愛の降る季節


 この人が雨を連れてきたんだ。

教壇に立つあの人を初めて見た時、そう思った。

きっとこの人が、雨の季節を呼び寄せたのだと。



「弥永です。よろしくお願いします」



 地方のとある女子校への、季節外れの着任。弥永という先生は、進級早々病気で入院した担任の代わりにやって来た。短く自己紹介をした弥永先生は、一見すると地味な人だった。年代は二十代後半ぐらいだろうか。肩の上で切り揃えた髪に、白とグレーで固めた衣服。それでも白い頬はほんのりと色づき、よく通る声が漏れる唇がめまいがするほど紅く、隠しきれない美しさに皆が、ほう。と息を飲む。

 急に現れた浮世離れした美しい教師に、クラスの喧騒が鳴り止んだ。視線を一身に受けた弥永先生が、あのー。と気の抜けた声で言った。

「・・・・授業、始めてい?」

 不思議なことに弥永先生はその一言でクラスのほとんどの心を掴んでしまった。緊張の糸が緩んだクラスはまた騒ぎ出す。今度の中心は弥永先生だ。


「はい、じゃあ教科書二十三ページ」

「質問!センセー彼氏いる?」

「めっちゃ美人じゃない?つか何歳?」

「授業するって言ってんでしょうが!」


 やりとりにクラスがどっと湧く。新しい、綺麗な先生に、これから楽しくなるような予感が教室に充満していた。


 それなのにどうしてだろう。浮き足立つ教室の片隅で、私は泣きたかった。

 初めて会った人だ。だけど、やっと会えた、と思った。私、この人に、ずっと会いたかった。そう思った。


 目を離せないでいると、先生と視線が絡まった。目尻だけで微笑まれたような気がして、尚更目が離せない。

 隣のユキに「さつき?」と声をかけられてハッとする。ごめん、大丈夫、と空返事をしながら、視線を窓の外へ逸らした。外では霧のような雨が降っている。

 この雨の日の、どこか自己陶酔したような、訳もなく泣き喚きたかった気持ちを、私は今もうまく言葉にできない。 



 先生が来てしばらくは、別のクラスから見物人がくるほどの盛り上がりを見せた。先生はそのどれにも反応を見せず、淡々と授業を進める。先生の授業はわかりやすく、何事も興味深いことのように聞こえた。雑談を交えながら進む授業は、先生が来て一週間で他のクラスに追いついた。

「先生は、何で先生になろうと思ったの?」

 誰かが授業の合間に聞いた。二年生になって、クラスの中にもちらほらと進路を考え始める生徒が出てきた頃だった。

「公務員だからね」

「ウソー。夢、ねー!」

「上等上等。夢のない大人で世界は回ってんの」

 夢だけじゃ食べてけないからね。と先生は言った。弥永先生は、自由とか未来とかを無責任に語るようなことはせず、ただ淡々と現実を語った。ただ現実が、厳しく辛いものであると言うのではなくて、良いことだってある。だけど辛いこともある。現実だから。と言う。生徒に対して熱いところも冷たいところもない、平熱のような人だった。私たちにはそれが、嘘のない大人の姿に見えたんだ。

「授業戻るよー。ケータイしまってね」

 弥永先生は教科書を読みながら机と机の間を歩く。コラ。と言って授業中は禁止されているスマホを触っていた子の頭をコツンと小突く。彼氏にLINEだけ返させて!という女子高育ちの切実に、教室からクスクスと笑いが漏れる。

「知るかそんなもの。文通しなさい文通。内職なら見逃してやらんでもない」

 他校だよ、渡すまでにめちゃくちゃ時間かかるじゃん、とごねるその子の横を通り過ぎて、弥永先生は言う。スマホを没収されなかったその子はラッキーだ。

「そうだよ、アホほど時間かかるよ。会えない苦労をしてみなさい。・・・会いたい人に、会いたいと思ってすぐ会えるのって、奇跡だからね?」

 今度こそ授業戻るよ、他のクラスに追いつくの、大変なんだよ。そう言って先生は教科書を読み始めた。教室も授業の雰囲気に戻っていく。教科書四十二ページ、奈良時代、当時の政権は・・・。よく通る声を聞きながら、私はぎゅっと拳をつくる。先生が会いたい人は誰なんだろう。私が、私が会いたい人は。


「芥科さん」 

 先生が着任したその日の放課後、部活に向かうユキと玄関先で別れたところで声をかけられた。外は雨が降っていて、買ったばかりの折り畳み傘を握りしめる。家までは歩いて五分ほどで、雨の日でも、傘があれば通おうと踏み出せる距離だった。

 振り返ると弥永先生がちょいちょいと手招きしている。からしな、という初見では間違えられることの多い名字を、一発で読み当てられたことが嬉しかった。

「今日、ちょっと時間ある?手伝って欲しくて」

 ちらりと時計を見て、少しなら。と了承した。少し時間をもらっておばあちゃんに電話をかける。おばあちゃんへの私からの連絡は、だいたいが電話だ。声を聴かないと不安になってしまうから。出ないな、と思いメールボックスを開くと、映画を観にいくので二時間ほど電話に出られない旨が届いていた。夕飯までに戻るね。とメールを打って、弥永先生が指定した準備室の扉を開けた。埃っぽい部屋のソファに、弥永先生が座っている。テーブルに置かれた紅茶の良い匂いがする。

「こっちおいで」

 それから週に数回、先生のお手伝い。をするのが日課になった。二人の時の先生はよく喋った。口下手な私は、先生の話にくすくす笑って、たまに自分の話をぽつりと零す。仲の良い姉妹がいたらこんな感じかなと思う。先生との時間は居心地が良い。準備室は雨の音が響くけれど、私たちの話し声で気にならなかった。

 もう随分と日が長いのに、先生は毎回、送ろうか?と律儀に聞く。その度に私は、大丈夫です。家まですごく近いから。と断るのだった。他の子に見つかるのが怖い。女子校だからこそ、変な噂が立つかもしれない。そうしたら先生はいつもみたいに、「何も関係ない」と小さく笑うだろう。それを聞くのが怖かった。

 先生はそんなわたしに気づいているのか、それでも何も触れずに、仕方ないわたしに目を細める。

「先生の家も、高校からすごく近かったの。書くのが生業の母で、放っておいたらご飯も食べないわ、寝もしないわ。だから昼休みになったら毎回家に帰って、おーい、生きてる?って確認しに行ってた」

 反動で娘は安定目指して教職とったけど、結局母の血が濃いのね。非常勤でぶらぶらしてますと。先生の言葉に私はアハハ、と笑いながら、もう誰もいない廊下を二人で歩く。すらりとした先生の隣に並ぶと、私はとても幼く思える。

「母と私の二人暮らしでね。自然と家事は私の仕事になったんだけど。料理だけは母のが上手でね・・・だんだん作るの嫌になっちゃって。今日はお母さんが作ってよ、いやお母さんはあんたのご飯が食べたい。って、二人して押しつけあって意地はって、生野菜。以上。の日が三日続くっていう・・・」

「あはは(笑)」

 先生が自分の昔話をしてくれるのが嬉しかった。高校生の弥永先生、どんな感じだったんだろう。高嶺の花だったかな。でも意外とざっくばらんな人だから、友達も多かったのかもしれない。母と自分の二人暮らしだと先生は言った。お父さんは、いないんですか。幼い疑問を飲み込んで笑う。

「お母様と仲が良いんですね」

 先生の表情が一瞬止まる。玄関はもうすぐそこだった。先生はいつもここまではせめてと、帰る私を見届ける。校門を出て見えなくなる私の背中をずっと見ていることを、私は知っている。

「仲良かった、かな。随分前に亡くなってるの。・・・ごめん、暗い話になっちゃったね」

 外は雨が降り出していた。雨音が響いて、心臓がきゅっと縮まる。でも、そんなことよりも、後悔で胸が痛い。

「そんな顔しないの。(笑)・・・傘、持ってる?」

 折り畳み傘を見せたけれど、強まっている雨足が不安だった。先生は玄関脇の傘立てから、一本を取り出して差し出す。若草色の綺麗な傘だった。

「私は車だから、これ使って。それとも車で送ろうか?」

 うまく断れずに傘を受け取ると、先生は優しく笑った。気をつけてね、と私を見送る。防ぎ切れない雨粒が、セーラー服に染み込んでくる。唇をぎゅっと噛んで耐えながら家路を急いだ。先生はやっぱり、見えなくなるまで私の姿を見届けているようだった。





 家に帰ると玄関までおばあちゃんがとてとてと出迎えてくれて、濡れている私を、あらあら。と浴室に押し込む。湯船に張られたお湯がじんわりと沁みて、ようやく体が解けた。

「今日はハンバーグにしたのよ」

 お風呂を終えて出ると食卓には夕飯が並んでいた。おばあちゃんは若々しい。今日はお友達と同じ映画の二回目を観に行っただとか、その帰りに寄った喫茶店でコーヒー豆を買ってきただとか、そんなおばあちゃんの一日を私はうんうんと聞く。おばあちゃんが若々しいのは、幾つになっても自分の好きな人たちと自分の好きなことをしているからかな、と思う。

「最近、学校でいいことでも、あった?」

「わかるの?」

「わかるわよう」 

 言葉にできないほど辛い過去を持ちながら、ウフフ。と笑えるおばあちゃんは、どこか弥永先生に被って見える。

 食後のコーヒーを飲みながら、私も、新しい先生が来たことや、今朝もユキの寝坊で遅刻ぎりぎりだったことなんかを話す。途切れないように、沈黙が訪れないように、他愛もない話をずっと続ける。我が家では滅多にテレビをつけない。その分、話しておかなきゃいけないような気がするからだ。

 二人の暮らしもいつか終わりがくる。その時に、もっと話しておけばよかった、あんな話もすればよかった、と後悔するのが怖いから。私はずっと後悔を抱えて生きていくのが怖い。


 二杯目のコーヒーに、砂糖を三杯入れる私におばあちゃんが目細める。


「甘党なのはあの子譲りかねえ」


 外の雨は随分と強くなっていて、古い家の屋根にごうごうと降り注ぐ。

 十年前のあの事故の日も、雨足の強い日だった。



 十年前の六月三十日。梅雨の真ん中のその日は、私の七歳の誕生日だった。買ったばかりのランドセルにおもちゃをぎゅうぎゅうに詰める。旅支度の幼さに、父は困ったように笑っていた。

「さつき、それ持ってくの?」

 おばあちゃんに見せる、と引かない私に父が最終的に折れた。既に満杯だったワンボックスカーのトランクに、無理に隙間を作っていた父の後ろ姿を思い出す。

 母の記憶はほとんどない。よそに恋人を作って出ていったという母に、父はドロドロした感情一つ見せなかった。覚えているのは父の腕の中の温かさと、さつき、と私を撫でる優しい声と大きな手。雑誌の編集者だった父は、多忙だったけれどその分目一杯愛してくれた。優しく、強い人だった。


 車で三時間の道のりを休みながら運転して、おばあちゃんの家には夕方頃に着く予定だった。ランドセルは結局トランクには収まらず、私が他に持ち込んだ荷物と共に後部座席に放り込まれた。寝ていていいよ、と父が言う。いつもと違ってパパの隣に座れるから、ずっと話してる。と言いながらそれでも瞼の降りていく私に、前を向いた父のおやすみ、という優しい声。私が最期に見たのは、父の横顔だった。


 大きな音がして、目が覚めたら視界が覆われていた。音のない父の胸。錆びた鉄の匂い。車内のはずなのに、吹き付ける雨が冷たかった。着せられた一張羅のワンピースが、雨と血に濡れていく。

 交通事故だった。雨でスリップしたダンプカーが、対向車線に突っ込んできたらしい。父は私を守るような体勢で亡くなったという。



 私たちは何度も後悔をして、意味がないと知りながら、祈った。何度も、何度も、何度も。百億回願って知る。死んだ人は戻ってこない。父にはもう、会えない。


 雨の日はどうしても体が強張る。雨と一緒に、血の匂いがする気がする。父の血の匂い。後悔が心身を飲んでいく。

 私を守って死んだ父に、男手ひとつで私を育ててくれた父に、お別れもありがとうも言えなかった。その事実が今も、私の心を深く刺す。





 中間試験の答案も全て返却され、それぞれの手元に個人順位も渡された。このクラスは全学年で一番日本史の平均が良かったです、おめでとう。担当科目にも関わらず、他人事のように弥永先生は言ったが、先生の態度とは裏腹に教室は沸いた。

 先生のおかげじゃん?と誰かが言う。ずっと先生が見てくれればいいのに。の声に、教室が同調した。もうすぐ、元の担任が戻ってくる。そうだ、先生はもうすぐいなくなるのだ。クラスの中心の子たちが、声を張って先生に話しかける。


「弥永先生、セキノ戻ってきたらどうすんの?日本史めっちゃ上がったし、ずっと弥永先生がいいんだけど」

「それな。セキノ、キモいし。(笑)スカート丈ばっか見てセクハラだっつの」

「わかる。肝臓やったんだけ?酒ばっか飲みすぎだよね、そのまま死ねば良かったのに。(笑)」

「それなー。(笑)」


 生徒から、好かれているとは言えないセキノ先生。子どもが大人を詰る声。

 よくある光景。よくある会話。だけど私はいつも、泣きたい気持ちでそれを聞く。




「あんたたち、本当に馬鹿なのね」



 先生の冷たい声が響いた。教室の空気が凍る。平熱のようなこの人が、初めてその温度を見せた。



「・・・え、先生、怒ってんの?冗談だよ?」

 


 焦ったような弁解の声に、先生は薄く笑って言う。



「へえ、冗談。だったら私も冗談で言うわ。・・・あんたたちが、いっぺん死んでみたら?」




 教壇から、一歩も動かず。でも先生の視線が、私たちを鋭く射抜く。弥永先生は、怒鳴っているわけではなかった。でもその声に、その視線に、静かに怒る大人の哀しみと、怒りを見る。



「いっぺん死んでみて、親の声も聞けない、友達とも話せない、あーやっぱ死ぬってきついな。無理だわ。と思ってみたら?神様やっぱ今のナシですーって頼んでみたら?・・・無理だけどね。何度も何度も、百億回祈っても。死ぬことに、祈りも、救いも、何もないよ」




 随分前に亡くなってる。そう言ったあの日の弥永先生を思い出した。ああこの声は、何度も何度も、願った人の声だなと思う。後悔を願いを繰り返して来た人の、それでも今、両足で踏ん張って生きている人の、哀しく強い声。



「死ねとか死ぬとか軽々しく言うくせに、覚悟なんて一つもないでしょう」



 痛いくらい静かになる教室。

 開いている窓からは、雨の前の匂いがする。もうすぐ雨が降る。雨の季節がやってくる。

 先生は、いつもの調子で教科書のページを指定した。静かな怒りで満ちた教室に、せっつかれたようにページを捲る音が響く。


 私は泣きたい気持ちでそれを聞いていた。

 先生の怒りはまるで嘆きみたいだった。


 先生、私。私はどうしても、乗り越えられない。でもどうしたら、先生みたいに強くなれるんだろう?




「・・・てか、弥永センセがあんな怒ると思ってなかった、(笑)」

「んね、冗談だって言ったのにね(笑)」

 放課後の教室は、まだ少しぎこちない雰囲気が漂っていた。真っ向から大人に怒られた経験がない私たちは、先生の怒りをうまく消化できない。

「先生、お母さん亡くしてるらしいよ、十年くらい前に。それで怒ったんじゃん?」

「えーでも、十年前でしょ。流石に忘れるって」

 空回りした声が教室に響く。笑い話にすることで、癒えるショックもあるんだろう。彼らは彼らで、大人に、真剣に叱られたという事実を飲み込むのに必死なのだろう。

 先生は忘れられたのだろうか。お母さまの話を、まるで大切で、綺麗な思い出のように聞かせた先生を思い出す。私はまだできない。お父さんのことを、笑って思い出せる日なんて、きっと一生こない。先生は?先生は、忘れたから、強く笑っていられるの?

 足をとめてしまったわたしを、ユキが心配そうに見ている。雨の日、また知らない間に大事な人が死んでしまったらどうしようと、おばあちゃんから離れられなかったわたしの手を、毎日引いてくれたユキ。もしわたしが怒るのなら、わたしのために止めてくれただろう。私はユキにへらりと笑う。


「大丈夫だよ、ごめんね 」

「でも痕になっちゃう、」


 ユキが心配そうに私のかたく結んだ手を解いていく。彼女たちの会話中、ずっと手を握り締めていたことに初めて気がついた。あたたかい手。何度も私を連れ出してくれた手。

 私は弱い。弥永先生みたいにも、ユキみたいにも、おばあちゃんみたいにもなれない。


 私を気遣うユキを部活に送り出し、玄関へと向かう。曇り空だったがまだ雨は降り出していなかった。


「芥科さん、ちょっとだけ、いい?」


 何となく、今日は呼び出されるような気がしていた。今日は本当のお手伝いでごめんね (笑)と笑う先生に、私もくすくすと笑い返す。まるで何事もなかったかのように、私と先生は話した。人を亡くす痛みを私たちは知っている。でも私は、先生の傷がどれだけ深く、そしてまだ膿んでいるのかを知らない。別に知らなくたってよかった。でも、隣で笑う先生は、強がっても、背伸びもしていなくて、お母さんを亡くしたというこの人が、こんなに強く美しい理由を、私は知りたくなったんだ。


「先生。・・・私ね、おばあちゃんと二人暮らしなんです」

「え?」

「幼い頃、父を事故で亡くして、それからずっと。・・・ねえ、先生」


 私は、父のことを忘れるべきですか。忘れたら強くなれますか。忘れたら、先生みたいに、凛と生きていけますか。

 口を開こうとした瞬間、私のスマホに着信があった。おばあちゃんの番号だ。私のスマホに着信がくる事は、ほとんどない。嫌な予感がした。先生を一瞥すると、仕草だけで出てよいと言うので、すぐに出る。音量が大きかったのか、おそらくおばあちゃんの友達の声が、耳をつんざいた。


『____________」



 いつか。

 いつかこんな日が来ると、覚悟をしていたつもりだ。

 だけどいざ聞くと、足元が沈んでいくような感覚がした。ああ、またあの日の雨と血の匂い。また一人になる。あの日の雨に、からだが凍えていく。


「おばあちゃんが・・・倒れた。どうしよう」

 

 弥永先生が私の腕をがっと掴んだ。電話の声も聞こえていたのかもしれない。

 そのまま真っ直ぐに私を見つめて、「病院に行こう」と言った。手を引かれるがまま、まだ人の多い校舎をかき分けていく。

 私は固まる足を必死に動かして先生についていった。何人もの生徒が私たちを振り返った。周りの目に晒されながら、為されるがままに車に乗る。先生がアクセルを踏み込む。


 大丈夫、大丈夫、と唱える心が、激しく脈打った。車はどんどんと街を進んでいき、降り出した雨に世界が滲み始める。連れ出してくれたことに感謝をした。あのまま立ち竦んだままだったら、と考えてぞっとする。もしかしたら、このまま、おばあちゃんと。

 ああまた、雨の季節が、大事な人を連れていく。


 先生が、ハンドルを握って前を向いたまま言った。祈るような声だった。


「死に、祈りも救いも、ないけど。・・・でもおばあさまはまだ生きてる」

 

 死に綺麗事なんか一つもないけど、最後の最後に、母の生を諦めたことを、私はずっと後悔してる。


 ひぃ、と喉から絞り出すように嗚咽が漏れた。

 お願いします、神様。もう祈っても無駄だと思っていた神様に、もう一度祈る。おばあちゃんを連れて行かないで。

 ぴんと張った糸のような空気の満ちる車内を、着信音が掻き裂いた。スマホの画面に知らない番号が映る。震えている指を滑らせて出ると、隣町の総合病院を名乗る人の明るい声が届いた。

『おばあさま、脱水症状で運ばれたんですけどね。意識も取り戻されましたし、命に別状はありませんから、あまり焦らずお越しくださいね』

 ほんの少しだけ力が抜けた。スピーカーの音声を聞いていた先生が、心なしかアクセルを緩める。

 車は思ったよりゆったりとしたスピードで、病院へと向かっていく。いつの間にか本降りになっていた雨をかき分けて、車通りの少ない道を滑るように走っていく。

 先生は、良かったね、とも、何とも言わなかった。顔を見るまで完全に安心できない私の心をわかっているようだと思ったし、こちら側の、置いていかれる立場を経験した人なのだとも思った。

 運転席の先生は、ただ真っ直ぐ前を見つめていた。あの日の父の横顔にその姿が重なる。

 病院で受付を済ませると、薄暗い廊下の前の椅子に案内された。少し離れた病室で、おばあちゃんの検査が行われている。十年前のあの雨の日に運び込まれたのもこの病院だったと、ふと思い出した。あの日の雨が今もまだ、私に降り注いでいる。

「先生」

 緊張の抜けていない声。いつまた悪い報せを聞かされるかと考えて、怖かった。電源を切ったスマホを持つ手が震える。

「私、昔も。何度も、何度も、祈ったことがあります。神様、お父さんを返してくださいって。でも、当たり前だよね。お父さんは帰ってこなかった」

 あの雨の日を何度も思い出しては、苦しくて死にそうになる。横目で盗み見た先生の表情は変わらなかった。その横顔に憧れた。そうだ私は、初めて見たあの日からずっと羨ましかったのだ。きっと悲しい過去を湛えながら、同じように止まない雨を受けながら、凛と強いこの人のことが。


「どうしたら先生みたいに、笑って思い出せるようになるの・・・」


 おばあちゃんの一日の話を聞きながら。おばあちゃんと明日の話をしながら。私はずっと先を見てる。いつか来るお別れに心が壊れないように、二度と後悔で動けない夜が訪れないように。

 お父さんの話をするべきだ、と思う。おばあちゃんにはもう、息子の話をできる相手は私しかいないのだ。それでも私は、今もお父さんの話をすることができない。お父さんが死んだ過去を、過去にすることができない。 

 私はこれまでもこれからも、大事な人の死を乗り越えられないまま、将来一人になる自分だけを哀れんでいる。


 私の声は病院の廊下にか細く落ちた。先生がスマホを握ったままの私の手に手を重ねる。


「十年前の六月三十日」



 先生の目は赤く充血していて、もう一つ何かが起きれば溢れてしまう。と思った。ぎゅう、と握られた手に力がこもる。先生の手はじんわりと暖かくて、私の手が凍えていたことを知る。

 


「母は交通事故で亡くなったの。この街の県境で、雨でスリップしたダンプカーに突っ込まれて」


「・・・待って、先生。その事故って、」



 先生の目が、真っ直ぐに私に向く。



「あなたのお父さんが亡くなった事故。・・・私と母も、その場所にいたの」



 その時、少し離れた病室の扉が開いた。先生は私の手をとったまま立ち上がった。続きはおばあさまと一緒の時に話すから。と言った先生に、私は言葉を失くしたままついていく。



「弥永、という名字を聞いた時にね。・・・どこかで聞いたことのある名前だな、と思ったんですよ」


 顔を見た瞬間泣きついてしまった私を、おばあちゃんがごめんねえ、と撫でる。少し下がったところに立っている先生がお辞儀をして、名前を名乗った。おばあちゃんは微笑んだまま、あなたと話したいことがありました。と言った。

 座るのを促された先生は、私のそばの椅子に座る。病院特有の匂いが、今更のようにツンと鼻を刺す。

 おばあちゃんは、いつも肌身離さず持っている手帳を、病室の棚から取り出すよう言った。取り出したそれを、おばあちゃんがぺらぺらと捲る。どのページにも何かがぎっしり書いてあるそれを、おばあちゃんはずっと取り替えようとしなかった。おばあちゃんはいつも、この古い手帳と、代替わりしていく新しい手帳の二冊を、いつも持ち歩いているのだった。

 ページを捲る手が止まる。私たちに見せたのは、新聞の切り抜きの貼ってあるページだった。ところどころ文字がかすれているその記事は、お父さんが亡くなったあの事故のものだった。

 その記事のある部分をおばあちゃんが指差す。


「これが、貴女ね?」


『芥科 さつきちゃん(六)意識不明の重体』私の名前だ。目に入る字面に背筋が凍る。

『この事故で死亡したのは、芥科 一郎さん(三十七)、弥永 美津子さん(三十五)、弥永 未来さん(十六)は意識不明の重体』』・・・・・・・。


「この事故のこと、私の母と、芥科 一郎さん・・・貴女の息子で、さつきさんの父である彼のこと、ずっと、お話しなければと思っていました」


 長い話になると、先生はおばあちゃんを気遣った。倒れてすぐ聞かせる話ではないかもしれないと。そんな先生に、おばあちゃんは千円札を一枚握らせて、私と先生の分の飲み物を買ってくるように言った。


「長くても構いません。貴女の知っている、あの子のことを教えてください」


 先生はお金を返そうとしたが、おばあちゃんは柔らかくしかし頑なに受け取らなかった。おばあちゃんに対して先生はタジタジで、こんな場面なのに微笑ましくて笑ってしまう。先生の子どものようなところを、初めて見たな、と思った。

 結局先生が三つの飲み物を買ってきて、それぞれが一口飲んだあと、先生はおもむろに口を開いた。紡がれていくのは、あの雨の季節の話だ。




 「若くに出産した母は、一人でわたしを育ててくれました」


 作家だった母は、ずっと家で執筆しているかと思えば何日も家を空けて、どこにいたかと問えば、取材でエジプトにいた。と言うような、突拍子もない女性でした。

 どこか浮世離れした人で、一般的な母親の姿とは遠く離れていたのかもしれません。それでもわたしを目一杯愛してくれました。迎えにきてくれる時は、寂しかったあと母の方が泣きながら抱きしめてくれて、わたしはその瞬間のためだけに留守番も嫌いではなかったんです。

 美人な母は、いつか再婚するのだろうと。その時にはもう、母の性格にはかなり耐性が出来ていて、その時はエジプト人だろうが、地球の裏側に引っ越すことになろうが、仕方ない。と思えるだけになっていました。

 母から、好きな人ができた。と聞いたのは、わたしが十六歳の時のことです。


「母の言ったその方が、一郎さんです。こちらの覚悟など露知らず、母はまるで、初恋の少女のようで・・・」


 こうしろとかああしたらいいとか、どっちが子どもがわからないアドバイスをしたことを覚えています。見ているこっちが恥ずかしくなるような、もどかしい恋が実ってしばらくして、初めて会った一郎さんは、まだ十六歳のわたしにまるで大人にするように対等に接してくれました。

『僕たちは一度、娘に親がいなくなる経験をさせてしまった。・・・僕たちの結婚は、僕たちだけのものではないから』

 大人の事情を隠し立てせずに、そう話す一郎さんは、幼いわたしから見ても穏やかで、誠実で、素敵な人に見えました。隣で笑う母は幸せそうで、ただ、それだけでよかったのに。


 あの事故の日、わたしたちは二台の車に別れてN県へ向かいました。さつきちゃんに嫌われたらどうしよう、そんな心配する母と二人、前の一郎さんの運転する車について行って。わたしは、新しい家族が増えることに、どこかソワソワしていて。


「あの旅行は、母と、一郎さんが。・・・貴女とさつきさんに、大事な人が増えたことを、報告するための、旅行だったんです・・・」


 あの事故の瞬間を、覚えています。前の一郎さんの車に突っ込んだダンプカーが、そのままの勢いでこっちの車に襲ってきました。

 わたしは事故のあとも意識がありました。車からなんとか脱出して、まだ車に残る母を救出しようとしたけれど、わたしの力では。母は首を横に振りました。きっともうわかっていたんです。一郎さんのことを尋ねた母にわたしは、わからない、としか言えず。

 そう、と母は言って、わたしに一度、ごめんね、と。わたしは、母の胸の動きが止まるのを、ぼうっと見ていました。


「ハッとしたのは、もう一台の車から泣き声が聞こえたからです」


 お父さん、お父さん、と泣き叫ぶ声。痛いのは、折れた足か、母を喪った心か。足を引きずって、一郎さんの車の方へ行くと、一郎さんはまだ息がありました。


「一郎さんが庇うようにしていたのが、芥科さん・・・さつきさんです」


 必死で救出した彼女をわたしが腕に抱いたのを、一郎さんのやさしい目が追って。一郎さんは、「美津子さんは」と母の名前を呼びました。事切れた母が鮮明に浮かんで、わたしは涙と雨でぐちゃぐちゃになりながら、首を振ることしかできず。一郎さんのまぶたが、「そうか」と、やわらかい音とともに降りたのを、ただ見つめて。


「『さつきを、よろしくお願いします』・・・これが、一郎さんの、最後の言葉です」


 その後意識を失って、運び込まれた病院を抜け出して参列した葬式で、妹になるはずだった少女の顔を、初めてちゃんと見ました。そして彼女が、母親だと思われる人の腕に抱かれているのも。

 いまここで、母の愛を伝えて何になる。それは彼女の健やかな環境を壊すことにならないか。ただの高校生だったわたしに、誰かを守る術などなく。

 母親の腕のなかで、すやすやと眠るあの子が、幸せになれるよう。あの雨の中、一度だけ抱きしめた幼い妹が、きっとこの哀しい出来事を乗り越えられるよう。そっと祈って、静かに式場を、出ました。


「赴任した高校で、芥科さんに会ったのは偶然です。珍しい苗字なので、すぐに目に入りました。名前を見て、ああ、やはりあの子かと・・・」


 十年前、たった一度抱きしめた、あの幼い子。成長した少女が、友人と談笑するのを見て心が安らいでくのがわかりました。あの時の傷が、少しでも癒えているように見えて。わたしの傷も、癒えていくように思えて。

 それでも教壇に立ち目が合った時、泣きそうな表情の彼女を見ました。あの時の雨が、まだ降り注いでいた。思わず声をかけた彼女は、わたしを覚えてはいませんでした。でも雨の日には泣きそうな表情で外を見つめるこの子を、わたしは。

 助けるとか守るとか、そんな綺麗なものではなかった。ただこの子が笑ってくれれば、世界はちょっとだけ優しいものであるような気がしたから。あの日の無力な自分を、誰も守れなかった自分を、抱き締められる気持ちに、なれたから。

 




 おばあちゃんははらはらと泣いていた。私の目からもぼろぼろと涙が溢れる。凄惨な事故の中で、お互いを想って死んでいった二人の愛だけが、静謐で、唯一の救いのように思える。


「もっと早くお話しするべきでした。先延ばしにしている間に、さつきさんに、また一人になるかもと怖い思いをさせました。申し訳ありません」


 先生が私たちに向かって頭を下げる。先生と初めて会ってから、一ヶ月と少しが経つ。その間、何度も準備室で足を運んだ。そうだ。先生が私に声をかける日は、決まって雨が降っていたんだ。


 きっと見守ってくれていたんだろう。

 雨音が気にならない準備室での時間。雨から守るように渡された傘と、車で送ってもらうのを何度も断った私を、見えなくなるまで見送った先生の優しいひとみ。

 まだあの日から動けない私を、雨から、あの雨の日から、守ってくれていたんですよね?なんて、自惚れ過ぎだと笑われてしまうだろうか。


 涙を拭いたおばあちゃんが、先生の両手を優しく握った。先生は驚いたように身を竦ませたけれど、おばあちゃんの皺だらけの手をじっと見つめた。


「貴女も、お辛かったでしょうに。・・・ありがとう、ありがとうございます・・・」


 先生が肩を震わせた。声も無く泣いた先生を見て、ああこの人は、ようやく泣けたのだな、と思った。


 忘れることが強いのか、忘れることが弱いのか。

 忘れないことが強いのか、忘れないことが弱いのか。 


 私にはまだ分からない。でも、お母さんの話を楽しそうにする先生を思い出した。教室で、静かな怒りを見せた先生を、思い出した。

 乗り越えたことも、まだ乗り越えられないことも、きっとたくさんあるのだろう。ただただ強く美しい人だと思っていたけれど、優しい人だな、と思った。悲しいことも、きっと嬉しいこともたくさんあって、その全てで構成されている、弥永未来という人間が、私はとても好きだ。そう思った。 

 先生や、おばあちゃんや、ユキみたいに、強くなりたかった。でも私は今、優しくなりたい。私の周りのあたたかい人たちのように、誰かにとって一等優しい人間でありたい。


 先生の手を握ったおばあちゃんの手に私の手を重ねる。過去に同じ痛みを負った私たちはまた同じ空のもとにいる。外の雨はずいぶんやわらかくなっていた。あの日地に降った雨が、空へ還り、また私たちのもとへ、今度はやさしく降り注いでいる。


 


 次の日学校へ行くと、昨日のことはちょっとした騒ぎになっていた。田舎の女子校という閉鎖的な空間で、根も葉もない噂話と悪意ある視線が、私を傷つけることもあった。


「さーつきっ」

「ユキ」

「明日おうちにお邪魔していい?おばあちゃんのパウンドケーキ食べたいな」


 でも真実は一つだ。わかってくれる人が、少しだけいてくれるならそれでいい。私は前を向いていればいい。自分でも不思議なくらい強くそう思えた。

 軽率だったと謝る先生に私は首を振る。あの時手を引いてくれた先生が、どれほど心強かったか。きっと先生も、たくさんのことを天秤にかけて動いたのだ。

 

 

 わたし達の担任にはセキノ先生が戻ってきて、またつまらない授業を行なっている。弥永先生は、授業の評判から、継続した雇用を申し出されていたというが、今回の件で見送りになったという。


「でもいいの。元からこれで辞めようと思ってたから」


 やっぱりあんまり教師向いていないの、わたし。と先生は笑ったが、隣町の進学塾の特進コースで今は働いている。またあの不思議と興味をそそる授業を、今度はもっと少人数の教室で行っているのだろう。向いていないどころか天職だよね、と言った私に、そお?と先生は笑った。


 先生からもらった美津子さんの写真を、仏壇のお父さんの隣に並べる。やっと一緒になれた二人を見て、顔が綻んだ。お父さん、こんなに綺麗な恋人がいたの?知らなかったな、言ってくれればよかったのに。素敵なお姉ちゃんができるよ、よかったねって。


「さつきちゃん、お夕飯の準備手伝ってくれる?」


 仏壇の前にいる私におばあちゃんが声をかけた。返事をして向かった台所では、先生が辿々しくじゃがいもを剥いている。  

 そうそう、うまいじゃない、と笑うおばあちゃんは、先生が初めて夕飯を食べにきた時、義娘が出来たらこんな風だったのね。と言って少しだけ泣いた。失った溝を埋めるかのような時間を、私たちは過ごしている。


 夕飯の肉じゃががほこほことあたたかい味がした。いいもの食べてるねってお母さんが羨ましがるなあ、と先生が笑う。開け放たれた縁側から、雨が降る前の風が入ってくる。外はまだ明るい。もう夏だ。長かった梅雨が終わるのだ。


「先生?」

「なあに?」

「雨の季節は、悲しいだけじゃないよね。

あの日は、私と先生が、初めて出会った日だよね」


 十年前のあの雨の日。大切な人を亡くした日。大切な人に出会えた日。

 

 そうね、と先生は微笑んで、もう先生じゃないよ、と照れ臭そうに言った。そうねえ、少し他人行儀過ぎるわねえ。と私の隣でおばあちゃんが笑う。

 何て呼ぼう、弥永さん?未来さん?この人を、お義姉ちゃんと呼んだかもしれない未来にまだ少し胸は痛む。痛むけれど。

 傷ついたこの人の、哀しみと苦しみと寂しさを、全部抱き締めるやさしさが欲しい。私は、先生みたいに、優しくありたい。

 私はまだ手探りだけれど、この愛の季節を繰り返していく。まだ明るい空からしとしとと雨が降りはじめる。まるで梅雨の終わりを名残惜しむかのようだった。きっと、あの日降った雨が、地中に沈み、空へ還り、今度は幸せの形をして私たちの元へ戻ってくる。

 私はもう、雨の日に身体が強張ることのない自分に気づいているのだった。






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梅雨終わるまでにとりあえずあげられたから100点です❕あげることが目標だったので載せた後ちょくちょく修正する(言い分があまりにもひどい)

 

  




 

 


 

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