完璧な夏

完璧な夏にいきたい。故郷然とした故郷に帰ってテンプレート的な夏の原風景に溶け込みたい。しかしどうしようもないので、やむを得ず数多の理想の夏を脳に構築しながら、存在しない記憶をいくつも海馬に編んでいる。蚊取り線香の香りがする古びた駅舎。褪せて朽ちたポスター。塗装の剥げたベンチ。錆びたバス停。潮騒の夕暮れ。見たことのない缶飲料がある自動販売機。長らく使われていなさそうな公衆電話。祖父母の家の縁側で飲むよく冷えた少し味の濃い麦茶。友達と秘密基地を作りたかった。潮風を浴びながら、遠くで逃げ水が揺れている道路を通学したかった。木造の駅で転校する幼馴染を泣きながら見送って、その記憶だけを食みながら生きていたかった!しかし創作の神様は僕らを題材にしてくれない。ファム・ファタールは現れないし天変地異も起こらない。あの物語はフィクションで僕らの退屈な人生はノンフィクション。インターネットというカスのホルマリンに入り浸りながら辛うじて形状を維持し続けるだけの生活。アルバイト帰りに通るファンタジーみたいな教会の中にもさして物語はないし、家の外にあるのはしょうもない人間たちが構築するしょうもない社会。その歯車の中で機械でもできる労働をして薄給を得るめちゃくちゃ替えが効く人生。革命めいた出来事など全く以て起こらず、ひたすらのっぺりとした経路を進みながら少しずつ何かを失っていくだけ。こんなはずじゃなかった!


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