします!