明日の記憶


 1


 雨が。


 雨が降っている。


 車は死んだ義兄を乗せて、雨に降られる街に消えていく。雨を吸い込んだ喪服が一層重くなる。


「ミツ。私たちも行こう」
「凪」


 喪主として夫の葬式を執り行った姉は、疲労の滲む顔でそれでも毅然と美しかった。明日馬の、死んだ義兄の愛した強さだ。


 明日馬はその日のうちに骨となり、二つの壺に分けられた。一つは姉の家の仏壇に飾るもの。もう一つは明日馬の実家に渡すもの。


 「受け取ってもらえないかもしれないけど」


 ごく小規模な式は終わり、骨壷を持った姉はその足で明日馬の実家に向かう。次に会った姉の頬は腫れていた。女だから平手で済んだのね。そう言った姉が痛ましかった。



 2


 灰皿を持ってベランダへ出る。雨は小雨になっていた。二十二階から見渡す街は濡れて滲んで見える。


 明日馬が死んだのは不幸な交通事故だった。相手の居眠り運転に、雨の日のスリップが重なった。予測しない方向から歩道に突っ込んできた軽自動車を遊馬は避けきれず、打ち所が悪くて死んだ。即死だった。


 まったく明日馬らしくない。彼の好んだ銘柄を吸いながら思う。明日馬なら、それくらいひょいと避けそうなものだった。そういう人間離れしたところが彼にはあった。


「飛んででも避ければ良かったのに、バーカ」
「いやそれは無茶だろ」
「は?」


 は?


「久しぶり」


 思わず吐いた煙の向こうで、明日馬が笑う。


「久しぶり、って、アンタ、」


 死んだんじゃ。


 その明日馬はただのリアルだった。今日終えた葬式も、二つに分けた骨壷も、帰ってきた姉の腫れた頬も。まさか全て幻だったのか、なんてありえない夢を見る。


「死んでるよ。幽霊ってやつ?」


 一本ちょうだい。そうせがむので煙草を渡してみると、明日馬は生前と同じ仕草で煙を燻らせた。いや、触れるんかい。自分で自分を幽霊だというこの男は、死んでもなお掴み所のないままだった。


「死んでも全然変わらないんですね」
「充希も相変わらず可愛げがないね」


 明日馬は視線だけをこっちに寄越し、もっと驚くと思ってた、と言った。驚くとか、断じてそういう次元の話ではない。足が固まって動かないほど驚きだってしているが、ただ明日馬なら、やりかねないという諦めもまたあった。生前だって常識が通用しない男だったのだ。


「何の用ですか、凪じゃなくて俺の方に」


 凪、と僅か数ヶ月新婚生活を送っただけの妻の名前を出すと、明日馬の表情が翳る。傷つけたかもしれない事実に心が怯んだ。この飄々とした、欠点などまるで一つもないように見えるこの男の、たった一つの弱点が姉であったことを思い出す。それでも傷ついた表情は一瞬で、またいつもの薄っぺらい笑顔に戻った。


「会えて嬉しいだろうが」
「馬鹿、凪差し置いてこっち来られたって何も、何も嬉しかねーですよ」
「他の綺麗なねーちゃんのとこ化けて出るよりいいでしょ」
「それこそ凪放ってそんなことしたら呪いますけど」
「シスコンは健在かー。呪おうたって俺もう死んでるっつの」
「いいからさっさと成仏してくださいよ」


 悪態をからりと笑い飛ばしていく明日馬が、ずっと姉一筋のまま生きて死んだことを知っている。凪に会いに行けばいいのに、と思った。こんなところで油を売っていないで、凪を笑わせてやって欲しい。


 もう凪より優先して欲しいなんて言わないから。


 思わずぐっと結んでしまっていた手に明日馬が触れた。明日馬に向き直る形になる。痛そう、やめなよ、と言って指を一本ずつ解かれていく。こんなにあたたかいのか。そう思った。


「凪に俺は見えないよ」



明日馬が二本目に火をつけて言う。


神様に会った。そんなことを嘯いた。



「俺、死んだんだけど。あ、知ってるか。うん、そんで、神様に言われたの。おまえ、嫁への未練重くね?って。それどうにかしないと成仏はできねえぞーって」


 そんな軽い神様がいるかよ、冗談だろ、と言ってしまいたかった。しかし、無念だわ、と笑った明日馬が哀しくて、何も言えない。明日馬が口角を上げて視線を寄越す。嫌な予感しかしない。


「成仏しろって言ったよな?じゃあ手伝ってくれ」
「勘弁してくれよ・・・」


 罰だと思った。一度、この男が欲しいと思ったことがあるから。だけどこんな風に奪いたいんじゃなかったよ、そんくらいわかるだろ。


「ごめんな、充希」


 明日馬がにっこりと笑う。恐らくはちっとも申し訳ないと思っていない。
 



 


 幽霊というのが思っていたより厄介だった。第一に飯を食う。そしてトイレに行く。挙句の果てに風呂に入る。ワンルームで成人男性二人の生活が営まれることになる。成仏するのを手伝ってほしいと言った明日馬は、幾日経っても成仏する気などないように見えた。


 「聞いていい?いつになったら成仏すんの?」
 「ひどくない?早い話が死ねってことだからねそれ」
 「もう死んでんだろうが・・・・・・」


 悪態を吐きながらも俺は明日馬の好物をつくる。それを食べて明日馬は、味付けが凪に似てんね、と言う。いつだってこの男の頭には姉のことしかない。


 「初めて食べた凪の料理がオムライスだったんだよな」


 白飯に卵被せて、ケチャップで名前なんか書いたりするだけの料理が、あんなに美味いなんて知らなかったよ。明日馬が口の端で笑いながら、凪との思い出をこぼしていく。


 有名な私大の附属高校に通う明日馬と、アルバイトをしながら公立高校へ通っていた凪は、一体どこで、どんな風にして出逢ったのか。

 気づいたらまだ学ランを着ていた明日馬が我が家にいて、姉の作るオムライスとも言えないものを旨い美味いと食べるのが当たり前だった。食費を差し出す明日馬を母はいつも豪快に笑い飛ばし、まるで実の息子のように可愛がっていた。


 その母が亡くなった時、明日馬と凪の間に起こったことに俺は無知だった。凪は明日馬に会うことを拒み、幼い俺を抱きしめて泣いた。ごめんね。凍えた声が今もこびりついている。


 俺たちが生きていくために、凪が犠牲にしたものの多さを知りながら、その一つが明日馬だったと知りながら、俺はあの時、明日馬に会えない自分だけがただただ可哀想だったんだ。


 「明日馬」


 凪への未練が重くて成仏できない、と明日馬は言う。でもきっとそうじゃない。俺の未練が、明日馬への、この捨てきれない恋心が。この人を地上に繋ぎ止めているんじゃないか。


 明日馬がベッドを占領して眠っている。ベッドは明日馬の質量の分だけ凹んでいた。こうして見ると生きているのと変わらない。だけど明日馬は死んでいて、俺にしか見えないのだ。


 「明日馬、もうちょい奥寄って」


 返事はない。本当に眠りこけているように見える。幽霊のくせにしっかり邪魔だ。明日馬の体をどうにか押し除けて、自分の領域をベッドに作る。


 明日馬と一緒のベッドで寝ていることが不思議だった。明日馬の髪にいたずらに触れてみる。手に入れたくて仕方がなくて、ずっと心で駄々を捏ねていた、姉の恋人。


 いっそ告げてしまおうか、と思ったりもした。きっとこの人は、そっか。と一言だけ述べて、あとは何事もなかったかのように過ごせるのではないかと、一瞬、そんな淡い夢を見たりもした。それでも怖かった。愛してくれなくていい、だから充希って呼んでくれ。馬鹿だなって笑ってくれ。愛してくれなくていいから、お願い。


 そして明日馬は死んでしまった。もし告げていたら、凪にも明日馬にも嫌われただろうか。もしかしたら、好きでいることぐらいは許されたのだろうか。俺にはまだ分からない。


 「明日馬」


 生きている人間と変わらないように見える明日馬に、唯一不必要となったものが睡眠だった。それでも明日馬は何かを辿るように人間の真似事をしてベッドに入る。結局眠らないまま、じっと目を閉じているだけだということを俺は知っている。


 「覚えてると思うけど、明日、母さんの命日なんです。・・・凪に会うよ」


 明日馬の返事はない。それでも明日馬は来るだろう。会わなかった間も、明日馬はただの一度も母の墓参りを欠かしたことがなかった。明日起こることを予測しながら、俺は無理に目を閉じる。




 


 明日馬と凪が再会したのは、母の七回忌の時だ。母の墓の前で偶然明日馬に似た影を見た。隣にいた凪は咄嗟に踵を返したが、俺の喉から絞り出すような声が出た。


 「・・・・・明日馬・・・・・・・・・」


 こちらに気づいた明日馬が表情を崩す。俺の横をすり抜けて、そして駆け出した姉を追いかけて、あっという間にその腕に収めた。


 俺は、あんなに嬉しくて悲しい瞬間を他に知らない。


 母が死んだ時、姉が明日馬に会うことを拒んだのは、姉なりの覚悟だった。母が死んで、辛くて貧しくて、そんな俺たちを精神的にも金銭的にも救う力が明日馬にはあった。でも一度それに縋ってしまえば何かが一生ずれたままになることを、姉はわかっていた。生活のために何もかもを捨ててくれた姉の唯一の矜恃が、ただの恋人として明日馬と過ごした思い出だということを、俺は随分後になってから気づいた。


 しかし明日馬はそんなものはもう関係ないという。七年が経って、俺はもう高校を卒業する年になっていた。凪と生きていきたい、と言う明日馬に、ありがとう、ありがとう、と凪は泣いた。恋人たちが美しく泣くのを、俺は隣で見ていた。重りだった俺が、ようやく訪れた凪の幸せに唱えたい異議など、あるはずもなかった。
 
 「充希」


 黒いワンピースを着た凪が、五分遅れて霊園に現れる。荷物を持ってやると、ありがとう。と微笑む凪は、最後に会った時からかなりほっそりしていて、その姿に癒えることのない哀しみを見る。


 「何作ってきたんだよ、それ(笑)」
 「オムライス。白米の(笑)」
 「それかあ。不思議とうまいんだよなあ・・・」


 オムライスを備え、二人静かに目を閉じる。目を開けた時、凪はまだ目を閉じたまま、亡き母に語りかけているようだった。
 ふと顔をあげた視界に、見慣れた影が映った。母の墓から霊園を出るまでの道に、明日馬がいた。まるで再会したあの日のように、今度は明日馬がこちらを見ているのが遠くにわかった。


「お昼、何食べよっか」


 いつもの中華料理屋でいい?そう尋ねる凪は、何にも気付いていない。
 ふと、俺は期待をしていたのだと気づく。なんだかんだ言って、結局凪にだって明日馬は見えるのではないかと。だって二人はあんなに愛し合っていたんだ。俺に明日馬が見えて、凪に見えないなんて、そんな悲しいこと、あっていいはずがないだろ。


「充希?お腹、空いてない?」


 もう一度明日馬がいた方向を見ると、もう影は消えていた。俺は凪との飯を断って家路についたが、意識はどこか覚束なく、頭が地鳴りのように痛んだ。
 


 家に着いて何も言わずに部屋に上がる。明日馬はいつもの様子でテレビを見ていた、あはは、という明日馬の、乾いた笑いが部屋に響く。


「おー。おかえり」
「明日馬、あんた今日」


 きたのか?居たよな?どう聞くのが正解がわからず、俺は口をつぐむ。慰めるように明日馬が笑った。違うだろ。…………慰められたいのは、俺じゃないだろ。


 「いや、毎年行ってたし、行かないのもな、と思ったんだけど。俺だって死んでるっつーの、と思って途中で引き返したんだよね」


 明日馬はビールを一口煽って言う。凪が元気そうでよかった、と。


「あんな距離でわかるかよ。もっと近くにこればよかっただろ」


 もっと近くにいたら。もし手を伸ばしたら。もし、名前を呼んだら。凪だって、気付いたかもしれないじゃん。どうしようもない駄々を捏ねる俺に、明日馬は怒るでも呆れるでもなく言う。


「わかるよ。凪に俺が見えないのも、わかるよ」


 明日馬は徐に立ち上がって、シンクで煙草に火をつけた。燻らせた煙が、換気扇に吸い込まれてゆく。


「どっちがいいだろう、って考えたよ、死んでから」


 明日馬が言葉を落とす。凪だけに俺が見えるのと、凪以外に俺が見えるのと。どっちが良かったんだろう。…………何度も何度も、考えたよ。


 「凪だけに俺が見えたら。………二人の生活は何も変わらずに進んでいく。俺は凪を抱き締めて寝て、朝起きたらキスをする。何も変わらない。俺にとっては死ぬ前と同じ日常だ。でもきっと凪はこう言われるよ。『忘れなさい』、『正気に戻れ』、『旦那さんはもういない』。…………俺も凪も、きっと泣きたい気持ちでそれを聞くんだ」


 明日馬の目は遠くを見ている。自分がもういない場所を、きっと明日馬は見据えている。


 「俺は、凪以外の誰かに見えた方がいい」


 『明日馬は側にいる』『ずっと凪を見守っている』俺はもういないんだから、凪にそう言ってくれる誰かにいてほしい。明日馬はそう深く息を吐いた。シンクに落ちた灰が一瞬赤々と燃えて消える。色素の薄い明日馬の瞳には迷いなどなかった。


 「凪に俺が見えなくて良かった。死んだ俺と泣くんじゃなくて、周りの人間と一緒に笑って、凪は生きていける」


 俺の未練が明日馬をこの世に引き留めている、なんてそんなのはただの自惚れだった。思い知った。この人の姉への思いが、未練が、どれほど強くて重いのか。それでもそれを手放して、ただ姉の幸せを祈りたいと言うのだ。たとえその場所に自分がいないとしても。


 「明日馬」


 呼ばれてこちらを向いた明日馬は、ふっと気の抜けた表情をしていて、明日馬のこんな表情を初めて見たな、と思った。俺の知っている明日馬はいつも姉の隙のない恋人で、姉は駄目な明日馬を知っているのだと考えては眠れない夜を幾つも過ごした。でも今、俺のことばの続きを待っているのはただのまっさらな明日馬だ。気が遠くなるくらい長いこと、手に入らないものを考えてはまるで子どもがするように不貞腐れていたのに、たったそれだけのことで俺は、まあいいかと、もう充分だと、いっそ満足してしまったのだ。


 「俺に何か言いたいことがあったんだろ」


 明日馬は一瞬だけ驚きを滲ませたが、すぐにいつもの余裕綽綽とした表情で、ゆっくりと話はじめた。


「俺、癌だったんだよね。おっかしいな、と思って診てもらった時には、あちこち転移してて、もう手遅れ」


 死ぬのは怖くなかったよ。天国に、まあ地獄かもだけど、何人か先に行ってるやつもいるし、俺はどこでも、それなりに楽しく暮らせるし。でも、凪を残していくのが。あの子だけを残していくのが、どうしても嫌で。だってやっと、俺は、あの子を、幸せにできるって、絶対に幸せにするって。…………俺が死んだあの日、俺、お前んとこ行こうと思ってたんだ。どうしてもお前に頼みたいことがあって。でもいざとなったら、やっぱりな、とか思って。駅からお前の家に行く時に、大きい交差点、通るだろ。そこで、うだうだ悩んでたら、車が突っ込んできて、そんで終わり。人間、あっけねえよなあ。…………なあ、充希。


 「俺が救急車に乗せられたとき、それを持っていなかったことは覚えてる。でもまだ見つかってない。多分、まだあの辺りに落っこちてるんじゃねえかと思うんだ」


 もしあったら。見つけられたらで、構わないから。それを凪に渡してほしいんだと、明日馬は言った。


 「そんだけ?他にもあるでしょ」


 どこか申し訳なさそうな明日馬にそう笑いかけると、明日馬の瞳にみるみる涙が溜まる。


「凪に、会いたい」


 明日馬の頬につうっと涙のあとが残る。明日馬の涙を初めて見た。叶えてやりたい。未練を残して死んだ好きな人の、途方もない願いを。
 



 


 凪の家を訪ねた日は、明日馬の四十九日を控えた日曜日だった。何度も訪れたことのある家の、インターホンを押す手が震える。隣の明日馬も心なしか緊張しているように見えた。


「びっくりした…………充希?どうしたの、急に」


 現れた凪の姿に、明日馬が隣で息を呑む。
 愛おしい。明日馬の心が震えているのがわかった。愛する人が目に見えて窶れて哀しくて寂しい理由が死んでしまった自分であることが、嬉しくて哀しくてどうしようもないと。


 凪に導かれるまま廊下を歩く。築五十年の古い家の廊下は、一歩進むたびにギシギシと音がする。古い物語に出てくるようなこの家で、まるで御伽噺みたいね。とくすくす笑いながら、息を潜めるように二人は暮らしていた。我が家の借金を返しながら、明日馬の実家のしがらみから逃れながら、二人が住処としたのがこの家だった。そんな壮絶など関係ないほどに二人でいる凪と明日馬は幸せで、その二人を見るのが好きだった。強くて優しい二人が、いつだって眩しいほどに、俺の光だった。


 急に訪れた弟を、凪は心配して見せた。自分自身を気にかけて欲しいとは思うけれど、家はいつも通り綺麗で、淹れてくれたコーヒーも美味しくて、家の中は甘い香りで満ちていた。アップルパイを焼いていたの。姉はそう言って緩やかに笑った。最愛の人を喪っても、この人は生きていくのだなと思った。明日馬がそう願ったように。例えその生活にもう、明日馬がいなくても。


 ちらりと隣に座った明日馬を見る。明日馬がこくりと頷いたので、俺はポケットにそのまま突っ込んだ物を凪に差し出した。きっとあの日、明日馬もこんな風にするつもりだったのだろうと思いながら。


「これ、明日馬から預かってたんだ」


 事故現場から持ってきたままの袋を凪に渡す。中身を開いた凪は息を飲んだ。
 むき出しのままの結婚指輪だった。明日馬の左手についていたはずのものだった。


 あの男は、凪に別れを告げようとしていたのだ。大事なものを、まるで大事でないかのように雑にポケットに入れて。愛想が尽きたとでも示すつもりだったのか、それでも結局遂げられず、死んでしまった。


 「明日馬くんは、お別れをするつもりだったのね。きっと、私のために」


 凪がすべて察したかのように言った。
 明日馬が凪に手を伸ばす。凪は気づかない。凪に教えてやりたかった。愛した男が、静かに泣きながら自分を抱き締めていると。小さな声で何度も凪の名前を呼んで、ごめんと謝っていると。

 でもそんな俺の身勝手は、明日馬も、凪も救わない。



「帰っちゃうの?夜ご飯、食べてくかと思ったのに」


 オムライスくらいなら作れるよ。そう言う凪に少しだけ後ろ髪を引かれながら、凪の家を出る。また今度、充希の好物作るからね。チキン南蛮、好きでしょ?そう朗らかに笑う凪を見て、ああもうこの人は大丈夫だなと思う。痩せた体で、未だ癒えない哀しみと愛を背負いながらも、“今度”の話を出来る凪は、もう大丈夫だ。


 明日馬は隣でまっすぐ凪を見据えていた。愛に満ちた表情で、まるで最後に焼き付けるようにしながら。


「何だか似てきたのかな」
「え?」
「充希が、明日馬くんに。顔とかじゃないんだけど、何だろ、雰囲気かな。明日馬くんが帰ってきたのかと思ったよ」


 そうだよ。明日馬は帰ってきたんだよ。喉まで出かけた言葉を押し込める。凪の言葉は嬉しく、そして哀しく響く。


「そんなことあるわけないのにねえ。不思議だね、血なんか、繋がってないのにね………」


 隣の明日馬が顔を覆う。小さく嗚咽が漏れた。見えないけどここにいるんだ。見えないけど、やっぱわかんのかな。何を言っても届かないからと、持ち前の潔さでとうに諦めていた明日馬が口を開き、祈るように呟いた。


「幸せであれ」


 一等愛したあの人が、一等幸せであればいい。例えばそこに、もう自分がいなくても。


 それは間違いようもなく、愛の言葉だった。




 家路を二人で並んで歩く。明日馬にかけたい言葉はもう何もなかった。明日馬の願いを叶えるためだったのに、どこか俺の方が晴れやかな気持ちであるようにすら思う。言葉なく歩きながら、束の間二人で暮らしたマンションが見えた時、明日馬の足が止まった。


終わったんだなあ。不思議なくらいあっさりとそう思えた。


「じゃあ俺はここで」
「…………そんな、飲み会終わりのテンションあるかよ」
「長話するほど離れ難くなるだろ」


 いつだってこの男はさらりとそんなことを言う。たかが俺如きにね、ハイハイ。と、そんな言葉を今まで幾つも流してきた。しかし今は、俺だって、この人の弟として、それなりに大事にされていたんだ。たったそれだけのことを認めて受け入れるのに、途方もなく時間がかかってしまった。


「くっそー、これから凪の旦那になるかもしれん男が羨ましい」


 羨ましくて悔しい。何で俺、死んだかなー。明日馬は最後まで凪の話しかしない。そのことが悔しくてそれでいて嬉しい。凪のことを好きな明日馬が好きだったと、そんな綺麗事は言えなかった。何で俺じゃ駄目だったんだろうと、眠れない夜をいくつも過ごした。


 死んでから、気付くことがあるんだ。失くしてから知る、淡く切ない光があるんだ。


 「明日馬。…………生まれ変わったら、今度は俺に惚れてよ」


 凪がそうしているみたいに、俺も明日馬を愛してみたかった。明日馬に愛されてみたかったよ。明日馬は絶対に笑うから言わねーけど。


 俺の言葉に、明日馬はほんの少しだけ驚いたような表情を見せて言う。


 「努力するわ」


 …………ないな。これ、俺ルート、ないな。そう思ったけど、俺は一言、待ってる。と告げる。またな、と手を振る俺に、明日馬も手を振り返す。またな、が、また明日。ではないことは、俺も明日馬も、知っている。


 「ありがとな、充希。…………じゃあ」


 バイバイ。


 明日馬の姿がふっと消える。あとにはキラキラした粒が、まるで慰めのように舞っていて、わかっていたのに俺はしばらく動けなかった。
 



「みつくん、だっこ」

「いーよ。ほら、おいで」


 その後、凪の妊娠が分かって、まるで生まれ変わりのような、明日馬に瓜二つの子供が生まれて・・・。そんな奇跡は起こらない。抱き上げた子どもは姉のことをママと呼び、その姉の後ろには明日馬より背の高い男性が、二人を見守るように立っている。


 奇跡だと言うのなら、あの日々こそが奇跡だ。明日馬が消えるまでのあのたった数十日間が。


 七年が経って、姉はとても幸せそうに見える。明日馬はきっとわかっていた。だから明日馬は、姉には見えなかった。この幸せを掴み取らせたかったから。


 俺の幸せはガン無視かい。凪以外の事象はどうでもいいと言わんばかりの明日馬の身勝手を、七年経っても未だに思い出しては、俺はくすりと笑ってしまう。



 そうして思い出になっていく。輪郭がぼやけていくのがわかる。俺にとっても凪にとっても、かつて確かに在った、愛しい誰かの、幸せで、暖かくて、おぼろげな記憶になる。



 「充希。行こっか」



 凪が俺の名前を呼ぶ。他の二人もにこやかに、俺の来るのを待っている。墓前から離れた刹那、風が吹いて活けたばかりの花が揺れた。


「幸せであれ」。もう忘れたはずの声が聞こえる。


 幸せであれ。………他でもないお前が言うか?どっかの誰かが俺にだけ見えたせいで、当分幸せになれそうにないけど。そう心で悪態を吐きながらも、明日馬の記憶は甘く深く、俺の心に遺り続ける。
 






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信じられる?これ8月中にあげる予定だったんだよ。

もう短編の新しいストックないから半年くらい書けないな。昔のサイトから引っ張ってくるかーどうせ一ヶ所にまとめたいし。

タイトル、某ジャニなので追々変えよーーーと。

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