連載小説【夢幻世界へ】 3−5 ぷよぷよしたもの
【3-5】
「そろそろシーニェとシニフィアン、シニフィカシオンの話もしてくださいよ」
ソシュールとラカンがハーモニーで語る。焦茶色のフロックコートを着た人物像はひとつなのだが、そこには複合された人格が宿っている。
「出てきたな、君たち」大爺が笑う。
「早いな」
「人の話をずうっと聞いていられる人のことを大人っていうのよ」ニンファが不満げに言う。
「この世界、塵芥なのか人界なのかわからないが、ここでは語らないと存在しないのと同じことなのだ」
「人間ではなく人間、世間の人でなければ『人』ではない、世間の人以外は『人』ではない、イコール『非人』、人間が『人』を表す。日本の社会から出ることは死ぬこと。死んだ以上は仲間ではない。世間同士のぶつかりは日本にはなかった」養老孟司が呟く。
「語りえないものについては~、沈黙しなければならない」ウィトゲンシュタインが叫びながら入ってくる。
「ややこしいのが来たぞ」
「じゃあ、実存と言葉の関係についても話を続けよう。存在と言葉の関係を、貞子さんはどう思っておるかのう」
「うーん、そりゃ言葉は大事だけど、私が生きていることと言葉はそんなに関係がないのじゃないかしら、私が喋らなくても、私は存在するわ」
「パロールだけが言葉ではない。実は言葉を抜きに、人間は存在できないのじゃ」
「〈他者〉の場はパロールが構成される場所であるが、それとともに、そこでは虚構と実在が表裏一体の関係を持つ」ソシュール=ラカンが割り込む。
「そしてパロール、発話によって虚言を呈する能力を我々は保持している。だから人間は真実に近接することができるのだ」
「動物は嘘をつかない、そうね、そうとも言える。でも言葉がない世界では、本当に人間は存在できないのかしら。例えば科学技術が発達し、思念がそのままの形で他の人に伝えることができるようになるとか、ありえそうなんですけど。そうした時には言葉はいらないのでは」
「その時でもひとつの単位としての記号は必要じゃろう。我々は言葉なしには考えることもできないのじゃ」大爺は鼻を啜りながら言った。そしてパチンッと指を鳴らした。
ぷよぷよしたものが、空間を漂ってきた。見た目はスライムである。
「これは、コトバ以前の意味エネルギーだ。まだ固まっていない状態で、『意味』を探しておるのじゃ」
「こいつの欲望は、『何かしたい、何かあらわしたい、何か言いたい』じゃ」
「プラパンチャ、ですな」
「私はこれをランガージュ、文節言語能力と名付けた。この抽象的な能力をここでは具現化しておる」ソシュールが言った。
「この状態でいるのは実は結構難しいのじゃ。こいつはすぐに『意味』を見つけ出し、結晶化してしまう」
ぷよぷよが、色を変え、硬化したかと思ったら、パッとしゃぼん玉が割れるようにして消えてしまった。
「今こいつが見つけたものは『虚構世界の真実としての、名付けられないもの』という意味じゃ」
「シニフィエがない」
「不満なら好きにつけるが良い、ラカン=ソシュールよ」
「馬鹿馬鹿しい。また来る」と言って彼らは出て行った。
「じゃあ、僕も寝る」ウィトゲンシュタインが蒲団を被った。
場に白々しい雰囲気が漂った。
「ええっと。こんな感じで大丈夫?なんなら方向転換もありよ」
「言葉で世界は変わる、まあ付き合いなさい。そのような言語記号を前提とした我々の世界の中で、いなくなってから言うのも気がひけるが、ラカンのいう現実界、とどう関係を結んでいくかが問題なのじゃ。かつ、この世界での突破口がどこにあるかも。これは別の問題なのじゃがな」
「まだよくわからないことが多いけど、興味はあるわ、続けましょ」
貞子の爪先から虹彩が発せられる。「まあ、これは?」
「徴じゃ。到達点へ向かっている証しでもある」
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