抱いた想いの名前

鳥の声
眩しい昼の太陽が、暑いという訳でもなく、優しく光っている
よく手入れされた芝と木々の間に敷かれた石畳の道
すっかり使い慣れた松葉杖で体を支えながらその真ん中を歩くと、まだ春には遠いというのに、早めの花がちらほら見えた
入院なんて、一体いつ以来だっただろうか
傍のベンチに腰掛けて、大きな病棟を仰ぎ見る
勤務先の火災から四ヶ月と少し
全身を覆っていた包帯も随分少なくなり、今ではこうして歩き回れる程にまで回復した
火傷の跡もほとんど消え、医者の話では松葉杖ももうじき必要なくなるという
明日からは自宅療養、長かった病院生活もついに終わり、という訳だ
息を吸い、一つ嘆息をする
柄にもなくノスタルジックな気分だ
いっそ一言、それらしいことでも呟いてみようか
「まったく、人生って奴は―――」

「人生というのは、歩き回る影にすぎない」
独り言ちた言葉を遮る澄んだ声
少し驚いて顔を上げた途端、目元に何かが押し付けられ、目の前が真っ暗になる
「へたな役者。阿呆が語る物語」
視界の無い中、澄んだ声は言葉を続けた
ああ、見えなくても分かる
きっと今この声の主は、心底楽し気な表情をしているのだろう
とすれば、今僕がすべきことは――――

「……大声で怒るけれど、その実、何も意味することはない」
そう言葉を続けた僕は、両目を塞いでいた小さな手を掴んで下した
奪われた視界が取り返され、眩しい世界の中に眩しい笑みの少女が映る
どうやらテストには無事合格したらしい
「お見事。お兄さんも随分詳しくなったね」
「生憎僕の専属講師は、厳しいことで有名なんだ」
笑みを湛えた少女はゆったりとした振る舞いで隣に腰掛けると、傍に立てかけてあった松葉杖をちらりと見た
「明日退院なのにまだ杖を?」
「本当は杖なしでも歩けるんだけどね、ちょっとでも入院期間を引き延ばそうっていう、僕のささやかな反骨心さ」
「そんなこと言って、お医者様に聞かれたら今すぐにでも追い出されるかも知れないよ?」
「まさか。この時間ここには人が来ないんだろ?君がそう言ったんじゃないか」
違いないね、と、少女は僕が見ていたように病棟を仰ぎ見た
「それにしてもお兄さんは詩人だね、病院を見上げて、シェイクスピアだなんて」
「人生は何が起こるかわからない、って言おうとしたんだ。そしたら急に詩人さんが現れたものだから」
「謙遜しなくていいよ、まさかお兄さんがそんな俗っぽいことを言う筈ないのは知ってるから」
「それはまた随分と買いかぶられたものだ。精々化けの皮が剥がれないようにしなくちゃね」
ひょっとして、僕の病室を見てたの?と、いたずらっぽく少女が言うので、いいや僕の病室だ、と返しておいた

彼女は女性にしては珍しく、自身のことを僕という癖を持っていた
火災現場から搬送された後、僕はこの特別病棟という場所で日々を過ごしている
特に症状の重い患者の為に作られた建物で、彼女とはここで知り合った
彼女の病室は最上階、僕の病室は、彼女の病室の丁度真下にある
この少女はこう見えて酷く重い病にかかっているらしい、随分と長い間この病棟にいるようだった
実際彼女は十一、二歳程に見えるあどけない出で立ちをしているが、年は僕と一つしか変わらず、真っ白い肌は太陽の光をどれ程帯びても色付くことはしなかった
僕はもう二十四だ
彼女は一日の殆どを病室で安静に過ごし、一人で出歩くことも許されず、ベッドの上から窓の外を眺める毎日を過ごしている
聞いた話では、最上階には今自分しか入院していないということだったので、担当の医者や看護師以外には会うこともないのだろう
変わり映えのしない毎日に刺激を求めた彼女は、その結果二つの非日常への道を発見した
一つは真下の病室のベランダに毎晩手紙を投げ入れ、足下に暮らす僕とコミュニケーションを取ること
もう一つは、一通りの検査が終わり、点滴を受けるまで空いた時間中に、看護師の目を盗んで病室を抜け出し、人通りの少ない中庭に来ることだった
手紙でこの場所を聞いて以来、歩けるようになると僕は毎日のように足を運んだ
というのも、彼女へ僕の言葉を伝えるためには、手紙のやり取りではあまりに不十分であったからである
最上階にはベランダが無いため、彼女は僕に容易に手紙を投げてよこすことができた
しかし僕から彼女に手紙を渡すとなると、一旦ベランダに出て窓を仰ぎ、手紙を投げ入れる必要があった
ギブスまみれの体で仰け反るのは難しいし、なにより腕も折れていた僕にとってこの返信方法は実に厄介なものであり
結果手紙はいつも一方通行であった
仮に僕が手紙を投げ入れられたとしても、この文通は彼女の大切な秘密であったから、不用心に手紙を投げ入れたところを看護師に見られたりしないか心配だ、という思いもあった
実際彼女が窓を開けられるのは看護師が同じ病室の中にいるときだけであり、後から話を聞いた僕は心底胸を撫で下ろしたものだ
手紙にはその日に窓の外に見えたもの、看護師との談笑、読んだ本の感想、限られた箱庭で感じたあらゆることが綴られていた
何故最上階にベランダが無いのか、何故看護師がいるときにのみ窓の開錠が許されるのか
大方の予想はついていたので、詮索するようなことはしなかった
ただ彼女のこのささやかな楽しみを、絶対に守らなければならないという思いはあった
その為最初のうちの僕のコミュニケーションの仕方といえば、ベランダに出て空を眺めるふりをして、たまたま窓から顔をのぞかせることに成功した彼女にほんの少し会釈をする程度のものに止めていた
ところが当の彼女といえば、僕が思っていたようにセンチメンタルな訳でもなく、むしろ実に豪胆に、この庭内での密会を提案してきた猛者であった
愉快な話が好きで、よく笑い、立ち振る舞いも明るく、あまり人と関わるのが得意ではない僕でさえ、すぐに彼女とは打ち解けた
特にシェイクスピアを愛していた彼女は、僕が読み物が好きで、入院中の娯楽が少ないことを冗談めかして嘆いた翌日から、看護師に頼んで取り寄せた病室の蔵書をこっそり持ち出しては僕に渡し、読み終わる頃になると別のシェイクスピアを持ってきて先日の本と交換する、ということを習慣的に行うようになった
楽しそうに語る彼女に僕が拙い意見を二、三口にすると、丁寧にそれを評価し、最後は二人で笑いあう
細やかな昼の、一時間にも満たないひと時であったが、僕も彼女も、心からそれを楽しんだ

「あの手紙はさ」
しばらく黙って病棟を見ていた彼女が、僕の言葉に顔を向ける
僕らの会話は途切れることも多い
今のように黙って、二人別々に周りの景色を見ていたり、それでいて気が向けば、どちらからともなく話をしたり
だからといってそれが微妙な空気を作ることもなく、息苦しさを感じることもない
ただ言葉を並べることに必死になるよりも、沈黙を共有できる方が理想の関係ように思えた
「よく今まで秘密にできたね、今までの下の階の人間に、返事を投げ返されるようなことは無かったのかい?」
ふふふと笑って再び建物に向き直った彼女は、足で軽く伸びをすると言う
「最初の手紙の内容、お兄さん覚えてる?」
最初の手紙
もう何ヶ月も前のことだが、忘れる筈もない
「そっちこそ、僕が何を歌ったか、忘れたとは言わせないぜ」
しばらく素知らぬ顔で足をぶらつかせていた彼女だったが、やがてこらえきれなくなったのか、頬を痙攣させた後、たまらず吹き出した
「笑うなよ、あんなに恥をかいたのはきっと生涯これきりだ」
大笑いする彼女に、僕は不服の語勢を含んだ言葉を投げつける
「ふふふふっ・・・・・・だろうね、あれは本当に傑作だったよ」
「酷いな、君がさせたことだぞ」
「まさかあんな夜中にやるなんて思わなかったから・・・・・・ふふふははは!」

初めて手紙を拾った日、折りたたまれた紙片にはこう書かれていた
『初めまして患者様、上の階の者で御座います。本日は患者様の息災のお見舞いと、当院への入院へのお祝いのご挨拶をする為、拙い筆を執らせて頂きました。此のような事を申し上げるのは不謹慎極まりないとも存知ますが、無礼を承知で記しますと、当院は優秀な医師、技術、機材が全て揃っており、必ず他の病院よりも勝っていると確信しております故、此度の患者様の完治は間違いのないことをお約束いたします。唯一足りないものといえば、退屈な入院生活に華を添える文通相手、といった所でしょうか。近々当院ではこの問題を解決する為、近々優秀な文通相手をご用意させて頂く予定です。患者様の心の健康の為、是非ともご利用下さいませ』
『追伸:ご利用の際は本日中に病室の窓を開け、お好きな歌を一曲歌って頂きたく存じます。歌が終わりますと契約終了となり、専属の文通相手が貴方の入院生活を支えます。面倒な手続きや書印は一切必要ありませんが、出来る限り大きな声で歌って頂きたく存じます』
手書きのそれが正規の文書でないことはすぐに分かった
だが僕はこの文通相手を薦める広告の文句に、奇妙なまでに心を惹かれたのだった
特別病棟に集まるのは重病、難病を患った者、僕のように命に関わる大怪我をした者、心の病を抱えた者と様々いる
その中では死を意識する患者も珍しくなく、建物の中ですれ違う患者同士は目を合わせず、言葉を交わさずが暗黙の了解であり、なんとなく病棟全体が陰鬱な気分に包まれていたのだ
いつ終わるか分からない治療の中で、一息つける何かが欲しいと思ったのもあるが、何よりこの病棟の中で、戯けた様子の手紙を患者に渡して文通しようとする勇気ある上の階の住人について、どんな人物であるか知りたいという思いがあった
そうしてまんまと手紙に乗せられた僕は、柄にもない勇気を出してみたのである

「あの歌、結局何だったの?あまり聞いたことのない曲だっだけど」
「ねだられたって教えるつもりは無いよ。僕にはもう過ぎた話だ」
「まだちょっと覚えてるよ。ええとなんだったかな、みーどーりーにー・・・・・・」
「止めてくれ、折角治りかけた傷口が開いてきそうだ」
「ふふ、良いんじゃない?もう二週間くらいは入院期間の延長ができるかも知れないよ?」
「傷の治った体でそう言われれば願ってもみない話だけどね、実際に痛いのは御免なんだ」
ただ僕がこの文通相手と契約を結ぶまでには、ほんの少しの問題があった
一つは僕が手紙を見つけるのが早すぎたこと
彼女は夜の決まった時間に手紙をベランダに投げ入れ、下の階の者が翌日の朝にそれを受け取ることを理想としていたらしい
ところが僕が手紙を拾ったのは夜、彼女が投げ入れた直後だった為、手紙に書かれた『本日中』というフレーズに焦った僕は、十一時を回ろうかというのにも関わらず、ベランダに出て大声で歌を歌ったのだ
「そろそろ教えてくれたっていいと思うんだけどなぁ。なかなか良い歌だったよ?どうもこう、懐かしくて、お腹の底にずんと来るような・・・」
「あれは墓場まで持って行くって決めたんだ。ばれたらきっと、君は今より僕を笑うだろうからね」
「だったら僕はお兄さんの墓場まで行って、意地でも何を歌ったのか聞き出さなくちゃ」
「人生の終わりくらい、安らかに眠らせてくれたっていいんじゃないか?」
「お兄さんの人生の終わりに歌を捧げたいんだ。なんなら添い寝くらいはしてあげてもいいよ」
「冗談は止してくれよ。君にあの歌を墓前で歌われたら、とてもじゃないが寝ていられない」
もう一つは、焦った僕は何を歌えば良いのかという事ばかり考え、その後のことを一切計画していなかったこと
数十秒考えた末、僕が歌ったのは、何故か母校の校歌であった
そしてたまたまその時下の患者が起きており、窓を開けており、そこにはたまたま看護師も同席しており
気でも触れたのかと思われたのか、深夜だというのに男の看護師が三人も僕の部屋に駆けつけ、どうされましたか!と矢継ぎ早に叫ばれ、ベランダから引きずり出されたことは、まだ良い思い出とは言えそうにない
「心配いらないよ。目を覚ますのはお兄さんだけ、近隣に迷惑はかからないし、何ならそのまま生き返ることだってできるかもしれないよ」
「遠回しに僕が結婚できないとでも言いたいのか」
「驚いた。お兄さんにも結婚願望があったんだ?」
「見くびるなよ、僕だってこう見えて一応は男だ。期待はしてないが夢くらい見させてくれたって良いだろう」
人生何が起こるか分からないし、と僕が言うと、歩き回る影にすぎない、と彼女は笑って言った

またしばらくの沈黙が続いた後、口を開いたのは彼女だった
「お兄さんが初めてだったから。歌を歌ってくれた人」
「え?」
少し驚いて僕が彼女を見ると、彼女はまた病棟を見上げていた
「今までも何回か手紙を渡していたけど、無視されたり、気付かれないまま風に飛ばされたり、捨てられたりしてた。ここの患者さん達は皆、自分のことで手がいっぱいだから、きっと僕の手紙まで持っていられないんだろうね」
少し迷って、その人達を恨んでいるか、と僕は聞く
彼女は首を横に振った
「恨んだりなんてしないよ。当然だと思った。だからお兄さんの歌が聞こえた時は、本当に嬉しかった」
少しはにかんだ様子で話す彼女を見て、僕はようやく、彼女が僕との別れを惜しんでいるのではないかという考えに至った
「・・・・・・僕が退院したら、別の文通相手を探すのかい」
「それも悪くはないんだけどね」
口元だけで笑った彼女は、座り直しながら言った
「でも文通はもういいかな。次いつ成功するか分からないし。正直こうして昼間会うより、手紙を出すときの方がずっとハラハラするし。どうせなら成功した思い出を最後に終わりたい」
「成る程・・・・・・つまり僕が、君の最初で最後の男って訳だ」
僕が戯けてそう言うと、やっと僕に向き直った彼女は言った
「光栄に思いなよ?僕は見た目以上に一途なんだ」
しばらく考えた後、僕も随分と罪深くなったものだ、と言ってやった
彼女は笑ったままだった

別れ際、飽きもせずに病棟を眺める彼女に、僕の病室を見ているのかと尋ねた
彼女は自分の病室だと言った
そのまま去るのも口惜しかったので「また会いに来る」とも言った
彼女はしばらく黙っていたが、やがてうっすらと笑みをこちらに向けると、一言「待ってる」とだけ言い残し、自分の病室へと帰っていった
ようやく僕は、僕が彼女との別れを惜しんでいるのに気がついた
僕は最後まで彼女の名前を知らず、彼女は最後まで僕の名前を知らなかった

彼女が亡くなったと知ったのは、退院後ほどなくしてのことだった

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