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読書ノート 「赤毛のアン」 L・M・モンゴメリ


 「赤毛のアン」が好きだ。なぜ「赤毛のアン」が好きか。理由はいろいろある。そのそれぞれの理由が時の経過で色褪せることなく、ずっと好きという気持ちが続いている。 

 美しい風景と魅力的な登場人物に魅了されたファンは世界中に多く存在し、性別、年齢を問わず広く愛されている。日本でも翻訳書・関連書が途切れることなく出版されることを見ても、その魅力は衰えていない。
 少し前まで、男性で「赤毛のアン」が好きだと言うことは、すこし気恥ずかしく、おおっぴらに言えないようであったが、宮崎駿のアニメのヒットや茂木雄一郎がファンを表明したあたりから、そんな抵抗感もなくなった。

 「赤毛のアン」のどこに魅力を感じるのか。
 物語は一人の孤児であるアンがカナダの小さな島の老姉弟の家にやってきて、その成長のなかで周囲の人たちとの暖かい愛情あふれる人間関係を描くというものである。アンの空想力豊かなことばで彩られる物語は、その後続編を重ね、アンの子供達や友人のエピソードを交え、日本では村岡花子訳で出版された新潮文庫が普及している。最近では、幻となっていた最終原稿の「アンの思い出の日々(上・下)」が出版され、集英社は日本初の全文訳・訳注付きの文庫を刊行、根強い人気を表している。

 中学生の頃に、児童向けの翻訳で読み、その後なぜか家にあった「アンの夢の家(ギルバートと結婚してからの物語)」を読んだ。その後順番に、アンの「青春」「愛情」「幸福」「イングルサイド(炉辺荘)」「虹の谷」を読んだ。その他「アンの娘リラ」「友達」「アンをめぐる人々」は読んでいない。アンの生き様、独白を追うことが主眼であり、それ以外には興味を感じていないからであろう。

 アンの魅力の一つに、その感情豊かで明るい言葉がある。例えば、失敗をして落ち込む自分を前にして、

 「マリラ、明日がまだ何ひとつ失敗をしない新しい日だと思うとうれしくない?」

 とマリラに話しかける場面。自分自身を励ますとともに、読者をも確実に勇気付け、まだ見ぬ明日に踏み出そうという気にさせてくれる。癒しと励ましの魔法の言葉がいたるところに散りばめられている。


 精神の危機、といえば大げさだが、心が苦しくてつらい時、救われる風景や音楽、物語がある。
 それらは自分の心の防波堤になってくれる。人はひとりひとり、そうしたものを持ちつつ生きている。人によってその重要度は違うかもしれないが、一口の味噌汁やペットの写真、子守唄などにそれを見出す人がいるかもしれない。例えば私にとってそれはサイモン&ガーファンクルの曲だったり、谷川岳で遭遇した日本羚羊(カモシカ)との交歓の情景だったりするのだが、その中に「赤毛のアン」も入っている。アンの、つらい境遇を自分の想像した世界やイメージで変換し、彩りある世界にする力は、人間本来の強さを表し、それによって読者を励ましている。もちろんその想像の世界は、まったく個人的で、なんの現世的利益をもたらさないが、その「のっぴきならなさ」は人に伝わるものである。

 なぜ「赤毛のアン」が好きか。
 そこに自分のアニマを投影しているからである。
 アニマ、ユングの謂う「自己の内なる異性」をアンの中に見て、一心同体となり、物語を自分に引き寄せて体験する。大きなひとつの元型としてのアンが出来上がっているのである。女性のファンはどうだろう?自分自身と置き換えて、感情移入をしているのだろう。飛び切り美人でもなく、そばかすだらけの赤毛で、ささいなことに感情を爆発させ、偏屈なこだわりもみせ、失敗ばかりするという、愛すべき人物像に、さまざまな感情移入を促す要素がアンのパーソナリティには溢れているのだ。

 作者のモンゴメリとアンを同一視することは、作者自身が嫌悪感を示していたが、一時代の女性観や社会観をシンプルに示していることが、スタンダードとして広く一般に受け入れられるのだろう。アンのことを嫌いという人には会ったことがない。多分「好きか嫌いか」ではなく、「好きか興味がないか」ではないか。それは極論を言えば、自分が好きか、興味がないかということと同義ではないだろうか。

 アンの映画を、結婚前の我が伴侶と見に行った。東京のどこか(有楽町であったか)の映画館でミーガン・フォローズの「赤毛のアン」と「アンの青春」完全版の2本立てを見た。結構長く、伴侶の感想が不安であったが、「面白かった」ということで胸を撫で下ろしたものだ。当時はシンドラーのリスト(3時間)や裸のランチ(グロテスク)など、まあ今から思えばよく付き合ってくれたものだ。

 物語の最後の言葉は訳の表現に違いがあり、

「神は天にあり、世はすべてよし」(村岡花子訳)
「神は天にあり、この世はすべてよし」(中村佐喜子訳)

などがあるが、私が一番好きでしっくりくるのは

「神は天にあり、この世はこともなし」

である。これは多分一番最初に読んだ児童向けの本の訳であった。
ちなみのこの言葉は、参照された一文で、ロバート・ブラウニング(1812ー1889・イギリスの詩人)の「春の朝(あした)」(「ピッパが通る」より)の詩から。

「 時は春、
  
  日は朝(あした)、 
  朝は七時(ななとき)、
  片岡に露満ちて、
  揚雲雀(あげひばり)なのりいで、  
  蝸牛(かたつむり)枝に這い、
  神、そらに知ろしめす

  すべて世はこともなし       」

「こともなし」というのが、万物が有機的に存在しながら、そのあるべき様をはたしつつ、平常に平安にある状態を表現していると思う。キリスト教的世界観ではなく、仏教的、レンマ的世界観を言い表している。「すべてよし」なんて、上から目線だよね。


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