見出し画像

麒麟の居場所

書店で『東京の生活史』(岸政彦監修, 筑摩書房 2021)を立ち読みした(私が知る限り、最大量のページ数および厚みがある本のため、購入する気はない。関係者の皆様には申し訳ないが…)。150人の語り手に、150人の聞き手がいるという唯一無二の聞き取りの中で、気になるものがあった。
「私の人生には、たくさんの麒麟がいる」というタイトルが付されたもので、語り手はイヴァンカ・ギヨームさん/聞き手は末松史さんがされている。

イヴァンカさんは、日本の障害者運動(の中でも、おそらく特に女性障害者)の研究をなさっている方(書を読む限り、車椅子ユーザーだと拝察)である。
イヴァンカさんご自身は自らの障害について、特筆すべきことは何もないと考えていらっしゃるように読める。ただ、周囲が「障害」を理由に勝手にあれこれ決めつけることに対して、強い違和感を抱いているという趣旨の話をされている。「私の人生には、たくさんの麒麟(その昔、麒麟は人々の想像上の造形動物であったことに由来する)がいる」とは、そういう訳である。


読みたかったイヴァンカさんの語りだけ読み、帰路についた。
自宅の最寄り駅で、数時間前に読んだイヴァンカさんの語りと、まさに同じ経験をしたのである。

いつものようにエレベータを待っていたら(車椅子の私を見て)「ケガしたの?」と、声を掛けられた。「いえ、生まれつきです」と(いつものように)答える。脳性麻痺の説明が面倒なことに加え、相手もそれを求めているわけではないので、いつも同じ答え方をする。
すると「まあ……。お気の毒に」と返ってきた。私自身としては、まったく気の毒でも何でもないので「いえ、もう慣れですから😊」と返す。そうしたら、今度は「強いわね」と返ってきた。

この「ケガしたの?」から「強いわね」までの一連のやり取りは、おそらく多くの車椅子ユーザーが経験している、いわゆる「あるある」だと思う。これまでも数え切れないほど同じ答え方をしてきたし、これからも(今後しばらくは)するだろう。

自分で言うのも何だが(たぶん実年齢よりは歳下に見えるのだろう)「若い女性」が車椅子ユーザーであることは「気の毒」であるか「可哀そう」なのだ。少なくとも今日、私に声を掛けてきた方にとっては、そうなのである。その相手が「いいえ」とニコニコしながら返せば、それは(心が?気持ちが?)「強い人」となるのである。

何十回、何百回と繰り返してきた、このやり取り。もはや、私には「暑いですね」「寒いですね」と同じ、時候の挨拶である。とは言え、やはりここにも麒麟がいる。車椅子ユーザー=「気の毒」とは、想像による造形に過ぎない。分からないからこそ想像するしかないのだが、それによって麒麟が生まれる。

障害者に限ったことではないだろう。きっと、麒麟はどこにでもいるのである。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?