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泥の研究

泥の研究と書かれた、表札とも看板ともつかない木の板をぶら下げた門柱の脇を抜けて背の高い雑草の生い茂る庭のおぼつかない石畳をたどると、草をかき分けかき分けして随分歩いた頃、やっと勝手口らしき古びれたドアの前に着いた。アルミか何かでできたドアノブにびっしりとまだら模様の錆が広がっているのを見て、素手で触るのが躊躇われた。

玄関のタイルをつま先で叩くようにして靴底の溝に詰まった土塊を落とすと雑草の潰れた青臭い臭いが立った。空気の停滞する廊下にぶら下がった裸の電球は壁際のスイッチを何度かパチパチと入り切りしても点く気配は無く、うっすらとした暗がりの廊下には昼も夜も無い静かな停滞感だけが横たわっていた。

板敷きの上がり框に揃えて並べてあったスリッパに履き替えて廊下を進む。外の梅の木に鳥がやってきたのか、何か言いたげな鳴き声が聞こえて来た。一歩ずつ歩を進めるたびに廊下の敷板はギシギシと音を立てた。トイレや洗面所と思しき何枚かのドアを通り過ぎる。スリッパが砂のような細かな埃を踏んで擦れた音が鳴った。

泥の研究と書かれた紙が額縁に入れられ、入ってきた襖の鴨居の上に飾られているのを、部屋に足を踏み入れてから振り向いてみて初めて目にした。その筆か何かのたくましい筆致を見ていると、床の間に掛けられた掛け軸が縁側から吹いてきた風に揺れて乾いた音を立てた。掛け軸に書かれた文字のようなそれを読むことはできなかった。しかし、そのシルエットに何か卑猥なニュアンスを感じてもいた。身体が熱くなるのを感じた。

静かな町に住む一人の録音技師の話を聞きつけてここまでやってきたというのに、その家を後にするまでの数十分の間に何か収穫らしい収穫も何も無いまま、泥の研究という正体不明のテーマについての詳しい情報や知識を得ることはできなかった。あの町には熱い風が吹く。あの録音技師もその熱波にやられていたのかもしれない。振り返ると背の高い雑草やツタに包まれて半ば崩れ落ちかけた木造の古家が静かにその最期を待っているだけだった。

ふと目を覚まして身体を起こすと妙に頭が痛い気がした。額の汗を拭って立ち上がる。窓の外は黒い暗闇がどこまでも果てしなく続く見慣れた町の景色だった。グラグラと町全体が揺れているようなおぼつかない足取りでシンクに放置されたグラスに水を汲んだ。額に汗が戻ってきて反対の手でまた拭ってからグラスの水を飲み干した。机の上に散らばったメモ書きの紙には泥の研究とだけ書いてある。紛れもないその筆跡を見て、遠くから古びたレコードの音が聞こえてくるように何かを思い出した。

玄関のドアを開けると見知らぬ庭が広がっていた。目につく辺りの風景も何もかもが見知った景色と異なっていた。背の高い雑草を踏み倒すように見知らぬ庭を何歩か進み振り返って見ると、今にも崩れ落ちそうな木造の古家だった。ほとんど土に埋もれかけたおぼつかない石畳の上をおぼろげな足取りで草をかけ分けて進み、敷地の出口らしき門柱の側まで寄った。崩れかけの古家に似つかわしくないやや厳しい造りの石の門柱にもたれかかっていると割れるような頭痛に襲われた。

泥の研究を続けるうちに自分というものを見失っていっているような感慨が日に日に増していっているように思われた。手元のメモ書きの紙を一枚選んで取り上げてみても、そこには泥の研究と書かれているのみである。自分という存在感の喪失を意識していると緊張とも脱力ともない不安定な状態の中でただ風に揺れる背の高い雑草の内の一茎となったかのようだった。


「親の長生きはいつ頃から子の不幸になったのだろうか」
と、声が聞こえた。何も無い居間に空虚に響いている。

「それほど生き辛さを感じているなら、それはあなたにも何かしら問題があるのではないか」
と、返答してみたはいいが、居間には自分の他には誰も居ない。

「責任を負いたくないのは誰しもそうだろう。君だって例外ではないし、現に私の質問に答えるつもりの無いその態度がまさにそうだろう」
と、すぐに声は返ってきた。声の出処が分からないので、これ以上の会話にも多少の不安が付きまとう。

「その余裕の無さにこそ真の病理が潜んでいるとすれば、あなたの言うことを真剣に聞く意味もあるのかも知れない」
と、自分でも意外なほどに自分にも余裕が無いことに気が付いた。

「余裕の無さ?」
と、鼻で笑ったような声が聞こえた。

「ん? どうした? 言い返す言葉が出てこないからオウム返しって」

「あぁ、ごめんごめん。さすがにブーメラン過ぎて笑ってしまったって感じなんだけど、キレさせちゃったかな? ごめんね?」

「ちょっと元々話してた話があなたからの返事が無いまま途切れちゃってるからこれ以上こっちから言うことは無いんだけど、あなたが楽しそうなんでそれはそれで良いのかな? これは」

「んー……」

「おっけー、十分楽しめたかな? もう終わりでいいかい?」

「はぁー……」

「お疲れっす」
と、なんとか勝てたのですぐに居間を後にして急いで自室に戻った。自室には相変わらずの万年床の煎餅布団が敷いてあり、その上に横たわると血が上った頭がミシミシと張り裂けそうな音を立てた。天井に貼り付けたメモ書きの紙を眺めて冷静な呼吸を取り戻すようにそこに書かれた文字を読んだ。
「泥の研究?」
と、思った。

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