ねじれた魔法を解く方法 9
夕方、カズマとプールから帰ってきて、何かあったことはすぐに分かった。
職場の雰囲気と、子どもたちの雰囲気が全く違う。どうとは言い難い。それぞれが、それぞれ、何かを隠そうとしている。
「樋口さん、何かあった…?」
小学生以下の子どもたちを布団に見送って、カズマも寝かしつけた後、年上の子どもたちはそれぞれ宿題やテレビを見ている。最短で話しかけられるタイミングがこんな後になってしまった。
同僚の樋口に事情を聞こうと、宿舎の玄関にこっそり呼びつける。
樋口がすこし目を泳がせた後、どうせ分かることだろうとため息を付いて、オレに今日の出来事を話した。
「北原くんのお父さんが今日施設に来て、新人の事務の子が入れちゃったみたいで。たまたま北原くんは不在だったけど金城くんは居てくれて、子どもたちも居なくて、金城くんの迫力で追い出してくれたって言うか…。
でも、その後しばらくして帰ってきたトウマとサキが左頬を赤くしてて、すぐに冷やしたから腫れは引いてるけど、叩かれたような跡だったの」
「それさ、何でオレにすぐに報告しないの?」
イライラした。なぜ自分の親のことでこんなにも周りに迷惑をかけているのに、自分だけ蚊帳の外なのだろう。自分への怒りを樋口に向けたって八つ当たりなだけで、何も知らずにのうのうとカズマと楽しんでいた自分に一番腹が立っている。
だけど、違う、よな。
「…ごめん、今の言い方は間違いだった。」
オレがすぐに樋口を責めたことを訂正すると、樋口が「いや、北原くんが子どもたちとか私達の雰囲気が違うことすぐ気づくのは分かってたのに何も言わずに終えようとしたのは私だから、…すみません」と、すぐに謝った。
「それにしてもよく気づくね」
「気づかないとでも思う?」
サキが一人になろうと静かにしているのは時々あるが、食事中はあんな少し混乱しているような目を泳がせる素振りはしないし、トウマも山程話しかけてくるのに、至って今日は静かだった。なにかがあったに違いない。
「子どもたちにそんな思いをさせてたなんて、施設保育士として最低なやつだと思うよ。サキとトウマに謝らないと。」
「二人とも北原くんを責めてないよ」
「オレの気がすまないの」
そう伝えて、部屋に戻ろうと踵を返した時、ふと気付いた。
「オヤジの相手、するの大変だっただろ…。ごめんな…。ありがとう。」
目を泳がせて謝ると、樋口は「いろんな親で慣れっこだから大丈夫」と笑った。気にしなくていいと言外で言ってくれる。オレは「ウン」と、頷いて部屋に戻った。
トウマは布団に入っていた。まだ、昼間にあったことを覚えているからか、暗い中でも眠らずに二段ベッドの下で、カズマと並んで横になっていた。カズマはさっきオレが寝かせた。
「トウマ…」
いつもはちゃんと二段ベッド上の自分の布団にいる。カズマと一緒にいる時は、心が揺れているときだ。
「今日、怖い思いをしたか?」
回りくどく言わずに直接的に聞いてしまう。トウマがコクンと静かに頷いた。
「ごめんな。兄ちゃんのお父さんが悪いやつだから、怖い思いをさせちゃったな…。叩いてきたか?」
もう一度うなずく。なんて怖い思いをさせてしまったんだろう。やっと普通の生活を手に入れようとしている子どもになんて思いをさせてるんだ…。
手が震えて、声も喉で詰まる。
「トウマ、ごめんな…。兄ちゃんのお父さんがろくでもないやつでごめんな…。痛い思いをさせてごめんな。」
カズマの奥で横になっているトウマの頬を撫でる手が小刻みに揺れる。
トウマが俺の手にまだ小学生の小さな手を重ねて「ううん。怖かったけど、サキちゃんもいてくれたから。サキちゃん助けてくれたから」と、一言話して、オレの手と今日のモヤモヤを話せた安心感ですっと一瞬で眠ってしまった。
もう、こんな思いはさせないからな、トウマ。
男子の部屋を出て隣の女子の部屋に行く。小学生以下の子どもが寝てる中、サキは勉強をしているのか、ポストイットに何かを書いて机にしまっていた。
「サキ」
部屋の柱をコンコン、とノックすると、大きく肩を揺らして驚いた様子だった。
サキには触れないほうがいいかもしれない。直感的にそう思いながら、こちらを振り向いたサキに「ちょっと話してもいい?」と声をかける。
サキは頷いて、百均で買ったホワイトボードを持ってくる。がむしゃらに洗ったのか、裏のダンボールが濡れてボコボコになっていて、使えるかどうかも怪しい。
サキは部屋の境界線に立って、“なあに”と書いた。が、マーカーも濡れてインクも出なくて、ペン先が軌跡をたどるだけだった。
サキはホワイトボードとマーカーを部屋のゴミ箱に捨てると、机の引き出しからノートとシャーペンを持ってきた。
“なぁに?”
改めて書き直す。立っていると書きづらいのか、しゃがんでいる。オレもしゃがんで、「今日は怖い思いをさせてごめんな」とサキに言った。“ダイチお兄ちゃんのせいじゃないよ”サキが言う。
「オレのオヤジに叩かれたろ?」
“でも、あのおじさんがクソな大人なせいだよ”
「そりゃ知ってるな。でも、痛かったろう?」
“もういいよ”
そう書いたサキのペン先は震えていて、安心した様子はあまりなさそうだった。
「他に怖いこと言われたか?」
“ない”
オレが訊くとサキは即答した。
「どうして叩かれたんだ?」
“知らない。イライラしてたみたい”
何で、事情を話さない?今異性のオレと話してるからか?
「ほかに、なにか伝えたいこと、ある?」
ユキがサキに尋ねる。
“ユキさん?”
「うん。」
私がうなずくと、サキは少しホッとしたみたいで、またシャーペンを走らせた。
“怖かった。”
「うん、ごめんね…」
サキはあんまりダイチには心を開いてないから、私が聞いてみる。
「もう、怖い思いはさせないからね。」
私がサキをじっと見ながら言うと、サキの目はじわっと水の膜を張って、ポロッと下まつ毛から一粒涙をこぼした。
“うん。ありがと”
鼻をすすりながらサキがノートに書いた。
「困ったら、怖かったら、私でもダイチでも言っていいからね」
“うん”
ノートにそれだけを書いたサキの頭を撫でる。
私は大切なことを聞けていなかった。
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