死にゆく人
最寄りの駅から坂を登り続けること十五分。お兄さん、着きましたけど。愛想のない運転手の声で微睡みから目が覚める。領収書をもらい、帰りも迎えに来るように頼む。同じ道を下ってゆくタクシーをぼんやり見送った。しんしんと雪が降っている。到着地である『水無瀬』の屋敷にも、うすらと雪が積もっていた。
出迎えたのは老年の使用人だった。屋敷の中は玄関まで温かく、預かられたコートの代わりに手触りの良いタオルを渡された。濡れた体を軽く拭いていく。広い屋敷は静かで、限られた人間の暮らしを思わせた。
「寒かったでしょう。お迎えにあがることが出来ればよかったのですが」
「いえ、大丈夫です」
そう告げると男は目を細めた。眩しいものを見るような、泣き出しそうな表情だと思った。
「こちらへどうぞ」
*
通された部屋の片隅には、車椅子の彼が背を向けていた。案内をしてくれた男に短く礼を告げる。部屋の大きな扉が静かに閉まり、かつての銀幕のスターが、ゆっくりとこちらを振り返った。
目が合った一瞬、彼の表情がどろりと崩れた。冷静はすぐに戻ったが、差し出された手はひんやりと冷たかった。
「はじめまして。温かくしていますから、どうぞ座ってください」
そう微笑む彼には、穏やかさと同時に厳しさもをも感じられる。右足を失ってもなお、堂々の存在感と張りのある声で、舞台に立ち続けた名優の面影がそこにはあった。
「緊張していますね」
彼が柔らかく笑って、初めて体が強張っていたことを知る。そうか、これは緊張しているのか。
「よろしくお願いします」
自覚してもなお震える声で差し出した名刺には、フリーライターの肩書き。このひとの前ではとりわけ陳腐に見える。
彼は名刺を丁重にしまいながら言った。
「あなたの記事を読んだことがあります。書き手の人柄のわかる、とても良い記事でした。電話でお話しした通りです。私の話を記事にしていただきたい」
あの事件を、私の過去を、出来ればあなたに。書いて頂きたいのです。
毅然とした声は、まるで縋るようだと思った。もとより断るつもりはない。改めて、お願いします。と告げる。世に出せるものになるかは、正直まだわからないとも伝えた。しかしこの人の話を聞くために、ここまでやって来たのだ。
用意してきたボイスレコーダーは出さなかった。この人の声と話をきっと覚えている。ゆるく細められたひとみに光が宿り、彼は静かに話し始めた。
「夫の在る女性を愛しました。……………私の、罪です」
穏やかな声が、悲しい過去を語る。
*
身勝手な恋でした。身勝手な愛でした。
歳も随分離れていて、きっと彼女の目には、我儘を言う子どものように見えていたでしょう。
私の方が貴女を愛している。そんな常套句を並べて、彼女の寂しさにつけ込んで、何年も関係を続けて、いつかこの人が、私だけを愛してくれる日を夢見ているうちに。
彼女との永遠の別れ。私は、葬儀に出席しました。ご主人に、まるで何もなかったかのように挨拶をして。ご主人の抱いた赤ん坊が、彼女にそっくりだったことを、今でも覚えています。
久しぶりに会った彼女の頬が、冷たく、まだ柔らかく窪むのを見て、ああこの人は死んでしまったのだ。と思いました。私の身勝手な愛は、誰にも気付かれることもなく、また、誰に祝福されることもなく。
終わっていくのだと思いました。
あの火事のことをご存知ですか。……………そうですか。
夜、撮影先の旅館で、風の強い日で、火の回りが早くて。まだ、携帯もない時代でしたから。気づいた時には、もう。
炎で焼き崩れたものが、私の足に倒れて、ぐしゃりと音を立てました。吸い込む空気が痛くて、じりじりと焼けていく音がしました。心の焼けていく音。勝手に流れていく涙も、まるで沸騰したみたいに熱かった。痛い。痛い。でも、もういい。罰が当たったのだと思いました。
二人の人間を不幸にした罰が。
二人?と尋ねることはしなかった。その火事で失くした右足の上をさすって、彼は続ける。
「葬儀でご主人が抱いていた赤ん坊が、己の子だと知りながら。彼女が命と引き換えに、産んだ子だと聞きながら。知らないふりをしました。
私は、我が子を、捨てました」
彼女の不義を、世に曝したくないだとか。こんな名のない俳優の子だなんて、苦労させるだけだとか。最もらしい理由をいくつも並べて、まだ泣くしかできない赤ん坊の手を、私は取りませんでした。
これが、私の罪の、全てです。
*
なぜ今になって、全てを。そう尋ねて彼を見ると、ひとみの光は消えていた。
「もう長くありません。誰かに許されて、そして死にたい」
彼のもうない右足。義足で舞台に立ち続けた彼。代わりに酷使した左足も、もう二度と歩くことはできないという。
「結局、助けられてしまいました。でもこの足で、彼女と、あの子のいない世を生きるのも、また罰なのだと」
「もし」
この人は、悲しい。そう思う心はなぜなのか。咄嗟の声を咎めることもせず、続きを請うように視線をあげた彼の目。外でははらはらと雪が舞う。
「もし、そのお子さんと会えるなら」
会いたいですか。何を言いたいですか。どうしますか。……………そう伝えようとした声は、彼に遮られた。
「幸せに生きなさいと。老いぼれが、あなたの幸せを祈ることを許してくださいと。そうお伝えいただけますか」
迷いのない声だった。「はい」と小さく返事をする。
扉がノックされ、入ってきた男がタクシーの迎えを告げた。余裕を持って伝えていた時間は過ぎている。
「時間ですね」
彼は目尻を下げて言った。今日はありがとうございました、いい記事が書けそうです。陳腐なライターの言葉に彼は笑う。
「さようなら」
彼は稀代の名優の面のままそう言った。凛とした声だった。
「俺」
発した言葉に、彼がきゅっと口を結んだ。
「俺、幸せに、生きています」
かすかにひとみが揺れる。思わず差し出そうとした手は、車椅子の手すりを握る手にこもった力を見て、やめた。
「行きなさい」
彼はくるりと背を向けて言う。
「ありがとうございました」
彼の背中に、別れの言葉が響く。閉じた扉の前には使用人の男が立っていた。手渡されたコートを羽織り、長い廊下を真っ直ぐ歩く。
外の風は、この屋敷に着いた時よりも凍るように冷たい。まだ温もりの残るコートに雪が積もっていく。
乗り込んだタクシーの運転手は行きと違い、愛想のいい若い人で、車内も程よく温まっていたが、指先がじんじんと凍えた。
離れていく彼の住む家。小高い丘にある彼の屋敷からは、薄い雪化粧をした家々が並んでいるのが見える。彼が最期を過ごすこの街は、寒く冷たく、厳しく、美しかった。
雪に濡れた身体が冷たい。凍える頬。濡れているのは雪のせいだ。
*
彼の訃報を聞いたのは、それからたった二週間後のことだった。
テレビには彼の追悼番組が流れている。大らかで、それでいて高潔な方でした。曲がったことが大嫌いで、情に厚くて……………。
それは結局世に出さなかった記事の内容と、うまく合致しているようにも、どうしても食い違っているようにも感じた。テレビの言っていることが、嘘か本当かは、わからない。あの雪の降る日、過去を話したあの人のことしか知らないのだ。
テレビの電源を落としたのとほぼ同時に、マンションのインターホンが鳴る。モニターに映る男が、あの日家にいた使用人の男だと思い出すまで、少し時間がかかった。
近くのチェーンのコーヒー店でそれぞれ飲み物を買い、空いていたテラス席に座る。吉田と名乗った男は、こちらはとても暖かいですね。と言った。こっちはもう春が近いですよ。そう告げると、吉田さんは座ったまま、深々と頭を下げた。
「私、彼のマネージャーをしていて、……………あの火事の日も、同じ旅館に泊まっておりました」
「え?」
あの人の人柄と、演技に惚れて。私の手でスターにすると意気込んで、だから絶対に助けたかった。火の中に飛び込んだ私に、彼は言いました。
「死なせてくれ」。結局、私も意識を失って、次に目覚めたのは病院でした。あの人は右足を失っていました。助かったあの人は、それまで以上に仕事にのめり込み、まるで何かに贖うように。
育ての父が、何者かから不定期に多額の送金を受けていたことは、十六で育ての父が死んでから知った。送金を続けた理由も、名乗り出なかったのも、己の保身のためではないことはわかっているつもりだ。
「彼は幸せだったんでしょうか」
そう尋ねると、吉田さんは眉を下げて笑った。長年の戦友を喪ったにしては晴れやかで、彼の死が納得のいくものだったことを思わせた。
「どうでしょう。何年も、身体の不自由と痛みに苦しみましたが、多くのファンを得ました。大らかで、清く、正しく、不器用で、傷だらけで。
それでも最期は、あなたの名前を呼んで、逝きました」
日向。と、短く、短く、あなたを呼んで、逝きました。
あの燃える火の中でも、あの人はあなたの名前を呼んでいた。日向。ひなた。あの時も、あなたの名前を呼びながら、死ぬつもりだったんです。
あの雪の日の、小さな彼の背中が胸に迫る。強い人だと思っていた。罪と罰を背負いながら、それでも強く生きた人だと。
愛していたのか。抱き締められることも、愛を語ることも一度もなかった。それ以外の何にでも、手に入れることのできたであろう人だった。それでも遠く離れた息子の幸せだけを祈り、生きて、そして死んでいったのか。
「俺は…………………………彼を、一度も父と呼ばずに。ただ、幸せですとしか…………………………」
その言葉が、どれだけあの人を救ったことでしょう。堪え切れなくなったように涙を流した吉田さんが言った。悲しいあの人は、やっとあなたの名前を呼んで、逝くことができました。
「最期にあの人はあなたに会えた。あなたはあの人によく似ています。ありがとう.........ありがとうございます.................」
この人が父の隣で背負ってきた何十年を思った。父の生きた何十年を思った。
あの日雪のせいにした濡れた頬を、幾分柔らかくなった風が撫でる。
生きなさい。そう言った父の凛とした声が響く。
人生でたった一日の父との時間。
幸せに生きなさいと。そう告げた父に、幸せですと言えたあの時間だけが、どうかどうか、淡い雪のように降り積もればいい。
突き抜けるような晴天だった。父さん。そう呼んだ声も、きっと空に届くといい。
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暑いと寒い話を書きたくなるな。
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