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読書ノート 「まっぷたつの子爵」 カルヴィーノ 河島英昭訳


 超有名イタロ・カルヴィーノの代表作。『木登り男爵』『不在の騎士』と並んで称される名作寓話。やっと読めました。

 あらすじは、トルコ軍とキリスト教軍の戦いで、メダルド子爵はトルコ軍の大砲の前に、刀を抜いて立ちはだかり、まっぷたつに吹き飛ばされる。その半分が生きて故郷に帰るのだが、その性格は残忍で凶暴、悪い心しか持たない《悪半》となって街から恐れられる。そのうちあと半分も生きて帰ってくるのだが、こちらは清廉潔白、《善半》として最初は崇められる。そして両方が求婚した婚約者を取り合う決闘で、半分だった身体の切断面をうまく両者とも切りつけ血を流し活性化し、居あわせた医者が血管から内臓から何から全部を結びつけ、元の一人前の子爵に戻す。すると子爵はもとの人間らしい、悪だけでもなく善だけでもない、普通の性格に戻り、街に平安が戻る、と言った結末であった。


 《悪半》は、優しい父親の可愛がっている百舌鳥を残虐に殺し(片方の羽・脚を引きちぎり、片目を抉り出す)、そのことで父は死に、乳母に火をつけて爛れた風貌にした後に、癩病の集落に押し込める。たいした罪でもない村の人々を次々に絞首刑に立たせ、完璧な自分になるために、娘を愛によって支配しようとする。悪の描き方もなかなかなものだが、実は心に残ったのは行き過ぎた善を行使する《善半》子爵のほう。


 凡庸で素直な車大工のところに《善半》がやってきて、彼の発明品の不正を責め立てる場面。

 「しかしそれならどんな機械を作ればよろしいのですか」と聞く車大工に、《善半》子爵が説明するには、それはオルガンであり、水車であり、パン焼きの炉であるもの。そしてそれはロバの苦役を減じるために車をつけねばならないし、日曜日には空中に浮いて、網をつけ、害虫の蝶々を捕まえねばならない代物だった。そのようなもの、作れるわけがない…


 「それで車大工は、もしかしたら善い機械を作ることは人間の力を超えているのではないか、と疑うようになってしまった」そして《悪半》子爵が車大工にヒントを与えて作られた絞首台や拷問台は、すぐにそれを実現できる方法が浮かんだし、それは素晴らしく完全なものとなったため、「親方の心は悲しかった」
 「わたしの心のなかには悪の巣があって、そのためにこのような残虐な機械ばかりを作ってしまうのではなかろうか?」と自分自身を責めてしまうのである。


 まあ最後は、子爵が元通りの一人前になってからは、車大工も平和な水車小屋を作るようになるという、救いがちゃんと用意されていました。よかったね。このエピソードは「機械」の本質の一側面を見るようで考えさせられます。「機械」とは、人間の機能のひとつを拡大し、効率化し、強化するものであり、それが悪魔的な精神に向かうと、それも唯一つの「人を殺す」と言う機能に向かうと、いちじるしく強力なものを作り出すことができるということ。翻ってすべてを掬うようなことを考えると、あまねく要素を取り入れることですべてが不完全で効果を発揮できないようになる恐れがあるということ。コンプライアンスであらゆるリスク回避を強いる官僚や企業の姿を見るようです。寓話と言ったらそれまでだが、良い気付きになりますね。

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