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読書ノート 「ヴァリス」「聖なる侵入」「ティモシー・アーチャーの転生」 P ・K・ディック 

 「ヴァリス」を買ったのはいつのことだろうか。
中学生もしくは高校生の頃であったか。家の近くにあった某老舗書店に、家族でダイエーに買い物に行く、その待ち合わせの間に立ち寄るという生活習慣のなか、筒井康隆や小松左京、石ノ森章太郎や、AKIRAを書く前の大友漫画(童夢がSF大賞を獲る頃)を目当てに書店内をうろつくということを繰り返していた。

 書店の本棚のエンドに、文庫本が十冊ほど入る細い棚に、人目につくようにサンリオSF文庫は陳列されていた。今月の新刊を主に、それ以前の売れ残りを含め、多くても二十冊程度しか在庫はなく、一度売れてしまえば以後その著書に巡り会うことはほとんどなかった。

 サンリオSF文庫は、真白な光沢のあるカバーとシンプルな直線で囲まれた背表紙の解説が、それまでの古めかしい文庫本のスタイルとは違い、おしゃれでキラキラした印象がとっても眩しかった。新しいものによって喚起されるワクワク感を田舎の男子学生は感じていたのだ。

 「ヴァリス」を読む前に、既にディックの作品はいくつか読んでいた。「ユービック」の迷宮に感動し、「高い城の男」のIFの世界(多元宇宙というより、妄想に近いが)、「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」、「暗闇のスキャナー」、「パーマーエルドリッチの三つの聖痕」と読み続け、既に一端のディックファンであった男子学生が、翻訳者の大瀧氏がすごいすごいと言うヴァリスに飛びついたのは言うまでもない。

『ヴァリス』

「ヴァリス」三部作の表紙絵の破壊力は、田舎男子学生には、とてつもないインパクトを与えた。王宮のような、キリコのデッサンにも似た宮の中に女性が裸体で横たわっている。その肉体の中は空洞になり、宮殿の窓のように透き通った背景が見え、そこには安らぐ他の女性が佇んでいたりする。神聖な、それでいてアニマを触発され、エロチックであり、不条理であり、間違いなく「ここではないどこか」の香りがした。

『聖なる侵入』

 この表紙絵が以後の「聖なる侵入」「ティモシーアーチャーの転生」に引き継がれ、三部作の統一したイメージを確定させているのは誰の目にも明らかであろう(近年刊行された早川版は、その意味では陳腐に見える)。絵の作者である藤野一友(中川彩子)は日本の画家。1980年に52歳で亡くなっている。ダリやキリコなどのシュールリアリスト画家の影響を強く受けた作風で、繊細精密かつ不条理感満載で、見るものの無意識を強制的に触発する。怖いもの見たさでこのシリーズを買った人も多かったのではないだろうか。

『ティモシー・アーチャーの転生』

 裏表紙の解説によると、
「VALISとはVast Active Living Intelligence S ystem(巨大にして能動的な生ける情報システム)。自発的な自動追跡をする負のエントロピーの渦動が形成され、自らの環境を漸進的に包含し、かつ情報の配置に編入する、現実場における摂動。」とくる。
 まあ、訳がわからない。わかるけど、例えば行政の事務職員のような、一字一句エビデンスを求め、その語が持つ説明の範囲を確定的に証明しなければならないと考える人種からすると、ほとんど何も言ってないと言われかねないような文章である。行政文書ではないし、ビジネス文書でもない。ひとつの語にひとつの意味しかつけない、一対一対応で ないと理解しない、できない人種からは拒絶されるような文章である。
 それはまだ続き、「擬似意識、意志、知性、成長、環動的首尾一貫性を特徴とする、という。」ここで、文責者は「表現できないものを表現する」という努力をしているであろうことに田舎の男子学生は気付く。

 「VALISとはさらに発狂した神の仕掛けた迷宮によるひっぱるほどに締めつけるフィンガートラップであり、混乱と腐敗を増していく宇宙創生論であり、つまり実り豊かな終末論であり、カバラ、ドラッグ、魔術師シモン、狂気、光と闇の弁証法、パラケルスス、ヘルメス学、そしてなによりも神に酔える哲人スピノザによる、神の唯一の啓示である神は存在しないというソフィア、つまり新グノーシス主義による無神学大全VALIS」まあよくここまで詰め込んだというような文章である。キーワードを並べることで、こうしたものに興味のある読者をおびき寄せる効果を持つ手法を、まだGoogleなど検索エンジンの存在しない1980年代に体現していたとも言える文章である。マーケティングの観点からは優秀な宣伝文書と言えるだろう。「さらに幽明の境を越えて不死の人となったディックその人の生誕を告げる遺書である。合掌」として終わる。溢れ出る感情が抑えきれないのだろう。いいひとだなあと思う。

 筒井康隆の隠れたモチーフにやはり絶対者としての神があり、それは近年の「モナドの領域」でも表現されたが、モナド=ライプニッツに想起される一即他の中に神が宿る日本的な八百万の神、全てに神が宿り、かつ細部にも宿る、といった多神教的な世界観とは異なり、ディックの神は一神教的に自己を抑圧する、攻撃もする気まぐれな神である。その神に抗う様子が描かれている。悩み、戦って、なんとかヴァリスと折り合おうとし、「聖なる侵入」でも神との調停(そのためにベリアルが死に、イマニエルが現れ、消える)が行われ、作者であり主人公であるディックは救われる(ように物語は終了する)。「ティモシーアーチャーの転生」ではその救いがカウンターパート(この場合は女性のアニマ)とさらにディックの現実に近い世界でなされるストーリーが展開され、救いに重層的な強化が施される。西欧キリスト教的神を見失い、自分自身の神を創造しようとしたディックは、これを書き終えて現世からいなくなった。ヴァリス三部作はディックの癒しの物語なのだ。

 多分救いは約束されておらず、ディックは作品を書きながら、その道筋を暗闇のトンネルの中、道標なく探していたのだろう。書いても書いても救いが出てこない期間が、難渋な作風に滲み出ている。

 ちなみに早川から近年出された山形浩生訳はなんだかくだけすぎて肌に合わず、やはり硬性な大瀧啓裕訳の方がいい。少しわかりにくい時に山形版を参考に理解を深めているような読み方である。原書で読むほど英語力はないし、そのような余裕はない。

 ディックには、一時期どっぷり浸かって、すべての出版物を読む勢いであったが、就職を機に再読することがほとんどなくなっていった。社会に適応することに一生懸命でそれどころではなかったのだ。大学時代の、半分大人半分子供の、執行猶予期間、中途半端な時に、仕事がなく、一日中町の図書館で過ごし、図書館所蔵の本を全て読んだというディックの私生活に大きく共感したのは、自分自身もそのような生活をしていた、もしくはすることになると想像したからだろう。会社生活がそのうち終わり、時代が進み、これから自分もそうした生活スタイルにならないとも限らず、他人事とは思えないのである。仕事もなく、でも生きていかなければならず、生の意義や享楽をどのように見出すか。多くの人々のテーマかもしれない。

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