人類は月へ行ったか

「なぁ、アポロって知ってるか?」
昔、一人の友人がいた
彼とは幼い頃に会ったきりで、今となっては名前も思い出せない
だが、あの日の出来事だけは、不思議と鮮明に記憶している
「アポロ、知ってるだろ?宇宙船だよ。テレビでよくやってる、月に行ったってやつ」
そいつと僕はかなり仲が良く、放課後は二人で近場の海岸へ遊びに行くことが日課になっていた
仮に彼をカイと名付けよう
カイは随分と変わった奴で、無邪気で無鉄砲で、子供らしい性格をしている反面、唐突に何やら小難しい奇妙な話をすることがあった
大人に憧れて「ませた」言動をしてみていたのか、或いは彼が僕の思っているよりずっと賢い人物だったのか
考えたところで確かめようがないが、ともかく彼はそういう奴だった
さる日も僕らは海岸へ向かい、一通り遊び回った後、砂浜に寝転んで小休止をとっていた
心地よい疲労感と、えも言われぬ眠気に目を細めていたとき、唐突にカイは「アポロ」なるものについて語り出したのだった
「知ってるよ。アームストロング船長のだろ?」
こういう時、僕は持てる知識を片っ端から総動員して相槌をしていた
別に彼の演説を熱心に聴きたい、という訳でもなかったのだが、同年代の子供としての自尊心と競争心があったのだ
「凄いよなあ、宇宙時代の到来。またすぐに別の人たちが月へ行くし、人が宇宙に住むのも、あと10年そこらって話だろ?」
僕は立て続けに、昨日のニュースで専門家から聞きかじったことを、さも知った風に続けてみせた
当時海外で開始されたアポロ計画は、我が国でも一躍話題となっていた
勇敢な宇宙飛行士達が月面着陸を成功させて以降、彼らの勇士は連日連夜絶えることなく報道されていたものだ
「で、そのアポロがどうしたんだ?」
僕が訪ねると、カイはしばらく黙って空を見上げた後、
「アポロはさ、本当に宇宙に行ったのかな」
と呟いた
「どういう意味だ?」
と僕は訪ねた
「例えば、さ」
カイはそう言うと、おもむろに砂浜の砂をひとつかみした
「俺たちの住んでる場所には、地面があって、空があって、宇宙はその向こう側にあるわけだろ」
「ああ」
「でも例えば、俺たちが海底に暮らしていたとしたら、俺たちにとっての地面は海底だよな」
「まぁ、そうなるよな」
「じゃあひょっとして、俺たちが今、空気だと思っているのは、実はただの海水で、月に行ったってのも、実際は海面から顔を出して、どこかの島の浜辺に辿り着いただけなのかもしれないよな?」
「・・・・・・それで?」
正直なところ、僕の頭はこの辺りで既に限界だった
何せさっきまで魚や虫を追いかけ回すことばかり考えていたのだ
それが急に地面だの海底だの、挙げ句に空気は水ときた
とはいえ、ここで聞き返すのもなんとなく野暮なように思えたし、自分のついてゆけない、よくわからない退屈な話をいち早く切り上げたい気持ちもあったので、とりあえずそれらしい口ぶりで話を合わせてみることにした
そんな僕の心の内も知らず、カイはやや興奮気味に話を続ける
「例えば鳥だ。俺たちは鳥が空を飛んでいると思っていても、陸地の奴らから見れば魚が泳いでいるように見えてるのかも。空に見える星も、実際は上の方にいる生き物の目玉とかかもしれないぜ?」
「星が生き物の目玉、ねぇ」
「宇宙時代、なんて言ってるけど、俺たちはまだ、地球の中にいるのかもな」
何を馬鹿な、と思ったが、僕は言わなかった
お前はどう思う?と先にカイが聞いてきたからだ
僕は何と答えたのだったか、確か―――

「――――確か、僕はその辺りで寝てしまってね」
ちらりと腕時計を確認する
そろそろ終わりの頃合いだろうか
「まぁ何せ、当時の僕には退屈で長いだけの話だったんだ。興味のない情報をひたすら聞かされる時間というのは、眠くなるのが世の常だろう?」
そう言いながら最前列でうたた寝をしていた学生を起こしてやると、講堂のあちこちから笑い声が漏れた
僕は寝起きの学生に「おはよう、もう終わるところだ」と笑いかけると、再び教壇に立って話を続ける
「ただね、今なら彼の話をもう少し面白く聴いてやれそうなんだ。勉強というのは、それ自体は面倒で面白みのない作業だけれど、他の退屈な物事を楽しく見られるようにしてくれる。何気ない日常や当たり前の常識に『本当か?』と問うための力をくれるんだ。君たちも今日の講義内で勉強したことを活かして、今日からは退屈な空に生き物の影を探してみて欲しい」
言い終わるや、ちょうど時刻を知らせる鐘が鳴ったので「今日はここまで」と生徒達を解放してやることにした
大学での教鞭に慣れるには、まだまだ時間が掛かりそうだ
帰り支度をしていると、女学生が一人僕の元へとやって来た
「先生、先日のお約束していたレポートです」
「ああ、水田さん。いつも仕事が早いね」
僕は彼女の触手から紙束を受け取ると、感謝の印にあぶくをひとつ作ってみせた
窓の外には、相変わらず真っ暗な空が広がっていた

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