究極の選択(人工呼吸器)
「人工呼吸器をだれに装着するか」
コロナ吹き荒れるイタリアで、
いま、現場の医師たちの間で繰り返されている会話だ。
そこでは、間違いなく、
「患者の選別」が行われているのだ。
そんなことが許されるのか、と怒りでこぶしを振りあげるのは簡単だ。
だけど、若いあなたや家族が当事者だとして、
「人工呼吸器の数が限られている」
状況だとしたら、どうだろう。
80~90代の重篤患者の方たちが、同じ立場とはいえ若いあなたや家族より優先されるとしたら、どうだろう?
あなたは、そしてあなたの家族はその高齢者に人工呼吸器を譲れるだろうか?
ここまでくると、もはや
倫理的にどうだろうという問題だけでは対応できない。
究極の選択をせざるをえない状況にいまイタリアはあるのだ。
患者には、等しく生きる自由権利がある。
だが、その両者がぶつかり合う今回のケースでは、どちらかを優先せざるをえない
他に選択肢がない。
正対正なのだ。
いい悪いの観点からでは判断できない。
選ばなければならないという「究極の現実」がそこにはある。
理屈でどれたけ述べようと、
「悲しい悪夢みたいな現実」がそこにあることにかわりはない。
ご存じでない方は
是非、ご自分で一度調べられることをおすすめいたします。
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