読書ノート 「悪党と海賊 日本中世の社会と政治」 網野善彦
ここでいう「悪党」とは、神人※、海賊、山賊、山伏、そういった人々である。公権力(朝廷)の監視の目をかいくぐって貨幣経済の流通をダイナミックに動かし、社会経済を、人間の暮らしを下部から支えていたと言えるだろう。
※神人(じにん、じんにん)とは、古代から中世の神社において、社家に仕えて神事、社務の補助や雑役に当たった下級神職・寄人である。社人(しゃにん)ともいう(ウィキペディア)
以下、網野善彦のことば
「悪党」の悪とはなにか
「党」とは広域的で強力な中心を持たない結合体をさす言葉といってよい。「悪党」はまさしく「悪」で結ばれた広域的な結合体であった。そしてその「悪」は、まさしく十三、四世紀に特徴的な「悪」だったのである。
平安後期のころの「悪」の語は、粗野で荒々しく、人の力ではたやすく統御し難い行為と結びついて用いられていた。悪源太、悪左府のような用例は、むしろそこに積極的な意味を与えた場合であるが、漁撈・狩猟などの殺生、濫妨・狼藉、殺人に繋がる行為、さらに人の意志によっては左右できない博打・双六、そして「穢」も「悪」として捉えられた。それとともに、商業・金融によって利を得る行為もまた「悪」とされたので、「悪僧」はまさしくそうした「悪」の用法を示している。
とはいえそれは、なおこの時期にはこれらの行為を神仏と結びつけることによって正当化されえたのであり、こうした生業に携わる主だった人々が、神仏に直属する神人・寄人になり、王朝が前述したように神人・供御人制を軌道にのせることのできたのは、そこに理由がある。しかし、先にも述べた通り、十三世紀後半以降の社会の大きな転換の中で、未開で野生的な力とも結びつきつつ、貨幣の魔力は社会を広くとらえ、「悪」と結びついた荒々しい力を社会の表面に噴出させた。今や政治も宗教も、否応なしに「悪」と正面から立ち向かわくてはならなくなってきたのである。
そして政治の動きの中に、2つの路線の顕著な対立・葛藤があったように、宗教もまた「悪」に直面して大きく二つの流れに分かれたといってよい。悪人こそが往生しうるとする「悪人正機」を説いた親鸞、信・不信、浄・不浄、善人・悪人を問わず、すべての人が阿弥陀の本願によって救われるとする一遍は、「悪」の世界に積極的な肯定を与え、商工業者、さらに非人、博打、遊女を含む女性まで、支持者を広くひろげていった。
これに対し、親鸞に対する弾圧、一遍の行動についての「天狗草紙」「野守鏡」のはげしい非難に見られるように、非人・河原者や女性を「穢」と結びついた「悪」として徹底的に排除しようとする、主として大寺社側の動きも、一方に顕著に現れてくる。律宗・禅宗は北条氏の権力と密着しつつ、商業、貿易、金融、建設事業者に自ら勧進上人として積極的に動き、非人に対する救済に力をつくしつつも、むしろ大寺社の中にそれを組織的に位置づける方向に進み、日蓮は逆にこうした律宗・禅宗等と結びついた権力と戦闘的に対決することによって新たな道をひらこうとしたのである。
十三世紀後半から十四世紀にかけて、いわば徹底した一元論にたつ時宗が、新たに形成されてきた都市及び都市的な場所に広くその教線をひろげてゆくが、十五世紀以降、非人・河原者、遊女、博打の対する社会の差別が次第に定着しはじめ、都市自体の光と影が明確になってくると、これに代わって真宗・日蓮宗が都市民の間に大きな力を持つようになってゆく。
もはやそれに立ち入る力は私にはないが、少なくとも「百姓=農民」という思い込みから、これまで農民と国人の一揆と考えられてきた一向一揆が、むしろ都市民に幅広く支えられていたことは確実である。そして、織田豊臣権力によってそれが徹底的に弾圧され、キリスト教も江戸幕府によって完全に抑圧された結果、建前の上で「農本主義」を掲げた近世の国家権力の下で、「悪」はきびしい差別の中に置かれ、商人・金融業者も低い社会的地位に甘んずるようになってゆくが、これもまた今後の課題として残さなくてはならない。
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